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ムハンマド・ベルタギーとエジプト議会選挙

エジプト情勢の記事をUpします。

記事を書いたのはロバート・F・ワース(Robert F.Worth)さんです。元記事はここにあります。

ムスリム同胞団のリベラル派、ムハンマド・ベルタギーさんの記事です。

~~ここから~~

エジプトの先導者

この冬のある夕方、ナイル川デルタの農村地帯にある町カリュビヤ(Qalyubiya)の狭い表通りを、灰色の三菱社製セダンがゆっくりと進んでいた。自動車の周りは、大声で果物を売る商人やガタガタとロバに引かれる荷車、色のついた何本もの光の筋、小さなパン屋や肉屋が取り巻いている。選挙のポスターが所狭しと貼られていた。遠くの小さなラウド・スピーカーから誰かが大声でがなりたてている。「神様はお喜びだ。私達は直ぐにも社会正義の元に暮らせるようになる。革命は私達が平等だと教えてくれた。」選挙イベントでモスクの外に大勢の人々が集まっている場所へセダンは到着し、後ろのドアが開いて深い眼窩と広い額の魅力的な人物が降り立った。「来た!彼だ」誰かが叫んだ。「革命の英雄!」殆ど即座に、つぶやき声がさざなみのように広がり、男は熱狂的なファンに取り囲まれた。がっしりした2人の護衛が男の腕をつかみ、群衆をかき分けて前へ進む。彼が微笑んで手を振る中、群集は唱和した「神は偉大だ!」そして明るく照らされたステージへと道を開けた。「自由と正義!明日我々は強くなる!」

皆が注目するその男こそムハンマド・ベルタギー(Mohamed Beltagy)、エジプト革命の中心的指導者の一人で、おそらくはこの国で最も多才で活動的な政治家だ。彼はムスリム同胞団のシニア・リーダーでもあり、同胞団の他の同僚達と異なり、タハリール広場の抗議運動に対する断固とした支持で多くのリベラル派からも好感を持たれている。しかし、イスラム主義者と世俗主義者がさらに激しく対立しつつあるこの国で、両者の間を行き来できる能力は、彼の立場を次第に不安定なものにしつつあった。彼は同胞団との繋がりを抗議運動の強硬派から批判され、革命を声高に支持する事で同胞団内部で叱責を受けていた。彼の外見さえもが彼を特別な人物にしている。49歳のスリムで若々しいベルタギーは、お腹が出てパッとしない髭面の同胞団幹部と並ぶと目立つ存在だった。ダーク・スーツをきて粋なネクタイを締めた彼は、カイロから来た派手な法律家の様に見える。しかし彼の額には敬虔なエジプト人の印しであるザビバ(zabiba)、お祈りダコが付いている。

「警官や軍は、何故日曜日に抗議運動を暴力的に攻撃したのか?」彼はカリュビヤに集まった数千人の群衆へ、最近タハリール広場で軍が行った弾圧について問いかけた。「彼らがああした行動に出たのは危機を作りたいからだ。軍は殺戮を止められた。しかし止めなかった。」群衆が同意の掛け声をあげる中、ベルタギーは続けた。彼が掲げた要求は同胞団が容認するレベルを超えたものだった。「私達は直ちに大統領選挙を行わなければいけない。」彼は叫んだ。「そして軍を兵営へ返すのだ。私達は真の大統領を要求する。真の議会を要求する。全ての警備組織を監視する力を持ち、軍事評議会をも監視できる力を持つものをだ。私達はあらゆる後見人を拒否する!」群衆は立ち上がり、彼の言葉が終わる前にスタンディング・オベーションで答えた。この演説の数日後、同胞団の党である自由と公正党はエジプト議会選挙で勝利を収め、全議席の半数近くを占めた。これは新たに結成されたイスラム系政党が北アフリカで収めた一連の勝利の最新のものだ。この運動で最もリベラルでカリスマを持つ人物ベルタギーは、自然な成り行きで外交官でもあり、エジプトの民主主義へと向かう混沌とした苦闘の中、次なるフェーズでの主要な役割を演じようとしている。

しかしながら彼は先ず、同胞団の中で生き延びねばならない。同胞団は80年以上この時を待っていた。老獪な指導層はその現実主義と用心深さで有名だ。そしてベルタギーの軍事評議会に対する対決姿勢を深く憂慮している。同胞団の秘密主義的で階層的な構造は外部からはとてつもなく解り難い。しかし数名のメンバーとアナリストが私に話してくれたところでは、ベルタギーは直ぐにも脇へ追いやられるはずだと言う。彼らの話では、指導層はベルタギーの広言癖を容認せず、軍による弾圧のリスクも受け入れ難いと言う。ベルタギーのスタンスがどれほど若者やエジプトの街路で人気があろうともだ。

