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共和党副大統領候補内定者ポール・D・ライアン氏

大統領選挙関連の記事をUpします。

記事を書いたのはジェニファー・スタインハウアー(Jennifer Steinhauer)さん、ジム・ルーテンバーグ(Jim Rutenberg)さん、マイク・マッキンタイア(Mike McIntire)さん、シェリル・ゲイ・ストルバーグ(Sheryl Gay Stolberg)さんです。元記事はここにあります。

共和党副大統領候補内定者、ポール・D・ライアン(Paul D. Ryan)さんの記事です。

~~ここから~~

小さな町が生んだ保守派のスター

ウィスコンシン州ジェーンズビル(Janesville)にて――ポール・D・ライアン議員が少年時代を過ごした家は党派色の強い家では無かった。彼の両親は民主党議員レス・アスピン(Les Aspin)の熱狂的支持者だったが、テレビニュースで垣間見るロナルド・レイガン(Ronald Reagan)も好ましく思っていた。しかしライアン氏がわずか16歳の時に訪れた父親の死は、数学とか自転車乗りとかに熱中していた彼の人生を引き裂き、その裂け目に彼の世界観の種は植え付けられた。

「ポールはマクドナルドで働き始めたんです。そして持てる力を充分に発揮し始めました。同じ年にクラスの代表にも成りました。」兄のトービン(Tobin)はそう言った。「悲嘆に暮れて別のコースを歩むんじゃ無くて、個人の責任を果たして成長する道を選んだのは注目に値する事だと思います。」彼は付け加えて言った。「弟の政治的見識の幾つかは父の死の前後に形成されたんです。」

彼の自立心は、夏のキャンプの間も彼と共にあった。彼はキャンプでカウンセラーとしてカヌーに乗ったりハイキングをしたりした。ミルウォーキー・ジャーナル2000年版年鑑に収められた彼の婚約発表記事には、若き成人となった彼が鹿狩りに行く時の事が書かれている。「ライアンは熱心なハンターであり釣り人だ、」記事は書いている。「彼は自分で皮を剥いで肉をさばき、自分でポーランド・ソーセージとかブラート・ブルスト(bratwurst:豚肉の小さいソーセージ)とかを作る。」

大学に入っても彼は自立心を持ち続けた。入学して直ぐに彼は、保守派の経済理論とその書き手に魅了されるようになる。アイン・ランド(Ayn Rand)、フリードリッヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)、ミルトン・フリードマン(Milton friedman)、そしてルードウィヒ・フォン・ミーゼス(Ludwig von Mises)といった人々だ。彼らはやがて現れる自由主義派の活動家や法律家に影響を与えた。

議会に入っても彼の自立心は変わらなかった。ワシントンの政策グループや研究グループで磨かれた彼の保守派経済学徒としての名声は、下院のティー・パーティー系新人議員に影響を与える。ライアン氏は彼らにとって先見者であり、チア・リーダーであり、トレーニング仲間と見られている。

そして最終的にミット・ロムニー氏の目にとまる。8月11日土曜日にロムニー氏はライアン氏を共和党副大統領候補予定者として指名した。

ロムニー氏はライアン氏の中に、自分の選挙活動を勢いづける同情的な成長物語を見出しただけでは無い(ロムニー氏は土曜日に父親の死がライアン氏に「他の若者より早い成長を強いた」と述べている)。それだけで無く、ロムニー氏自身の保守派としての信用証明を埋め合わせてくれる政治家を見出しているのだ。ライアン氏は厳格なサプライサイドの政府関連予算専門家であり、共和党員に広くファンを持っている社会保守派でもある。彼は目立たない存在かも知れないが、オバマ大統領との主要な戦いにおける駆動力であった。その戦いの中には去年、国を破綻の危機に陥れた予選交渉の袋小路も含まれている。

去年夏にライアン氏の大きな影響力は露に成った。下院共和党会派第2位の実力者エリック・カンター(Eric Cantor)は超党派で試みられた「グランド・バーゲン」の交渉中、オバマ大統領に対して言った。ライアン氏がグランド・バーゲンを嫌っていて、現在行われている交渉がオバマ氏再選の道筋をつける事に成るのを懸念していると。この話は、民主・共和両党で会談内容の報告を受けて居る人物から得た。

日曜日にカンター氏事務所の職員はこの話に異議を唱えた。そしてその会談の場にいた下院議長ジョン・A・ボーナー(John A. Boehner)の報道官も、「そのような会談が行われた記憶は無い」と述べている。

