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バッファローとポウニー・インディアンの物語をプレーリーで追いかける。

連休と言う事で旅行記をUpします。

記事を書いたのはトニー・ペロッテット(Tony Perrottet)さんです。元記事はここにあります。

アメリカのプレーリー地方に関する記事です。

~~ここから~~

プレーリーの物語を追い求める

アメリカ史上最も興奮すべきバケーションは1872年8月に存在した。その日、若きニューヨーカー、ジョージ・バード・グリンネル(George Bird Grinnell)はグランド・セントラル駅から列車に乗り、その時代のホットな旅先の1つへと向かった。ネブラスカ州だ。

金ぴか時代(Gilded Age)の多くの旅行者が、旧世界のパリやベニスで享楽に浸る方を好んでいる時、22歳のグリンネルは新たに芽生えつつあった自然愛好家の1人として、粗野でしばしば危険でさえあった西部の荒野へ行く方を選んだ。その目的はだいたいにおいて狩りと釣りだ。今やグルンネルはアメリカ初のアドベンチャー・トラベル・トレンドを新たな文化的レベルへ押し上げるところだった。なによりも西部フロンティアに対して人が抱く、最もロマンチックな空想を体験する為、彼はプレーン・インディアンの1部族、ポウニー族(Pawnee)がプレーリーで夏のバッファロー狩りをするのに参加しようとしている。

新たに出来たユニオン・パシフィック鉄道のおかげで、グリンネルと仲間のイェール大学卒業生、ジム・ラッセルは、文化的なマンハッタンのパーラーから騒々しいプラム・クリーク(Plum Creek:今はネブラスカ州レキシントン)のサロンまで、数日の内にたどり着けた。そこからさらに、ルーサー・ノース(Luther North)と呼ばれる、南北戦争でポウニー族部隊を率いて連邦軍に加わった男のガイドで南に向かった。カンサスへ移動中のポウニー族の小部隊と合流する為だ。ハリウッド映画の「ダンス・ウィズ・ウルブズ(Dances With Wolves)」とか「小さな巨人(Little Big Man)」とかではマッド・マックス型の悪役として描かれる事が多いポウニー族だが、彼らは一貫して合衆国の同盟者だ。ノースが仲間と共に彼らと合流したときも、古い友人として挨拶を受けた。

次の1週間、旅行者達は、プレーリー・インディアンが馬を手に入れた1700年代から変わらず行われている儀式に参加する。ポウニー族戦士が巨大なバッファローの群れに伝統的な方法で攻撃するのに参加し、狩の後で、バッファローのレバーや舌のローストを共に食した。古代からの宗教的儀式も観賞した。そしてプラム・クリークへ戻る旅の劇的なフィナーレとして、ポウニー族の敵、シャイアン族(Cheyenne)に追跡されもした。

私が最初にこの魅惑的な物語に出くわしたのは、ニューヨーク公共図書館でだった。黄色い「Forest and Stream」の1873年度年鑑のページをめくっていた時だ。その本はアウト・ドア・マガジンのパイオニア的存在で、グリンネルが活き活きとした描写で自分の冒険を出版した雑誌だった。今では更なる研究によって、東部の旅行者が彼と同じように、ネブラスカやカンサスの友好的アメリカ・インディアンと旅をした記録も見つけられている。このような旅が、1870年代に珍しいものでは無かった事を充分裏付ける記録だ。

グリンネルの旅はしかしながら、単なる若者の気晴らしでは無かった。彼の名前は今日、殆ど忘れ去られている。しかし彼が生きていた当時、彼は西部の野生動物や国立公園の保護を訴えた最初の運動家の1人で、民族学のパイオニアでもあった。1938年に彼が88歳で亡くなった時、ニューヨーク・タイムズは彼を「アメリカ自然保護運動の父」と記述した。

この140年間に西部で起きた全ての変化を踏まえて、私はグルンネルの道程をたどる事で、1872年のフロンティアが垣間見えないかと考えた。仲間のイェール大生からバーディー(Birdie)と呼ばれていたグリンネルと私は1つだけ共通点を持っている。私も又、何も無い地平線と、遮るもの無き大空に憧れを持つニューヨーカーだと言う事だ。(そして又、私の友人達もユーロッパ好き陣営に属している。彼らにとってネブラスカとかカンサスへの旅は、パゴパゴ(アメリカ領サモア)への逃避とさして変わらない。)過去においても私は常に、高名な国立公園に惹かれてきた。グランド・キャニオンとかヨセミテのメガ・スペクタクルに比べれば確かにプレーリーは控えめな存在ではあるが、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が書いているように、プレーリーは「美的センスを満たしてくれる」存在であり、長く記憶に残る存在なのだ。さらに言えば、私が何時も言うように、過去が最も多く残っているのは、人々に無視されたアメリカの片隅だ。