別の言葉で言えばベルタギーは、何十年もの潜伏後にエジプトでの支配的政治グループとなったムスリム同胞団のアイデンティティー・クライシスを体現した存在だと言える。はたして同胞団は、狭いイスラム教の行動指針を守る為にベルタギーを縛り付ける、あるいは脇へ追いやるのだろうか?今や初めて、開かれた民主的討論の中で競わねばならない同胞団が、彼ほど人気ある存在を退ける事が出来るのだろうか?エジプトのイスラム運動に対する最も鋭い分析家の1人カリル・アナニ(Khalil Anani)は私に語った。同胞団はあと数カ月以内に重要な選択を迫られるだろうと。「同胞団と軍は延び延びになった対決を控えている。」彼は言う。「ひとたび対決が始まったら、リベラル派や世俗主義者とどれだけ協調できるかが大きな鍵になる。」ベルタギーは協調の為にはきわめて重要だ。しかし同胞団には別の選択肢もある。リベラル派を切り捨てて軍と取引をするのだ。宗教的問題に対して譲歩してもらう代わりに軍の支配継続を受け入れるのだと、アナニは言う。しばしばサウジ・シナリオと呼ばれるこの可能性は、リベラル派の悪夢だ。エジプトが軍人と宗教指導者(Mullah)に支配されると言う見通しだ。

エジプトの革命物語はいつもタハリール広場から始まる。それはカイロ中心部の涙滴型のプラザだ。去年1月25日ここで抗議運動が始まった。ワエル・ゴーニム(Wael Ghonim)のような若い中堅の活動家が革命の顔となったのはこの場所だ。しかしエジプト政治の中心に対するより正確な感覚を得る為には、数マイル北のショブラ・エル・ケイマ(Shobra el-Kheima)へ行くと良い。そこは埃にまみれた労働者階級の地区でムハンマド・ベルタギーが診療所を開いている場所だ。その町はカイロの「無計画型郊外都市」の一つだ。それはここ数十年の間に首都周辺に形成されたスラム街の別名だ。古い灌漑用運河の周りに建てられた雑多な家々。下水とか電気とかは後付けだ。高く突き出た煙突が、辺り一帯の醜いコンクリートのアパート群の上に灰色の煙を吐き出している。大気はハッキリわかるほど、カイロの他の場所より煤けている。多くの住民は服飾工場で給料の安い仕事についている。ここの住人は、前大統領ホスニ・ムバラクが統治した長い年月の間、彼が構築した利益供与のネットワークから何の恩恵も受けていない。多くの人間は生活を民間の慈善事業に深く依存している。実際のところ、それはムスリム同胞団に依存している事を意味している。

ベルタギーの診療所は、医療機関ばかりが入った10階建てのコンクリート・ブロック・ビルの3階にある。私がそこに着いたのは月も出て無い水曜日の夜9:30だった。一個の黄色い白熱灯が、泥が飛び散ったエラベーター・ホールで待つ群衆を照らし出していた。私は半分照らされた階段を、よろける老人や病気の子供を抱えた親とすれ違いながら登った。色とりどりのポスターが、癌から禿の治療まで、あらゆる薬を宣伝している。建物の中でさえ、表を通る車の警笛がけたたましく響いていた。あまりにうるさいので一人の医者に何か起きたのかと訊いてみた。たぶん選挙の熱狂だろうか?彼は首を振って弱々しく微笑んだ。「ようこそジョブラ・エル・ケイマへ。」彼は言った。

ここにいる誰にでも、ムハンマド・ベルタギーの名前をあげると、はっきりとした笑顔で答えてくれる。「彼は素晴らしい人です。」年配の女性が私に話してくれた。「お金を払えない人にはただで診てくれるんです。あの人に神様のご加護がありますように。」他より少し大きくて清潔なベルタギーの診療所は、同胞団の党である自由と公正党の土地の事務所の下にあり、彼の政治活動の聖地のような存在になっている。壁には彼が宗教指導者や政治家を迎えた写真が数多く貼ってあり、その中にはハマスのリーダー、ハリド・メシャル(Khaled Meshal)の写真もある。その時診察室は空だった。机には古い型の聴診器が置いてあった。選挙活動は彼の殆どの時間を奪ってしまっているようだ。

「ベルタギー博士は子供の頃からいつも頭抜けていたよ。」アンワー・ハミド(Anwar Hamid)は私に言った。彼は9階の診療所で働く栄養士だ。中年で痩せたハミドは同胞団のベテランで何十年もベルタギーを知っている。「何時もペンを片手に新聞を読んで、概要をノートに書いていたんだ。」ハミドは言う。「自分が明確に理解している事を確かめたかったんだろうね。いつもクラスで1番だった。医者としても面倒見がとても良いので信頼されている。皆に重んじられているんだ。」