ライアン氏が共和党の支持母体から、現代的基準で見て政治的に純粋であると見なされているとしても、彼に矛盾が無いわけでは無い。この国のジェネレーションX最初の副大統領候補である彼は、自由市場の積極的支持者であり、その家族は石油地代で利益を得ている。しかし彼は、石油会社の強欲を歌い上げホーム・ページで反企業のオキュパイ運動を賞賛するロックバンド、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(Rage Against the Machine)を好きなバンドの1つに数えている。

彼はTARPと呼ばれる銀行救済策に賛成票を投じているし、ジョージ・W・ブッシュ大統領の、老人に対する処方薬給付法案にも賛成票を投じている。両方ともティー・パーティー活動家が忌み嫌う法案だ。そして彼が大学時代に自由主義経済理論を深く学んでいたとしても、彼の学費は部分的に、父の死後受け取った社会保障費から支払われていた。

小さな町の王様から共和党大統領選挙ナンバー2の切符を手にするまでの、ライアン氏の驚くべき出世は、彼の強い意思と忍耐力、そしてイデオロギーの組み合わせを反映したものだ。それはジェーンズビルで始まり、ワシントンで磨かれ、最終的に土曜日の朝、ヴァージニア州ノーフォークの演台に登る瞬間を見出した。

ジェーンズビルの少年時代:信仰と政治

ポール・M・ライアンとベティー・ライアンの末っ子であるライアン氏は1970年に生まれ、ジェーンズビルの古風なコートハウス・ヒル近辺で育った。ライアン氏は現在もそこで暮らしている。近隣の子供たちの殆どは自転車に乗りながら育ち、同じ様な高校時代の浮かれ騒ぎを経験する。

ライアン家と通り一つ隔てた場所で子育てをしていたロズ・ソープ(Roz Thorpe)は、ポールは若い頃、自分の息子と、ジェリー・ルイス(Jerry Lewis)がプロモートするチャリティーの為に毎年近隣を募金して歩いていたと言う。

「そういう子供達が沢山いたのよ。良い時代だったわ。」ソープ夫人は言う。「ポールは他の子より少しだけ真剣だったと思うわ。」

ライアン氏の伯父は数十年前、近隣で独立記念日パレードを始めた人物で、父親は町で尊敬される法律家だった。

ナード(nerd:オタク)と呼ぶほど引っ込み思案で無く(ナードに成るにはハンサム過ぎた)、ジョック(jock:男っぽいやつ)と呼ぶほどでも無い(コーチの話ではサッカーを1年で止めている)ライアン氏は、もっぱら外交的な性格で知られていた。ちょうど彼の母親のように。彼は良く勉強し、アウトドア・ライフに興味を持っていた。彼はY.M.C.A.が運営するマニトウィッシュ・キャンプのカウンセラーとしてアウトドア・ライフの経験を積んでいった。

彼の兄に寄れば、ライアン氏の政治的見解は彼が10代の時の夕食の食卓で形作られていったと言う。「毎晩6時に家族で食卓に着いたんです。色んな事をその場で話し合いました。」トービン・ライアンは言う。

「例えばロナルド・レイガンがやっている事とか、彼がそれをする事でこの国をどの方向へ向かわせているのかと言ったような話です。ポールはそういう話を吸収して行きました。」彼は言う。「僕の考えでは弟の目を開かせたのは大学の偉い教授達では無いと思います。」

「弟のスピーチで私の心を強く打ったのは、父親の言葉を弟が引用したくだりです。父は私達に何時も問題を解く側にいろと言いました。問題の一部にはなるなと。」トービン・ライアンは、弟が土曜日にヴァージニアで、ミット・ロムニーの指名を受けて行ったスピーチを引用して言った。

ライアン家はカトリックで、ポールはミサの侍者(altar boy)をしていた。そしてそれは「ポールの価値観の重要な位置を占めていた」とトービン・ライアンは言う。「僕たちは、自分達の信仰と信念を独自に作り上げるよう育てられました。」ソープ夫人の話しでは、ライアン氏は妻のジャンナ(Janna)よりも頻繁に3人の子供を教会へ連れてゆくと言う。

ライアン氏の議会での投票履歴は、彼の宗教保守派的傾向を反映している。彼は人権が妊娠と同時に始まることを宣言する法案の共同提案者と成っている。

彼の少年時代は高校の最上級生の時に中断される。父親がベッドで心臓発作で死んでいるのをライアン氏は発見した。「私は表のドアを通して救急隊員を見ていました。」ソープ夫人は言う。「ポールはその日ずっと私達の家に居ました。とっても混乱していました。ポールは何時も本当に冷静な子供なのに。あれはとても大きな事件だったんです。」