近代的大都市であるオマハでさえ、私が希望したよりも早く、私を過去へと連れて行ってくれた。夜明けに貨物列車の寂しいホイッスルで目が覚めた私は、オールド・マーケット地区の19世紀に建てられた倉庫街をぶらぶら歩いた。ミズーリ河の河底から採取された石が、公共図書館の受付を含む、至る所に使われていた。

「頭の皮剥ぎパーティーの準備は良いですか?」司書のリン・サリバン(Lynn Sullivan)が、古文書用の綿手袋を渡しながら、陽気に尋ねた。ネオンに照らされた部屋の中で、彼女は保管用発泡スチロールの層を取り除き、分厚い金髪の頭皮を取り出した。豊かな髪の毛は、人間の丸い頭皮から生えていて、古いなめし皮のようだった。

私は注意深くその遺物を取り上げ、手で重さを測った。殆ど1世紀も昔のものであるだけでなく、野蛮な西部にいた人物から、こんなに健康的で豊かな髪の毛を見せられるとは予想もしていなかった。

この頭皮はウィリアム・トンプソン(William Thompson)のものだった。彼はイギリス生まれの鉄道職員で、1867年シャイアン族の襲撃にあった。トマホークで傷つき、頭の皮を戦士にはがれる間、死んだ振りをしていたトンプソンは、頭を全部剥ぎ取られた時の衝撃を後に人に語っている。シャイアンが立ち去った後、彼は自分の頭皮を取り戻す。頭皮は戦士のベルトから落っこちていたのだ。彼は手桶の水に頭皮を浸して、縫い合わせて貰おうとオマハの医者へ持っていった。(驚いた土地の者は、それを「溺れた鼠」と対比している。)手術は不可能だったが、トンプソンは回復した。彼は頭皮をイギリスまで持って帰ってさえいる。カーニバルのアトラクションで見せたのだ。人生の最後に成ってトンプソンは、理由は判らないが、頭皮をオマハ公共図書館へ送った。頭皮は何年も図書館で公開され、ネブラスカの学童を何世代にも亘って怖がらせた。今日では、倉庫の中で控えめに保管されている。

翌日、刺激を受けた私はオマハ周辺をドライブした。古いハイウェイ30を進んで、プラッテ川(Platte River)に沿って伸びるグリンネルの道程をたどってみた。マンハッタンのイースト・ビレッジから出てきたばかりの私にとって、盛大に広がる大地は心踊らされる効果を持っていた。私は窓ガラスを降ろして、ケロウアク(Kerouac)が「On the Road」でラプソディーとして歌い上げた、「the wild Lyrical drizzling air of Nebraska (荒々しく叙情的なネブラスカの湿った空気)」の香りを嗅いだ。真昼の太陽の光の中で、大地は漂白されたかのようにモノトーンだったが、金色に輝く夕日がヒマワリを捕らえた時、その景色はプロバンス地方のような荘厳さを帯びた。

確かに1872年の光景を思い浮かべるには努力が必要だ。まるで蜘蛛の巣のように道路は張り巡らされ、農場はパッチワークのように点在する。しかしグランド・アイランドの南にあるプラッテ川保護区に入ると状況は改善された。そこはネブラスカに半ダースほどある環境保護団体所有地域で、その殆どは以前牧場だった所を、生態学者がヨーロッパ移民移住前の状態に戻した場所だ。

「私達はプレーリーを完全に元の状態に戻せているわけではありません。」保護団体の小さなオフィスで会ったディレクター、ナンネッティ・ホイッテン(Nannette Whitten)は私にそう言った。「もう今日ではそれは不可能です。定期的に野火が起きる事も無いですし、川にはダムもありますから自然な洪水も起きません。それでも私達は四季折々の植物を植えたり、外来種を取り除く事で、プレーリーを健全な状態に保てていると考えています。」

しばしば会話は、自然な成り行きで、草原の持つ癖に成りそうな美しさに及んだ。その景色は1872年の景色と同じでは無い。しかし私は既に魅了されていた。

グリンネル、ラッセル、ノースがカンサス州との境目付近でポウニー族と合流した時、彼らは、4000人の男女や子供が、馬やポニーと共にキャンプする光景に感銘を受けた。長老のペタ=ラ=シャー(Peta-la-shar)に挨拶した後、彼らは次の日のバッファロー狩へと招待される。狩は8人の戦士が先導する素晴らしいパレードで始まった。「戦士の乗る鞍は銀の装飾で輝いていた」グリンネルは書いている。「手綱にぶら下がった鈴が綺麗な音を立てている。」グリンネルはその日の午後、彼も参加した「囲い込み」を説明している。ポウニー族戦士達は、依然として裸馬に乗って伝統的な弓矢を使っていた。彼らは静かに群れを囲み、鋭い叫び声と共に攻撃を開始する。ロー・アー(Loo’ah)!「その時、荒々しいギャロップに過ぎなかったものが、狂ったような競走に変わった。」