同胞団はエジプト内外の批判者から、熱狂的狂信者をメンバーに持つ秘密結社として描かれる。しかしベルタギーを含む同胞団内の多くの政治指導者は、自分たちを鼓舞するものを、信仰心では無く経済的苦境から引き出しているように見える。ベルタギーはカフル・ダワー(Kafr Dawar)で育った。ジョブラ・エル・ケイマとさして変わらないエジプト北部の産業都市だ。7人兄弟の6番目で服飾工場で働く労働者の息子だった。「父はただの労働者さ。ボスじゃなかった。」彼は私に話した。「でもいつだって労働者の権利の為に戦っていた。どんな結果になろうともね。大きな影響を受けたよ。学校から帰ってくると、父はいつも工場の仲間の労働者達や彼らの苦難について話してくれた。何時もそういう生活だったんだ。」去年ベルタギーが出した、自分の議員生活を書いた本の献呈の辞に、私は次のような文章を見つけた。「父の魂に捧げる。父は私に真実を語る事の大切さを教えてくれた。たとえそれが苦いものであったとしても。そして欺瞞に対して立ち上がる事を教えてくれた。たとえ1人きりであったとしても。」

ベルタギーは16歳で同胞団に入った。彼自身の言うところでは、宗教的に悟ったからでは無い。むしろ同胞団の草の根の浸透力と組織力に惹かれたからだった。「同胞団は人道的な財産で国にとって良いものだった。」彼は私に話した。「数多くのフィールドで数多くの能力を持っていた。」この言葉はベルタギーがコップの中の左翼である事を意味しない。彼は同胞団に深く関与した。しかし、イスラム法の刑罰を導入する事や、女性にヘッド・スカーフを強要する事が良い事だと信じているのかどうか彼に尋ねた時、彼は次のように答えた。「私にとってイスラムを公的な生活に導入する事は単純に、正義と、正しい生活の基準を打ち立てる事を意味しているんだ。」彼は言った。「人々の幸福の為だ。制約を課したり惨めにする為では無い。何人かの西洋の人々は、いわゆるイスラム・モデルの政権に神経を尖らせる。しかしそのモデルは外見からイスラムを規定しているんだ。イスラムに対するそういった見方に私は興味無いんだ。」

同胞団が2005年の議会にベルタギーを推したのは、ショブラ・エル・ケイマの住人達が彼に寄せる労働者階級のヒーローとしての名声故だった。彼は地滑り的勝利を収めた。同胞団のメンバーが相当数の議席を占めたのは初めての事だった。実際には議会に力は無かった。殆どの議員が議会を上辺だけの物として扱った。しかしベルタギーは自分の新しい役割を政府を苦しめる為に使った。彼は腐敗を非難し、富裕層への税優遇措置を非難し、フェリー事故で政府が貧しい犠牲者を無視した事を非難した。2010年5月、政府が非常事態法を更新しようとした時(同法はこの30年間警察に、自由に容疑者を逮捕し投獄する殆ど全能の権限を与えていた)ベルタギーはエジプト憲法のコピーを振り回し、同法の支持者を声の限りに罵倒した。数分間怒鳴り続けた後、彼は心臓発作で倒れた。

彼は直ぐに回復したが、心臓発作の話は広く伝えられた。この話はムバラクの不正に対する彼の怒りの大きさの証明だった。医者は彼に興奮しないよう警告した。しかしその同じ月に彼はイスタンブールへ飛び、マヴィ・マルマラ(Mavi Marmara)号に乗船した。その船は、イスラエルのガザ地区海上封鎖を破る、トルコ主導の努力を象徴する船だった。それは危険な航海であり、イスラエル軍との流血の惨事で終わり、世界中の新聞のトップニュースとなった航海だった。ベルタギーは3月31日、夜明け前の薄明かりの中、イスラエルのヘリコプターが降りてきた時、船の後部甲板に立っていたと私に話した。大きな爆発音がして火柱が空に立ち上がった。ロープを伝って武装兵が降りて来た。活動家達が彼らを押し戻そうとしていたが、直ぐに流血の惨事が始まった。「人々が甲板に倒れるのを見た。周りにいた皆が倒された。」彼は言った。「銃声と悲鳴が聞こえた。」誰かがベルタギーの腕をつかんで下の甲板へ降りるように言った。「私は行った。でも逃げたんじゃ無い。怪我人を手当てする医者が必要だったんだ。」9人の活動家が殺害され、何ダースもの人間が負傷した。その中には10名のイスレエル軍兵士も含まれる。イスラエルが船を乗っ取ってから、彼らはベルタギーに手錠をはめた。他に数名いた同胞団議員も同様だった。彼はエジプトに送還された。エジプトでは新聞が彼の活躍を大々的に報道して彼の名声を高めた。