ライアン氏の母親は大学に戻った。上の2人の兄弟はずっと前に既に家を出ていたので、彼は今までより多く、トービンに情緒的な助けや助言を頼るように成った。「弟とは寝室を共有しながら育ちました。」弟より5歳年上のトービン・ライアンは言う。「10代の時は良く、僕の壁を埃や小さな羽根で汚したと言っては叱ったりしていました。」

彼は付け加えて言う。「僕たちは本当に多くの時間を共に過ごし、経験を通してより強い絆を作ってきたんです。普通の10代の子供がある朝起きたら、父親が居なくなっていて、アルツハイマーが進行した80代の祖母は隣の部屋に居るし、母親は大学に戻る事を決めていたんですからね。」

翌年、ライアン氏はクラス代表選に出て勝つ。同時に放課後のアルバイトや色々な課外活動に参加し始める。

「彼は色々なものに参加しているようでした。」少年時代からの友人、パトリック・ライオンズ(Patrick Lyons)は言う。ライアン氏は今でも彼と、週末に互いの家でバーベキュー・パーティーを開いたりしている(ライアン氏が政治家として著名になるに従い、外食は難しく成っていた)。高校時代の数多くの活動は彼に、礼儀正しい言葉で言うところの、政治的に取り入るのに機敏な人間と言う称号をもたらす事になった。

彼の兄は依然として彼の相談役であり、おそらくはライアン氏の頭の中で、信頼の中心に位置している。「僕たちは1ブロックしか離れずに暮らしています。」トービン・ライアンは言う。「何でも相談しているんです。ポールと僕の間では人生が絡み合っていてかまわないんです。子供達は同じ学校に通っているし、妻達は毎日お喋りしています。」

大学時代、まるでPh.D.のような新入生

オハイオのマイアミ大学に1988年に入学したポール・ライアンは、初年度が終る頃には既に保守的経済理論にドップリと浸かっていた。

「弟は普通の大学生でした。」トービン・ライアンは言う。「経済政策以外についてはね。彼は新入生の衣をかぶった博士課程の学生でした。弟がハイエクを引用していたのを覚えていますよ。私自身も経済学部だったんですけどね、あんなに情熱的では無かった。」

ライアン氏のトリクルダウン経済理論は既に確固としたものだったとリック・ハート(Rich Hart)教授は言う。教授はライアン氏がその政治的個性を研ぎ澄ますのを助けた人物だ。

「私の考えではポールは、経済学的見地の核と成る保守的信念を既に持った状態でマイアミ大学へ入ってきた。」自由主義的見地を公言するハート教授は言った。教授はライアン氏が2年次に取った中級マクロ経済理論のコースを教えていた。「彼はロック(Locke)とかハイエクを呼んでいたよ。アイン・ランドを読んでいたかどうかは判らないが、私はもちろんアイン・ランドを読んでいたし、彼にそのことを話したりしていた。」

ハート氏の話しでは、2人はしばしば授業の外でも会って、授業についてでは無く政治哲学について話し合った。「私達は政府の役割について話し合った。私達は共に政府の役割は制限されるべきだと言う保守的見解を持っていた。何故なら最も重要なものは個人の自由であり開放なのだから。そして個人の責任は自由と共にあるのだ。」

大学の経済学教授トーマス・ホール(Thomas Hall)の話では、ライアン氏の知性は彼の自信とコミュニケーション・スキルにマッチしたものだったと言う。「彼はクラスで最高の学生だった。」彼は言った。「彼は良心的で、発言においても文章においても、とても明晰だった。」

ライアン氏の公的発言は「他の学生から抜きん出ていた」とホール氏は言う。「彼は又、静かな自信においても抜きん出ていた。私が言いたいのは、彼はとても気持ちの良い自信に満ちた若者だったと言う事だ。彼は成長途中だったが自信にあふれていた。」

大学でのライアン氏は、テレビゲームのグリーン・ベイ・パッカーズをしたり、同じ寮生仲間のフットボール・チームでプレイしたり、寮から道一つ隔てた体育館でトレーニングをしたりして過ごした。

「彼はパーティー好きとは言えなかった。」ライアン氏と同じ寮生会デルタ・タウ・デルタのメンバーだった人物で、現在ケンタッキー州キーウェスト在住、40歳のスポーツ・アンカーマン、ケント・タイラー(Kent Taylor)は言う。「彼は何時も真剣で集中していた。自分が何をしたいのか判っていた。自分の学業分野を明確にしていた。大学に入った早々から経済とその働きに興味を持っていた。僕が思うに彼の真剣さは、彼を他の寮生会の仲間とは異なる存在にしていた。大学の他の全ての学生とも異なっていたんだ。」