グリンネルはインディアン達が、西洋人の狩人と違い、バッファローの全ての部位を使いつくす事を書き留めている。腱でさえ弓の弦としてリサイクルし、膀胱は水袋にする。「私達は、ロースト・リブにカウィス(ka’wis:細切れを腸詰にしたもの)、それに干し肉を賞味し、本当に愉快な時間を過ごした。ディナーの後はタバコを吸いお喋りを楽しんだ。」

今日、こういった情景は2次元の形で保存されている。オマハのジョスリン・アート博物館には、ジョージ・キャトリン(George Catlin)やカール・ボドマー(Karl Bodmer)が詳細に描いた絵画が、新たに改装されたウエスタン・ギャラリーの主要展示として飾られている。息を呑んで見つめるグリンネルは知らないが、彼はポウニー・インディアンによる最後の成功したバッファロー狩りを見ていたのだ。翌年、部族は狩の途中、スー(Sioux)族の襲撃を受ける。場所はその名に相応しい虐殺の谷(Massacre Canyon)だった。白人の移住者は既にネブラスカ州に溢れていて、バッファローの群れを一掃してしまった。そして原住民の住む肥沃な土地に目を付け始める。1875年までにポウニー族はオクラホマの荒涼とした居留地へ移住を強いられた。

それでもポウニー族は、他のインディアン諸部族と同様、文化的に強靭だった。みずみずしく緑豊かな、かつてのポウニー族の故郷、ダンネブログ(Dannebrog)、昔インディアンがしばしばキャンプしていた川沿いの小村に、私はポウニー・アート・センターを訪ねた。そこでネブラスカ在住の作家、ロジャー・ウェルシュ(Roger Welsch)と私は会う。シェイクスピア劇に出てくるフォールスタフみたいな太って陽気なウェルシュは、1980年代後半、ポウニー族が部族の墓地に埋葬する為に、スミソニアン博物館にある遺骨の返還を要求した時から、ポウニー族と関わりを持つように成った。2006年彼と妻のリンダ(Linda)は、自分達の57エーカーの土地をポウニー族に寄付した。1875年に部族がここを離れてから、ポウニー族が最初にネブラスカ州に獲得した土地だ。その後、南に隣接する22エーカーの土地も又、その中にあるアート・センター用の商業建設物と共に寄付された。

「これはイスラエルの再建のようなものさ。」ウェルシュ氏は微笑みながら言った。「ポウニー族が帰ってくる!ホームカミングだ。」

後に私はポウニー部族国(Nation)の代表(president)、マーシャル・ゴヴァ(Marshall Gover)に、部族民の反応について尋ねた。「言葉に表せないくらいです。」彼は言った。彼は涙声に成っていた。「私達は興奮しています。圧倒されました。私達はロジャーを部族に招いて、彼を称えるダンスをしました。」計画は現在、ポウニー文化センターをその土地に建設するところまで進んでいる。

自動車をカンサス州の南に走らせていると、本当に辺鄙な田舎町でも、歴史に対する熱意を見せていたりする。オベリン(Oberlin)という、ちっぽけな田舎町(one-horse town)では、数少ない通過旅行客向けに、昔の銀行がホテルに改装されている。そして、土地の人々は皆、同じ職業に従事しているように見える。骨董屋だ。ラクロス(Lacrosse)のカンサス有刺鉄線博物館では、私は唯一の訪問客だった。案内係は情熱的に、「私達は2400種類の有刺鉄線を展示しているのです!」と話していた。そこは、まるでアメリカ最高の珍しい博物館であるかのように、厳粛な説明文を掲示している。それによると、1880年代に広まった有刺鉄線は古い西部の終わりを象徴している。カウボーイ達と彷徨う家畜の群れが織り成すロマンチックな時代の終焉だ。

カンサス州北西部で、グリンネル、ラッセル、ノースはポウニー族に別れを告げて、鉄道路線へ戻る。途中一時、武装した15人のシャイアン族に追われ、馬の陰に隠れて銃弾を避けねば成らなかった。(「銃弾が飛び交う音は私の心に尋常でない混乱を呼び起こした」とグリンネルは書いている。「よく言われる『心臓が喉元まで上がった』状態を経験したのだ。」)

今日、1872年当時の面影を最も鮮やかに残している所は、さらに南へ進んだ場所にある。かつて西部をカバーしていた1700万エーカーのプレーリーは、今や4%を残すのみだ。その殆どはカンサス州フリントヒルに存在する。そこは石灰岩の岩盤で、どのような鋤でも耕す事が適わなかった場所でもある。