ある意味、ベルタギーが地方から議会へと昇ってゆく物語は、ハッサン・アル・バンナ(Hassan al-Banna)の最初の頃の旅路をなぞっている。彼は教師で、1928年にムスリム同胞団を設立した人物だ。彼自身が後に書いているように、バンナは最初ただの若者としてカイロにやって来た。そして当時の政治情勢を「敬虔な村人の目」で捉えた。彼は自分の作ったグループを大きな運動として構想していた。信仰を社会的経済的正義の鍵として説き、エジプトの強力な労働組合に深く根を下ろした。第一次大戦の終わりにオスマン・トルコ帝国が崩壊し、イスラム教のカリフの地位が消滅した時、バンナはイスラムが宗教的文化的アイデンティティーを失う事を恐れた。しかし同胞団の目的は又、本質的に政治的なものでもあった。そしてその急速な成長は、エジプト政府と衝突するコースを突き進んだ。1949年バンナは政府のエージェントに殺害された。そして1954年、エジプトの新たな指導者、ガマル・アブドゥル・ナセル(Gamal Abdel Nasser)の暗殺に失敗した後、運動は禁止され、何千人ものメンバーが投獄された。それ以来、同胞団は融和的政策を追求する。しかしその多くのメンバーは内にこもった。同胞団は二つの役割を巡って分裂した。民主主義を求める宗教的運動を行うグループと、より秘密のグループ。過激なスピンオフ集団と共にイスラム法の導入を目指すグループだ。

ベルタギーが成人する頃にはその状況は変わり始めた。現在の同胞団のシニア・リーダー達と異なり、彼は長い投獄生活を送っていない。彼は又、エジプト政府との静かな取引を模索する慎重な姿勢も欠いている。その意味において、彼はシニア・リーダー達とよりも、はるかに多くのものを、より若く世俗的な人間達と共有している。例えば彼の古い友人、アイマン・ノウア(Ayman Nour)のような人物と。ノウアはおそらくエジプトで最も知られた反体制派の人物で、2005年ムバラクに対抗して大統領選挙に打って出た事で投獄された。ベルタギーとノウアはしばしば、エジプト政界における、あまり似てない双子と称される。一人は確固としたイスラム教徒。もう一人はリベラルな世俗主義者。しかし意見が一致しない事はあまり無い。二人は30年前、学生時代の政治活動で協力し合った。そしてここ数年は、同胞団政党と世俗グループ連合間の共闘を維持する鍵を握る存在だ。

「本当の事を言うと、僕は彼を同胞団だとは思ってない。ムハンマド・ベルタギーだとしか考えていないんだ。」ノウアのアパートを訪ねたとき、彼はそう私に話した。アパートは薄暗いガランとした場所で美術の小品が沢山置いてあった。場所はカイロ中心部の優雅に隔絶した場所、ザマレク(Zamalek)の横町にある。2010年11月、ノウアはムバラク政権下で行われた最後の議会選挙をボイコットした。選挙が不正にまみれたものに成ると知っての行動だった。しかし彼は一人の人物の選挙運動を助けた。ベルタギーだ。選挙当日の夜、2人が外に立って話していた時、「誰かがフットボールくらいの大きさの石を投げて来たんだ。2人の鼻先をかすめて行ったよ。」ノウアは私に言った。「神の御加護で逸れたけどね。どちらかを殺そうとしたんだと思うよ。」

ベルタギーの自宅は、カイロ東部に新しく出来た中産階級用住宅地の未舗装な通りに面している。ノウアのザマレクにある人目につかない家に比べて、あまりに違っているので私は驚いた。彼は扉の所で私を迎えた後、客間へ通してくれた。客間の壁は余り見たことのない赤と金のパターンで彩られていた。客間は広い部屋だったが、優雅な質素さを持っていた。本棚一杯の医学書以外はあまり家具が置かれていない。彼の妻、サナー・アブデル・ガワド(Sanaa Abdel Gawad)が同席した。16歳の娘、アスマー(Asmaa)も一緒だった。ベルタギーの同胞団の友人が私に話してくれたところでは、彼は家庭では「民主的」であるそうだ。実際彼の妻と娘は、保守的な家庭ではしばしば見られるような、脅かされていて従順な様子は無かった。