ライアン氏は1992年に経済学と政治科学で学士号を取る。彼の政治への傾倒と欲求は傍目にも明らかだったと友人達は言う。「ポールは何時も政治家だった。」ライアン氏の1年後輩で同じ寮生会のメンバーだったスコット・フリードマン(Scott Friedman)は言う。「彼は誰とでも仲良く成れた。論点があれば議論したし、政策とか経済について良く話していた。」

彼の会話には、女の子とかフットボールの話は少なく、その当時の政治問題の話題が多かった。「どんな時でも判りますよ。彼は保守派共和党員だって。大学時代から議員に成りたがっていました。」フリードマン氏は言う。「彼との会話は、だいたい硬い話題を巡って行われるんです。彼はトリクルダウン経済について話し、どうしてそれが国の経済を運営する上でより良いアプローチなのか説明するんです。」

偶然にも大学は、ジョン・A・ボーナー(John A. Boehner)と呼ばれる議員の地盤にあり、1992年の選挙にライアン氏はボランティアとして参加し、家の庭に立てる候補者支持の立看板(yard signs)を配って回った。「彼の見地は他の学生よりずっと広かった。日々の雑事に対する変化の無い平板な会話には興味が無かったんだ。」やはり同じ寮生会員で、シカゴで不動産会社を経営する41歳のA・G・ホリス(A. G. Hollis)は言う。

ジャック・ケンプ(Jack Kemp)の支持を受けた最初の下院選挙

1998年ライアン氏は、議員の事務所に初めて参加する。全国的に知られた政治家、2年前の党の副大統領候補が選挙運動でジェーンズビルへ来た。ライアン氏のメンター、ジャック・ケンプが町にやって来たのだ。

ライアン氏がワシントンで法律関連助手および政策アナリストとして過ごした年月の間に、2人の関係は緊密なものに成る。その関係は、サプライサイド経済学とか減税とかに対する2人の共通の興味を越えたものに成った。「私の考えでは彼にとってジャック・ケンプは2人目の父親のような存在だ。」ハート教授は言う。

この関係はライアン氏が未だ大学生だった頃始まった。1991年ハート教授は彼に、ウィスコンシン州共和党員でケンプ氏と近いボブ・カステン(Bob Kasten)上院議員の事務所でサマー・インターンシップをするのを勧める。カステン氏は、ライアン氏の事を、政治に対するよりも遥かに大きな知的好奇心と興味を政策に対して持っていたと覚えている。「彼は単に概念に興味を持っていたんだ。」1992年の選挙で民主党のラス・フェインゴールド(Russ Feingold)に破れたカステン氏は言った。「彼が何時の日か下院議員とか上院議員とか副大統領とかに成りたがるだろうなんて話は、した事が無かったね。」

マイアミ大学卒業後、ライアン氏はカステン氏の事務所にフルタイムで参加する。そして中小企業に対する税控除とかキャピタル・ゲイン課税の削減とかの問題に取り組む。数ヵ月後にカステン氏が議席を失うと、ライアン氏は保守派の政治団体、エンパワー・アメリカ(Empower America)で働くようになる。この団体はケンプ氏と、レイガン政権下の合衆国国連大使ジーン・J・カークパトリック(Jeane J. Kirkpatrick)、そして同じくレイガン政権下の教育相ウィリアム・J・ベネット(William J. Bennett)等によって設立された。

ライアン氏は、カークパトリック女史の外交政策に対する主張とか、ベネット氏の倫理に対する関わり方に惹かれていた。しかし彼は、ケンプ氏と働いたときに一番元気が良かったようだと、前ミネソタ州下院議員でエンパワー・アメリカの設立者の1人、かつ団体の運営をしていたヴィン・ウィーバー(Vin Weber)は言う。「彼は経済政策において主にケンプ氏と働いていた。」ウィーバー氏は言った。「それこそが彼の情熱だった。」

ケンプ氏の娘、ジュディス・ノーランは、ライアン氏がエンパワー・アメリカにいた当時、団体の地域出先機関で働いていた。彼女の話では、父親のケンプ氏は、しばしばこの若いスタッフに助言を求めていたと言う。

「父は彼にとても感銘を受けていました。」彼女は言った。そして付け加えて、父はしばしばライアン氏を個人的調査員として使っていたと言う。「私も感銘を受けました。経済を愛し研究していた父が、あんな若い人物を頼りにしていた事に。」