この場所では、なだらかにうねる草原が地平線まで広がり、かつての街道が交差する場所には、寂しくも奇妙な小さな町が、崩れかけながら残っている。今や、無法者やカウボーイの代わりに、熱狂的なバイクファンが道を駆け抜けている。カウンシル・グローブ(Council Grove)のヘイズ・ハウス(Hays House)の外には、彼らの輝くマシーンが、きちんと並んでいた。1857年には交易所だったその建物の中には、ミシシッピー西部で最も古くから営業を続けているレストランがある。そこのメニューでは巨大なステーキが依然として一番人気の料理だった。

近くにある町、コットンウッド・フォールズ(Cottonwood Falls)は古典的な西部劇のセットのような町だ。1871年に造られたシュールリアルなフレンチ・ルネッサンス・スタイルの裁判所には、いまだに薄暗い留置所が付属している。私はその町唯一のホテル、グランド・セントラルに部屋を取った。1884年から営業しているホテルだ。

翌朝早く、私はトールグラス・プレーリー国立公園(Tallgrass Prairie National Preserve)に到着した。ここは約11,000エーカーの広さを持つ自然保護団体所有の草原で国立公園局が管理している。ここは定期的に毎年4月、管理された野火を行うに足る広さを持っている。それは入植者がやってくる前、自然に起きていた植物再生の営みだ。本部棟は堂々とした19世紀の邸宅と石造りの納屋で出来ていた。かつてこの土地を所有し、あらゆる近代的な便利さ満喫しながら家族と過ごしていた家畜長者が、自分の為に建てた美しくデザインされた建物だ。ここには訪問客があまり訪れない。レンジャーの話では、年間23,000人しか来ないと言う。イエローストーンへ訪れる大群の約1%だ。ハイキング・コースに出ると、直ぐに私1人だけに成った。

私にとってその場所は、全くこの旅に相応しい場所だった。2009年、この保護区には13頭のバッファローが導入され、今は21頭に増えている。この140年間、この地域で初めて生まれたバッファローだ。そしてこれは若き冒険家、ジョージ・バード・グリンネルの努力無しには実現しなかった。

1872年の旅行の後、グリンネルは金ぴか時代で最も活動的な自然保護主義者の1人となった。ニューヨーク、東15番通りのタウンハウスに住んでいたグルンネルは、Forest and Stream誌の編集者を35年に亘って続けた。最初のオーデュボン協会(Audubon society)を設立し、29冊の本を書き、ジョン・ミューアやテディ・ルーズベルトの友人となり、国立公園システムの拡張運動を展開した。彼はポウニー族と旅行しながら、バッファローが既に危機に瀕しているのを、自分の目で初めて見た。1894年、彼の雑誌は、イエローストーンの最後の野生バッファローの群れに対する密猟を、始めて明るみに出した。その数は200頭に減っていた。そして彼は、この種を適切に保護する最初の連邦法が議会を通過するのをリードした。国立公園保護法(National Park Protective Act)によって、絶滅の危機に瀕した動物が救われたのだ。

今日、トールグラス保護区の奥まった場所にバッファローは集まっている。その場所は2年前から公開されていて、ありそうも無い事に思えるかも知れないが、誰でも自分の足でそこに入れる。私が入ったとき、空には雲一つ無く、散歩道は異様なほど牧歌的で、道に沿って生えたウシクサを蝶が舞っていた。バイソン放牧地のゲートに来たとき、私は遠くを見ながら、一瞬、安全について疑念を持った。「DO NOT APPROACH BISON(バイソンに近寄らないこと)」黄色い看板にそう書いてあった。「バイソンは野生動物であり、遠くから見るべきものです。」看板には怒ったバッファローが不運な人間を追いかけている絵が描いてあった。私は注意深くゲートを開けて丘を見渡した。約300ヤード遠くに、半分ほど地面に隠れて、一筋の暗い、毛皮の群れが見えていた。それでも、バーディー・グリンネルのゴーストと共に来た、かくも長い旅の果てに、私はもう少し近くで見たかった。

私は腿の高さまで生えた密集した草を押しのけて、注意深く先へ進んだ。一番大きい牡牛が立ち上がって私が近づくのを見た。若い2頭が近くで、転げまわって遊んでいる。かつてこの国を自由に歩き回っていた無数のバッファローが屠殺された後、この選ばれた少数の群れだけが、この場所で野生に暮らしていることを思うと、奇妙な感慨に捕らわれた。

50ヤードくらいまで近づくと、大きな牡牛はゆっくりと私に向かって歩き始めた。私はゆっくりと下がった。

それは私が可能な限り1872年に近づいた瞬間だった。

~~ここまで~~

次回更新は7月21日ごろになると思います。
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0AXI01MW
ダイエット効果まであったりして(笑)
ぽっこりお腹も無くなって、さらにさらに…
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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