サナーは白いスカーフをかぶり、悪戯っぽい笑みを浮かべた落ち着いた女性だった。私の訪問中ある時、彼女は話に加わって、去年警官に踏み込まれた恐ろしい一夜の事を話してくれた。タハリール広場の抗議運動が始まって直ぐの事だった。午前2時半でした、と彼女は言った。彼女と4人の子供は、扉をたたく大きな音と「警官だ!」と叫ぶ声で起こされた。彼女は子供たちを集めて、扉を開けた。1ダースの武装警官がなだれ込んで来て夫の居場所を言えと要求した。「私は知りませんと言いました。」サナーは言う。実際彼は数時間前立ち去っていた。抗議運動への参加を阻止する為に同胞団のリーダー達がエジプト中で逮捕されていると言う知らせを聞いたのだ。「警官たちは全部の部屋を捜索しました。」サナーは私に話した。「2時間半ほど留まって、5つの鞄一杯に書類とか私達の私物を詰め込んだんです。」2人の警官が、疲れたとか文句を言いながら扉のところに立っていた。「一番下の息子が、怖がってないところを見せようとしたんです。」彼女は言う。「息子は訊きました。『この銃はどこのスーパーマーケットで買ったの?』って。」

革命がベルタギーに全国的名声を与えたとしても、その同じ革命が同胞団保守派と対決するコースに彼を押しやった。1月25日の夜、最初の抗議運動が始まって数時間後、同胞団の若いメンバー数人が、メイン・オフィスへやって来た。同胞団の上級者が一緒にタハリール広場へ来てくれると期待したのだ。喜んで行ったのはベルタギーだけだった。実際のところ彼は既に抗議運動に参加していて、帰って来たところだったのだ。数時間後、彼と若い友人たちは催涙ガスで再び広場から追い出された。「数千人の若者たちと広場を離れた時、彼らが帰ろうとしないのを見て驚いたんだ。」彼は私に話した。「通りに留まって唱和しているんだ。『民衆は政権交代を望んでいる』その時だよ、新しい世代が生まれている事を知ったのは。自らの血で歴史を書く力を持った世代がね。」

2日後、抗議運動側がタハリール広場を奪還した時、ベルタギーも一緒だった。彼は広場に留まった。冬の凍てついた土の上に薄いパネルを敷いて、2月11日にムバラクが退陣するまで仲間と共に寝た。彼は広場に留まった唯一の同胞団指導者だった。同胞団が革命を認めるのはとてつもなく遅かった。エジプト各地があからさまに反旗を翻すまでメンバーの革命参加を押し留めた。ベルタギーは革命の実質的スポークスマンとなった。ノーベル賞受賞者でリベラルであると広言しているモハメド・エルバラダイが作った、変革の為の国民協会(National Association for Change)と定期的に会合した。妻と子供を広場に連れて来さえした(そこで寝たりはしなかったが)。彼の息子の内2人はラクダの戦い(2月2日に起きたムバラク支持者との流血の戦い)で負傷している。

ムバラクが追い出された後、ベルタギーは同胞団内外から大勢の支持者を得た。彼と彼の若き革命家達は、より開かれたよりリベラルなイスラム運動を約束する存在に見えた。新たな総理大臣エッサム・シャラフは3月にタハリール広場へ赴き、群衆に向かって自分自身の「正当性を貰いに」来たと言った。彼はベルタギーと共に写真に納まり、その姿は革命を象徴するアイコンとしてエジプト中に広まった。

しかし歓喜の瞬間が去ると共に、エジプトの政治はイスラム教側と世俗主義側が鋭く対立する場となった。同胞団は抗議運動から去り、多くのメンバーは強硬なサラフィ主義者と手を取り、ライバルを神の無い者達と罵り始めた。指導者達は次第に傲慢で勝ち誇った口調を帯び始めた。アレクサンドリア在住で人気のある同胞団の人物、ソビ・サレフ(Sobhi Saleh)は5月に、同胞団は次の政府を支配してイスラム法の導入をするだろうと述べた。彼はさらに、同胞団の人間は同胞団内部で婚姻し子供が内部に留まる事を確実にするべきだとさえ言った。エルバラダイと仲間の世俗主義者は、エジプトがイスラム専制政治へ向かっていると警鐘を鳴らし始めた。

しかし7月に成ると、ベルタギーの若い仲間や、積極的に発言する友人たちは、次第に運動から弾き出され始めた。彼らの不満はエジプト潮流党(Egyptian Current)の設立だった。若いイスラム主義者と幅広い左翼が集まった若々しい政党だ。同胞団の若手にとって、これは運動の厳格さと狭量さを示す兆候だった。「彼らは心を閉ざしているんだ。とても醜い決定をした。」若い医者のモアズ・アブデルカリム(Moaz Abdelkarim)はそう私に言った。彼は11月の選挙直前に同胞団を脱退した人物だ。「彼らは『アッラーはこうしろと言っている』とかって言うべきじゃ無い。1948年と同じように組織を作るべきじゃ無いんだ。もっと今に合わせなければ。何で兵士のように扱われて命令に従う事を強制されなければいけないんだ?」