そこには誇りもあったと彼女は付け加える。「父は彼をまるで息子のように扱っていました。彼に腕を回し、こう言いながら人に紹介するんです。『彼こそ我が党の未来さ』」ジャック・ケンプ基金を運営するケンプ氏の息子ジミー(Jimmy)は、父の1992年のメッセージと、ライアン氏の2012年のメッセージには直接の繋がりがあると言う。「ポールが土曜日の朝、ノーフォークでのスピーチでアメリカは概念であると言った時、それは父のメッセージと符合しているんです。」ケンプ氏は言った。「父は概念の力を信じていました。人間は政府から権利を与えられているのでは無く、自然と神から与えられているのだと言っていました。ちょうどポールが説明したように。」

1997年にライアン氏はジェーンズビルへ戻る。彼は少しの間、曽祖父が起業した家族の建築会社で働く。翌年彼は下院の議席を目指す。彼がソープ家と共有する野望だった。「私達がD.C.を訪問していた時、彼と夕食を共にした事があったんです。その時立候補する事を話してくれました。」ソープ夫人は言う。「私達は彼を勇気付けたんです。その時彼は、既にワシントンで長く暮らしていて、とても自然な様子でした。」

ライアン氏は増税反対と銃保有権賛成を掲げて戦い、57%対43%で楽勝を収めた。

議員としての年月を過ごす内に、彼の論点は移ってゆく。ケンプ氏は今日のライアン氏ほど、政府プログラムの削減を気にしていなかった。2人は税制に対しては同意しているが、政府の役割とか支出に関しては異なっている。

ライアン氏は政府債務に対して、2009年に亡くなったケンプ氏が経験した事が無いほどの強硬派と成った。しかし2人はその楽天的な外見と、政治は文明的方法で行使できると言う確信において共通している。去年、ジャック・ケンプ基金はライアン氏に最初のケンプ・リーダシップ・アワードを授け、ケンプ氏の未亡人ジョアンヌ・ケンプ(Joanne Kemp)は土曜日のヴァージニア州マナサスにおける、ロムニー‐ライアン集会に参加した。ライアン氏は彼女の存在を公衆に紹介し、ケンプ氏を自分のメンターの1人であると述べた。

「彼は父以上に計数に明るい人間です。」ケンプ氏は言う。「だけど僕が思うに、彼が父から学んだ事は、人と笑顔で接する態度と、対立する政治家を個人攻撃する必要など無いと言う考えだと思います。何故って論戦は概念に対して行うべきものですから。」

ティー・パーティーは議事堂の中に代弁者を見出す

2010年にワシントンにやってきた87名の共和党新人議員、その殆どが政治的経験の無い人々に、議会で1番崇拝できる人は誰かと質問したとすると、ポール・ライアンの名前は必ずあがるだろう。彼らの話ではライアン氏は、彼らと同じ言葉で政府の縮小を語り、対決的会話(chin-out communications:あごを突き出して話す会話)での情熱を共有し、文化的にも政治的にも、指導層を含む上の世代の人間達よりも新しいメンバーと近い。

彼は本質的に、彼に従うワシントンのチームの指導者だ。「新たに入った私達のグループは、下院で起きている事態に対決する責務があるんです。」ノースカロライナ選出の議員で当選前は看護師をしていたレニー・エルマーズ(Renee Ellmers)は言う。「彼はこの戦いを何年も何年も続けていたんです。そして私達は議会に入ることで彼を助けられるようになったんです。」

彼が自分の信念を、例えその信念が自身の党を叩くバットであったとしても、喜んで明確にする態度は多くの尊敬を集めている。「時として私達は、政府を小さくする為に何をしなければならないか話し合います。」エルマー女史は言う。「しかしそれを、どのように公表するかと言う時、私達はためらったりします。彼はそういう時に自ら進み出るんです。彼は全部引き受けて矢面に立つんです。」

余り経験の無い議員にとって、ライアン氏の政府債務に対する知識も又、興奮すべきものだった。多くの議員が彼の事務所を訪れ、法案の投票について助言を求める。あるいはそもそも法案をどういう風に読み解くのか助けを求める。

共和党議員のトレイ・ゴウディー(Trey Gowdy)の話では、政府の仕事を続ける為の数多くの短期予算処置(short-term budget meausers)に対して、不満を募らせる自分のサウスカロライナの選挙民へ、ライアン氏は時間をかけて電話で説明してくれたと言う。「議会の中で彼のような立場に居て、事務所から他の人間の選挙民へ電話をかけて何か説明するような人間は、そんなにはいないさ。」ライアン氏はさらに、しばしば髪の毛を伸ばし放題にしているゴウディー氏に対して、冗談で、床屋の予約を取って散髪代も出してやると言ったという。

何人かのメンバーは去年のオバマ大統領との会談を覚えている。大統領は共和党員をホワイトハウスへ招いて、政府の赤字と債務について、記録を取らない話し合いをした。参加したメンバーに寄れば、社会保障プログラムを維持する為には、変更を加えなければ成らない事を理解していると、オバマ氏は告白したと言う。その時ライアン氏は、社会保障費削減の指揮をとらなかった点でオバマ氏を非難した。その場の他のメンバーはショックを受け、同時に面白がりながら見ていたと言う。

しかしこの事は、ライアン氏が自分の予算案に賛成するよう、メンバーを叱咤しながら熱心に働いていなかったという意味では無い。その予算案も何人かが望むほどの削減はしていなかった。現在下院議長をしているボーナー氏が学んだように、政権は合意に対して何の保証もしていない。

ライアン氏の魅力は民主党員にも届いてはいるようだが、それもある程度までのレベルだ。個人的な好感は同意へ結びつくとは限らない。

前インディアナ州上院議員で民主党中道派のエヴァン・バイ(Evan Bayh)の話では、バイ氏が会計上の責任について何時もの主張をした後、ライアン氏が社会保障問題に取り組む議論の為に接触してきたので感銘を受けたと言う。

「彼は私の事務所へ訪ねて来たんだ。とても礼儀正しく社会保障改革の私案を幾つか提示した。」バイ氏は言う。バイ氏はライアン氏の事を「ナイスで謙虚な人物」と賞賛したが、同時に付け加えて言った。「私の考えでは彼の提案の幾つかは少し行過ぎていたと思う。」

実際のところ、ライアン氏は、最も重要で最も対立の深い国内問題について、超党派の合意を呼びかけてはいるが、彼自身の提案は民主党教義の心臓を直撃するものだ。そして彼は、ここ数年の政治を定義付ける、対立する両党間のあらゆる主要な政策論争において中心的役割を果たしてきている。

ニュー・ハンプシャー州上院議員ジョン・E・スヌヌ(John E. Sununu)と共同で出した彼の法案、社会保障費の為に個人投資口座を作ると言う法案は、ブッシュ氏2期目の当初に始まった議論のスタート地点と成った。ブッシュ氏は最終的に彼の社会保障改革法案を取り下げた。民主党の抵抗を排除できなかったし、何人かの共和党員や高齢の選挙民は、この改革が社会保障を有名無実にすることを恐れていた。

しかしそれは、オバマ氏の大統領任期中に彼が始めた活動の前触れでしかなかった。彼はメディケアの支給方法を変更し、税に反対する立場を維持しつつ政府支出を大胆に削減しようとしている。

ライアン氏は、その地位が上がるにつれ、社会保障費削減における党の最も力強いスポークスマンと成ると共に、下院における最も感嘆すべきファンドレイザーとなっていった。多くの献金者、特に自由主義的傾向の強い献金者は、彼を将来の大統領候補と考えている。

下院における一兵卒たちとの生活とは対称的に、ライアン氏は去年、高名なヘッジファンド設立者、クリフ・アスネス(Cliff Asness)と彼の友人と共に、キャピトル・ヒルの高級ビストロで食事をした。そこで3人は350ドルするピノ・ノワールを2本開けたと言う。

「彼のような頭脳が欲しいと思いました。」ライアン氏は、ニュース・ウェブサイトのTalking Points Memoでディナーについて説明している。そこには他の会食者が撮った食事会の様子がアップされている。指導的共和党献金者であるアスネス氏との会談は、ライアン氏がエリート献金サークルに入ったことを現している。ライアン氏が去年、シカゴ経済クラブ(Economic Club of Chicago)で自分の予算案を紹介した時、彼はアンネ・グリフィン(Anne Griffin)に紹介された。彼女は夫のケネス(Kenneth)と共に保守派の大儀に対する主要な献金者だ。保守派の慈善家で大富豪のチャールズ・コッホ(Charles Koch)とデイビッド・コッホ(David Koch)は、今やライアン氏の選挙事務所とPACに対するトップ献金者に含まれていて、彼らの元で働くエグゼクティブは、やはり保守派の大富豪ポール・シンガー(Paul Singer)が設立したヘッジファンドにも雇われている。

おそらくは2012年の選挙期間を通して、ライアン氏の選挙事務所と彼を支持するPACは8500万ドル以上の資金を集めるだろう。議会における最高額だ。ライアン氏は資金を、議会における同じ様な意見を持つ保守派の影響力を増す為に使っている。100万ドル以上の資金を共和党候補や党の委員会へ渡している。そしてその他、自ら装う「ヤング・ガン」達、例えばカンター氏のような人々とチームを組み、当選可能性のある候補者をしつらえて資金を募っている。