11月19日、ベルタギーは友人から切迫した電話を受けた。警官隊がタハリール広場に入り、抗議運動家達を乱暴に殴打していると言うのだ。彼は広場へ急行した。他の仲間を呼び出して一緒に来るように伝えた。彼が到着して見たのは混乱した現場だった。催涙ガスが漂う中、数百人の若者がヘルメットを被った警官隊と押し合いをしている。テレビで放送された暴力映像は、エジプト中に新たな怒りを巻き起こした。アレクサンドリアや他の都市でも抗議運動が始まった。しかしそれに続く数日間、同胞団は騒動から距離を置いた。運動員達に選挙に集中するよう求めたのだ。広場の抗議運動家は怒った。イスラム系グループに裏切られたと感じたのだ。「君達には怒るだけの理由がある。」ベルタギーは同胞団のWebサイトに文書を載せた。「私達は自分達の立ち位置を考え直さなければならない。」しかしながら同胞団は再度メンバーに広場から離れるように警告した。同胞団を除くエジプトの殆ど全部の政治集団が軍の支配に抗議する「百万人行進」を呼びかけ始めた後でさえ動かなかった。同胞団は広場から離れる事を軍事評議会と取引したのだと言う噂が流れた。怒りは余りにも高まってしまい、ベルタギーが次にタハリール広場を訪れた時、数人の若者のグループが彼を攻撃しようとした。彼の支持者が突進して彼を安全な場所へと移動させた。恥ずべき退却だった。そしてその光景は「Beating and Kicking Beltagy Out of Tahrir Square(ベルタギーを殴る蹴るしてタハリール広場から追い出す)」と言うタイトルでユーチューブへ投稿された。

その三日後、ベルタギーに会った時、彼の傷は未だ生々しかった。彼は党の事務所の、クッションの効いた椅子に座っていた。目の周りが黒く、以前より落ち窪んでいるようだった。「私は正にムスリム同胞団と意見を異にしている。」彼は疲れたように言った。「何千ものメンバーを送り込んで抗議運動家を守るべきだったと思っている。革命に対して陰謀が仕掛けられている。私達は革命を守るべきだと私は考えている。」

多くの若いメンバーにとって、同胞団が広場に行かなかったことはターニング・ポイントであり、ひどい失望をもたらした。同胞団の若手のメンバーで、1月に最初のタハリール広場の抗議運動組織化を助けたムハンマッド・エルジェバ(Muhammad Elgeba)は、暴力沙汰が起きたとき、エジプト北部の両親の家にいた。彼は議会の席を目指して同胞団のリストに入り、選挙運動をしていた。長い選挙キャンペーンの一日が終わり、テレビのスイッチを入れた時、タハリール広場の端のゴミの山に、警官が抗議運動家の死体を放り投げているのを見た。エジプト中で流されたその場面は、直ぐさま、民衆の怒りの的となった。

「その瞬間に選挙運動を止める事に決めました。」エルジェバは私にそう話した。彼は3時間車を飛ばして次の朝カイロに駆けつけ、真っ直ぐに広場へ向かった。私は後で彼と、騒乱が続く広場で会った。私達はムハンマッド・マームード通りに立っていた。そこは騒乱の真っ只中で、私達は手術用マスクを顔に当てて催涙ガスを防いだ。若者達が警官隊めがけて投石していた。警官隊はゴム弾を撃ち込んで来た。ひっきりなしに銃声がして、催涙ガスの缶が薄暗い敷石に落ちてくる。缶が落ちると周りの群集は逃げ、誰かがそれを拾って投げ返すと戻ってくるという繰り返しだった。後ろのタハリール広場では混乱した情景が現出していた。群集が走り回り、軍事評議会の解散を求めるシュプレヒコールが繰り返されていた。救急車が不定期にサイレンを鳴らしてやって来て、広場中心の仮設診療所から怪我人を近くの病院へ運んで行く。これは革命の終わりなのか、それとも新たな革命の始まりなのか?誰にも答えられない。1つの事だけが明らかだった。雰囲気は前より暗くなっていた。かつて抗議運動家達を拍手と歌で迎えて礼儀正しくボディーチェックをしていた若者達はいなくなっていた。彼らは殆ど同胞団が組織した若者達だったが、彼らの不在で今の広場は前よりも危険な場所のような気がした。

催涙ガスが酷くなり過ぎたので、私はエルジェバと他の同胞団の若者と共に、カフェー・リチー(Café Riche)へ歩いた。そこは木の板壁の古いレストランで、1952年の革命のとき、ナセルが計画を練った場所と言われている所だ。私達は奥まったテーブルに着いた。周りには黄金色の額縁に収まった写真、カイロ在住の作家や知識人の写真が飾ってある。かつて常連だった人々だ。お茶を飲みながら、エルジェバと彼の友人、医者のアブデュラー・カリョウニ(Abdullah Karyouni)は自らの思いをぶちまけた。

「僕は自分のリーダーシップを全部使ってこれに当たってきた。同胞団の中だけじゃ無い。」エルジェバは言った。「僕達は子ども扱いされる事に飽き飽きしていたんだ。」こんなに疲れた様子の彼を見たのは初めてだった。知り合ってからずっと、エルジェバは熱意に溢れて、同胞団を内側から変えるんだと言っていた。今や彼は同胞団から去る事に傾いている。しかし同時に彼と彼の友人は、同胞団が依然としてエジプトの唯一の希望だとも感じているようだった。リベラル派は脆弱で分裂していると彼らは言う。大衆を動員する能力は無いと。エルバラダイのような世俗的人物はエジプト人大衆の大部分から受け入れられる事は無いだろう。「同胞団は巨大なスポンジのような存在だと理解して欲しい。」カリョウニが割って入った。「活動的で大志を持っていて、何か良い事をしたいと思っている若いエジプト人を吸収している。彼らはエジプトを愛するが故に参加しているんだ。自分の命を危険に晒すことも厭わない。逮捕されようとも、あるいは殺されようともだ。それは神からの賜りものだ。残念ながら、同胞団は彼らを吸収した後、氷漬けにしてしまうんだ。」同胞団は構成員が自分の頭で考えるのを妨げて、盲目的な服従を求めるとカリョウニは言った。

2人ともベルタギーの事を高く評価していた。「彼は素晴らしい。」エルジェバは言った。「彼は同胞団を内側から改革しようとしている。同胞団の立場を一般の人からどれ程批判されようともだ。だけど彼は同胞団から見て独立し過ぎていると思う。彼は直ぐにも、個性を殺そうとする指導層のキャンペーンに直面するだろう。」

同胞団の他のメンバー、あるいはかつてのメンバーは、もっと事態は進んでいると言った。イスラム・ロトフィ(Islam Lotfi)、革命の最初の抗議運動に加わった若い同胞団員の1人で最近団を抜けた人物が私に話したところでは、ベルタギーは既に内部的な査察を受けていると言う。「僕が考えるに、同胞団は既に、彼の象徴的暗殺を開始したと思う。」彼は言う。「彼は自分の信じるところを発言する。そしてそれは彼の立場を悪くする。同胞団は彼に止めろと言う。しかし彼は止めない。」

私は同胞団のチーフ・スポークスマン、エッサム・アル・エリアン(Essam al-Erian)に、ベルタギーが何らかの内部査察や監視を受けているのかどうか質問した事がある。彼は即座にノーと答えた。しかし同胞団はこのようなセンシティブな問題は、解決されるまで普通公言しない。一方私はベルタギーに対して、彼の独立的な見解が同胞団内部で何らかの問題となった事があるか訊いてみた。彼は落ち着きの無い微笑をしただけだった。「私の行動は自分の良心に支配されている。」彼は言った。「それがもたらす結果については計算していない。」

11月28日、エジプト議会選挙の最初の日、タハリール広場の上に登った太陽が、野菜を運ぶ車とか泥の水溜りとか浮浪者のいる広場の情景を照らした。抗議運動は終わっているようだ。2番目の革命は起きていない。少なくとも未だ。夜が明けた直後から市内各地の投票所には行列が出来始めていた。日が進むに連れてエジプト人はゆっくりと認識を始めた、投票が静かに、平和裏に行われている事を。ここ数週間の予測、選挙はキャンセルされるとか、投票所にはならず者がいて脅したり暴力を振るったりするとか、そういった全ての予測は融けて消え去った。太陽は輝き、暖かいそよ風が吹いていた。立派な身なりの人々が長い列を作ってザマレクの通りで待っていた。何人かは近くのカフェーのウェイターにコーヒーのデリバリを注文していた。同胞団の党本部でベルタギーを捕まえたとき、彼は疲れきった様子だったが幸福そうだった。そして先週の悪夢を一時、喜んで忘れようとしていた。「これは民主的なランドマークさ。」彼は言った。「国中の人間が通りに出ている。老人も若者も男も女も。そして何も悪いことが起きていない。ギネスブックにワールド・レコードとして載せるべきだよ。」