しかし資金調達は同時にライアン氏に幾つかの頭痛をもたらした。1990年代終わり頃、ウィスコンシン州のビジネスマン、デニス・トロウハ(Dennis Troha)と彼の家族は、ライアン氏の選挙運動に数万数千ドルの献金を始めた。同時にトロウハは議員の為にファンドレイザーを組織した。

2005年、ライアン氏はJHTトラッキングが求める条項の認可を推奨する同僚宛の手紙にサインした。JHTトラッキングは彼の選挙区の会社でトラック輸送に対する連邦政府の規制緩和を求めていた。彼は同時にブッシュ政権高官にも法案変更を求め、それは採用された。その翌年ライアン氏は、ウィスコンシン州にカジノを造る申し立てに決定を出すよう、連邦政府監査官へ圧力をかけた。その当時トロウハ氏が参加していたプロジェクトだった。

ライアン氏はこれ等の介入について決まりきった有権者サービスだと擁護した。しかし2007年、トロウハ氏は、トラック規正法とカジノ建設認可の為に、ウィスコンシン州民主党知事ジム・ドイル(Jim Doyle)および、ジョージ・W・ブッシュ大統領へ、子供たちを使った迂回献金で選挙資金規正法の規制を上回る献金をした罪で連邦政府から訴えられ、有罪と成る。トロウハ氏の仲間も又、トロウハ氏と協力して不正な企業献金を、ライアン氏を含む複数の議員へ注ぎ込んだ罪で有罪と成った。

ライアン氏自身は捜査に巻き込まれておらず、どのような犯罪でも訴追されていない。そして献金が不正だった事を彼が知っていた証拠は無い。トロウハ氏が訴えられた後、ライアン氏は彼の家族からの献金をチャリティーに寄付した。

選挙区へ奉仕し、未来を築く

彼の故郷を危機が襲ったとき、ライアン氏はまだ議会に入って2週間と経っていなかった。ジレット(Gillette)社がパーカー・ペン工場の閉鎖と300人分の雇用の海外移転を発表したのだ。

パーカー・ペン工場は長い間、労働者の町であるジェーンズビルの誇りだった。その当時まだ、ペン製造企業創設者の後継者、ジョージ・S・パーカー二世(George S. Parker II)は、堂々たるジョージ王朝風レンガ造りの屋敷に住んでいて、その屋敷はライアン氏が子供時代を過ごした家のはす向かいだった。1999年1月に出された閉鎖声明は、非常に苦く痛いものだった。ライアン氏の事務所はコミュニティが困難を乗り切るのを助ける為に働くと公言した。

しかしライアン氏にも誰にでも、プラント閉鎖を押し留める為に出来ることは、それ程無かった。従ってジェーンズビルは、その打撃を受け止め前へ進むしか無かった。そしてライアン氏はその通りにした。6期当選を繰り返した後、28歳で議会に当選してから、とても長い道のりを歩いた紆余曲折の末、最終的に彼はパーカー氏の6つの寝室を持つ5800平方フィートの屋敷を買い取った。

ライアン氏と妻のジャンナは2010年に屋敷を421,000ドルで買い取った。2人にとって簡単に払える額だった。ライアン氏の個人資産公表に従えば、去年ライアン家が保有する資産は、200万ドルから770万ドルの間に評価されている。下院議員の資産評価では上位に位置する。

確かにライアン家はあらゆる意味で富裕であるが、彼らの富は、その資産が数千億ドルに達するロムニー氏や議会の富豪達ほどでは無い。そしてライアン家は富を見せびらかす一家でも無い。

ライアン家が購入した時、古いパーカー屋敷は6年間空き家だった後で大規模な改修が必要だった。大量の業者を雇う代わりに、ライアン氏は殆どの改修を自分で行ったと隣人達は言う。ジェーンズビル出身の民主党員で州上院議員ティム・カレン(Tim Cullen)は生まれてからずっとライアンの家族を知っている人物だが、ライアン氏が家を買った直ぐ後、外に出て来て立ち話をした時の事を覚えている。

「ドアは開いたままで、彼は古着を着ていて、ペンキ塗りとか修繕を自分でやっているところだった。」カレン氏は言う。「あれが彼なんだよね。ジェーンズビルの地に足が付いた基本的な人々が生み出した人間なのさ。」

ライアン氏はワシントンでは事務所に寝泊りしている事で有名だ。彼は又、同じ様な質素な趣味、狩とか釣りとか体力作りとかを続けている。それらは結婚前から続けているものだ。税法律家のライアン夫人は自分のキャリアを中断して3人の子育てに集中した。家族の休暇は、バックパックでの外出が多い。

ライアン家の資産の多くは、債権や相続財産で出来ている。その内の幾つかは、ごく最近手に入れたものだ。

ライアン氏は税控除付学費積立金を2件報告している、それは2つ合わせて150,000ドルから300,000ドルの間に評価される。ライアン氏は又、2つの投資事業組合に入っていて、総額で350,000ドルから750,000ドルの間に評価されている。組合が保有する株式は有名な会社名義のものが主で、その中にはアップル(Apple)、グッドリッチ(Goodrich)、クラフト・フード(Kraft Foods)、Visa、ホールフーズ(While Foods)などが含まれている。両組合ともライアン氏と家族のメンバーで設立したもので、祖母と伯母が残した資産の管理の為に設立されたものだ。

ライアン氏の最新の資産公開文書に従えば、ライアン夫人は2010年の母の死後、100万ドルから500万ドルの間に評価される信託財産を受け取っている。ライアン夫人は又、オクラホマとテキサスで彼女の父、ダン・リトル(Dan Little)が運営する幾つかの鉱物・石油探索投資に関する長期債権を所持している。彼女の父はオクラホマの法律家で顧客には石油・ガス会社が含まれている。これ等の投資は去年150,000ドル相当の収入をもたらした。

友人の話ではライアン家は、ライアン夫人の故郷のオクラホマの親戚を、年に数回は訪れている。しかし夫人は次第に、ジェーンズビルの自宅に留まる事を好むようになったと言う。ライアン氏自身も、ワシントンで高まる名声に関わらず、自宅で過ごす時間を多くしようとしているようだ。時には木曜の夜にワシントンを出てジェーンズビルへ向かい、火曜の朝まで戻るのを遅らせる場合もあるらしい。

債務と負債の交渉に割り込む

去年夏、国が、債務デフォルトもあり得る危機に直面した際、オバマ大統領は危機回避の「グランド・バーゲン」をまとめようと、数名の議会リーダーとホワイトハウスで会談した。より重要なのは、党派対立の行き詰まりを超えて長期的な予算均衡を達成する事だった。

交渉中、オバマ氏はボーナー氏とカンター氏をオーバル・オフィスへ招いた。そこでは、ライアン氏の懸念事項を含む幾つかの対立点について話し合いがもたれた。しかしその時までにライアン氏は、政治状況に対する懸念を明確に述べている。その中で彼は、ホワイトハウスと民主党は、予算均衡化の為に必要な支出削減を喜んで受け入れるとは信じられないと述べている。

そして7月の交渉について議論する為にCNNからインタビューされた時、共和党が税制のループホール閉鎖の見返りに求める全体的に低い税率に対して、民主党は合意に失敗したと言い、それは最終的に増税に繋がると彼は警告した。「そういったものは私達がこの大きな交渉から求めるものでは無い。」彼はインタビューの中で言った。「もしも税率が引き下げられなければ、実質的に増税と同じだ。」

債務交渉に対する同じような反対は、彼も一員となっているサイモン‐ボウルズ委員会や、ギャング・オブ・シックスとして知られる上院議員グループからも上がっており、その結果、超党派の協力に対する彼の真摯さに、民主党は疑問を投げかける事に成った。この疑念は、来る数週間の内に、彼に対する攻撃材料をオバマの選挙運動へ与えることに成るだろう。

議員としてライアン氏は、全国規模の選挙戦、あるいは州規模の選挙戦にさえ関わった事が無い。そして選挙戦が熱を帯びるにつれ、ジェーンズビルは今まで以上に、彼にとって避難所となるに違いない。

今までのところ、ジェーンズビル近辺の住人によれば、ライアン氏は一度もこの地を離れた事が無いように感じられている。

議会でのより保守的な人々の多くがそうするように、彼はワシントンにアパートを持たない事にした。その代わり自分の事務所やメリーランドの親戚のところに宿泊している。彼はしばしばタウン・ホール型の集会を開く。土曜の夜には、彼の故郷の新聞、ガゼット(The Gazette)へ電話し、選挙戦に参加する自分の決断を説明した。彼の子供が通う学校で、ライアン氏は何時も居る人のように見られている。彼はなるべく多くの学校のイベントに参加しようとしている。

「彼が町に居るときは、なるべく政治の話はしないようにしているんだ。」ライオンズ氏は言った。「そういう話は重要でも何でも無いのさ。私にとって彼はまだ、ただのポールなんだ。」

~~ここまで~~

次回更新は9月1日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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