しかし選挙結果には余り喜ばしくないサプライズも含まれていた。強硬派のサラフィ党が25%の得票を得たのだ。イスラム多数派がエジプトを宗教国家へ導いてゆくと言う、リベラル派の恐れが再び呼び起こされた。軍事評議会はこの恐れを感じ取り、選挙後も統治を続けて憲法改正プロセスを管理すると言う驚くべき宣言を出した。12月中旬には抗議運動家はタハリール広場に戻ってきた。一番最近の弾圧では10人が死んで100人以上が負傷している。国中に怒りが広がってゆく中、将軍達のスポークスマンは戸惑うようなへりくだった態度でジャーナリストと相対した。同胞団は再びタハリール広場から距離を置いた。両者の側に立って活動し、犠牲者が出たことに怒りを表明し、人々には引き続き選挙に集中すべきだと説いた。しかしながら最終的に同胞団は声明を出し、タハリール広場での暴力沙汰の責任は軍にあるとして調査を求めた。

軍事評議会は何を企んでいるのか?幾人かは、彼らは殆どのエジプト人から固い支持を受けていると信じているのだと言う。抗議運動家達が言うところの「カウチに座った党」の人々、抗議運動に参加していない人々は、不安定な状況に飽き飽きし、軍がタハリール広場の問題を断固として扱うことを歓迎しているのだと言う。他の人間は怪しんでいる。将軍達は暴力沙汰が議会選挙を傷つけたと見ていて、必要な場合に選挙結果をひっくり返す根拠に出来ると考えているのではないかと。しかし誰にも確信は無い。私はある日の午後をムハンマド・カマル・エル・サウィー(Muhammad Kamal el-Sawy)と一緒に過ごした。彼は退役した空軍の将軍で、今でも軍事評議会の重要人物と定期的に会合している。背が低く格式ばった70歳のサウィーは、戦闘機パイロットとしてキャリアを始めた。書斎の大きなオークの机に座ったサウィーは私に説明した。かつてエジプト軍の中で昇進の主な尺度は、その軍人の能力では無くムバラクへの忠誠心だったと。評議会を運営している将軍達は、去年の2月にムバラクを追放する時不安だった。しかし他に道は無いと納得したのだと。

今、サウィーは言う。将軍達は未知の領域へ足を踏み入れた老人達で、自分達自身何をするべきかで分裂していると。「将軍達は、果たして権力を市民政府に渡して良いのか、保持するべきなのか迷っている。」彼は言う。「彼らが最も恐れているのは、権力を手放した時、旧政権時代の腐敗の責任を取らされるのではないか、そして去年の抗議運動家達の死の責任を取らされるのではないかと言う事だ。」将軍達に政権を手放させる唯一の道は、更に多くの抗議運動、更に多くの大衆からの圧力、そしておそらく、後で訴追されない事の保障だとサウィーは言う。しかし同胞団は喜んでその圧力に加わるだろうか?同胞団も又、不安に駆られた老人に率いられた組織だ。独裁に慣れた老人達は、自分達が今恐るべき新しい領域にいる事を見つけたところだ。エジプト人の抗議運動の一周年が近づくにつれ、多くの抗議運動家は1月25日にタハリール広場へ結集しようと計画している。彼らは又、新たな要求を掲げるだろう。議会の議席は満たされ、軍事評議会が権力に留まる言い訳は少なくなってきている。しかし同胞団の規律と数の力が無ければ、抗議運動は再び手詰まりと血塗られた暴力沙汰と大量の催涙ガスへと堕ちていってしまうだろう。カイロのリベラル派が顔をしかめる考えかも知れないが、事実としてイスラム教徒のみがエジプト軍を退かせ、より民主的な政府を提供できるであろう。しかしもしイスラム教徒がそれに失敗したら、彼らはおそらく身内からの反乱に直面する事になる。

エジプトでの最後の夜、私は又別のベルタギーの選挙運動の場へと出かけた。ナイル川デルタの農村地帯にある小さな町だ。彼は再びショーのスターとして紹介された。大きな騒々しいテント一杯に同胞団に忠実な人々がいた。「私達は議会で同胞団が多数派になる事や、イスラム教系の会派が多数派になることを望んでいるのでは無い。」彼は演説がクライマックスに近づいた時に言った。「私達はエジプトを太陽の下に運ばなければならない。余りにも長く暗い時代が続いていた。リビアやチュニジアやイエメンで、アラブ世界全体で、人々が待っている。真の変革の実例を待っているのだ。平和的変革の実例を。私達は彼らを失望させるわけには行かない。」

~~ここまで~~

次回更新は2月11日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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