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オバマが本当にやりたい事

オバマ大統領に関する記事をUpします。

記事を書いたのはポール・タフ(Paul Tough)さんです。元記事はここにあります。

アメリカの貧困対策に関する記事です。

~~ここから~~

オバマが本当に信じているものは何か

モニーク・ロビンズ(Monique Robbins)は、スティーブ・ゲイツ(Steve Gate)が運転する白いポンティアックの後部座席で、ジャスミン・コールマン(Jasmine Coleman)が1人で学校から帰っているところを見つけた。それは氷のように冷たい12月の午後、場所はシカゴのサウス・サイド。冷たい風の中でジャスミンが防寒具として着ていたのは薄い紫色の上着だけだった。彼女は寒そうにしていた。ゲイツが車を歩道に寄せ、ロビンズがジャスミンに中へ入るよう呼びかけた。

ジャスミンは16歳、ロビンズとゲイツは2人とも30代でジャスミンの近所に住んでいた。3人が住んでいるのはローズランド(Roseland)だ。シカゴの中でも特別に寂れた土地で89番通りから115番通りにかけて広がる一帯、シカゴの高架鉄道(El)の終点を更に先へ行った場所だ。50年前ローズランドはシカゴでも繁栄した場所だった。何千人もの肉体労働者が住み、その殆どは白人でサウス・サイドにあった数多くの製鉄所や製造業プラントに雇われていた。しかしプラントが閉鎖されたのははるか昔。白人居住者は皆去り、ローズランドは考えられるあらゆる統計数字で市内最悪の場所となった。失業率、退学率、殺人件数、あるいは通りがかもし出す不毛で寒々とした感じなど全てだ。

ローズランドを含むシカゴ市内の荒廃した地区に住むジャスミンや若い人々の面倒を見ることがゲイツのフルタイム・ジョブだ。彼は若者支援プログラム(Youth Advocate Programs:YAP)と呼ばれる組織で働いていて、最も「リスクにさらされている」と見なされる公立高校生徒のメンターとして活動している。私がゲイツに会ったのは2010年の秋、彼はくつろいだ感じのたくましい男で、髪の毛をタイトなドレッドロックにして人を突き刺すような鋭い灰色の目をしていた。数ヶ月の間、彼は働いている様子を私に見せてくれた。私にとってはローズランドの非公式ガイドだ。

ゲイツは車をラファイエット・アベニュー(Lafayette Avenue)にあるジャスミンの家の前につけた。ジャスミンは中へ走ってゆき兄のダミアン(Damien)を連れてきた。彼もまたYAPに登録した1人だ。彼らの家は小さく壊れそうだった。玄関ドアを守る鉄のゲートは蝶番から外れていた。玄関に面した窓ガラスには拳大の穴が開いていた。ハンサムな17歳のダミアンはジャスミンの後ろについてゆっくりと車へ歩いてきた。ゲイツが暖房の為にエンジンを切らないでいる間に2人は後部座席に入った。

「おいおい、家の中は大変だぜ。」ダミアンは少し笑いながら言った。

「寒いの!」ジャスミンが言った。「中に入ってもまるで外に居るみたいよ。」

ダミアンとジャスミンの母親はガス会社と長いこと勝ち目のない戦いを続けていた。昨夏に彼女が暖房費の支払いが出来なくなると、会社はガスを止めた。今や暖房は全く効かず、冬が大挙してやって来た後、リビングに開いた穴からは、一晩中冷たい外気が入り込んでくる。

ゲイツは今でも自分が育った家に住んでいて、それはダミアンとジャスミンの家から数ブロック離れた場所にあった。自分が成長する間もローズランドはとても酷い場所だったとゲイツは私に話してくれた。しかしながら今日ではもっと悪くなっている。そして彼が見るところの、ダミアンとジャスミンを捕まえている貧困の蜘蛛の巣、即ち、情け容赦ない経済状況と破壊的な社会からの影響と個人の近視眼的な決断とから成る、人を麻痺させる混合物は、殆ど逃げようの無いものに見える。日によっては、YAPに参加している子供たちと共に進歩できたように思える事もある。しかしこの仕事は、希望の無い絶望の間にしばしば捕らえられる仕事だった。途切れる事の無い病院の訪問、退学の説明、裁判所出廷、そして葬式を繰り返してゆく仕事だ。この仕事は自分の気持ちと健康を苛んでいると彼は私に話した。彼は15年来のガールフレンドと分かれたばかりだった。メンソール・タバコのニューポートを吸いすぎているし、眠る事もできない。

ゲイツの仕事をかくも過酷なものにしている理由の1つは単純な事実、生徒達が直面する問題の膨大さだ。ある生徒は、車を盗んだ事でブート・キャンプへ送られた。ジャスミンの前のボーイフレンドは吹雪の日に車の中に座っていたところを撃たれて死んだ。YAPに入っている少女の1人は、親戚から性的餌食にされそうな時、母親が守ってくれないと言って激しい怒りを覚えている。彼女は学校へ行っても、誰かが喧嘩しているのを見つけるだけだと言っている。「これ以上悪くなりようが無いって思っていると、さらに悪くなるのさ。」ゲイツは言った。

しかしながらこの仕事を過酷にしているのは又、しばしばこれがとても孤独な事業であるように見える事にもある。このローズランドへやってくると、この国の興味の中心から遥かに離れた場所に来たと言う感覚に捕らえられる。ゲイツが毎日奮闘している大きな疑問、どうしたら貧困の中で育つ若者が成功するのを助けられるのか?と言う疑問が、合衆国における公的議論の中心課題だったのはそんなに昔の事では無い。ジョンソン政権時代、才気溢れる若者が行く場所は経済機会局(The Office of Economic Opportunity)、対貧困戦争(The War on Poverty)の司令室だった所だ。1990年代にワシントンでは再度、貧困に対する広範囲な議論が戦わされた。その多くは社会福祉制度改革に向けられていた。しかし今日ではもう議論も無い。貧困自体が消滅したわけでは無い。1966年、対貧困戦争が最高潮を迎えていた時、貧困者の割合は全人口の15%を下回っていた。2010年、最新の統計数字だとその割合は15.1%だ。児童の貧困率は22%、当然当時より今日のほうが高い。しかしながら政治的課題として見ると、大統領選挙の年であるにもかかわらず、貧困は殆ど無視された状態へと後退している。

もしローズランドの問題に注目するアメリカ大統領があるとすれば、それは何を置いてもバラク・オバマであるはずだ。偶然ながらこの近辺は彼の個人的、政治的履歴において重要な役割を果たした。1980年代後半の3年間、彼は若きコミュニティー・オーガナイザーとしてローズランドと近傍の低層住宅プロジェクトで働いていた。オバマが大統領選挙で「今まで受けた内で最高の教育を受けた」と言っていたのは、このコミュニティーでの事なのだ。そして最終的に彼がローズランドを去り、ハーバード・ロー・スクールへ行き政治家としてのキャリアを目指したのは、やがて戻ってきて近隣の問題に新たな視点で取り組むための知識やリソースを得るためだったと彼は言っている。

オバマが最初に大統領選挙に臨んだとき、都市型貧困は彼の選挙運動の主要な課題だった。オバマ上院議員はこの問題について演説し、彼の選挙用ウェブサイトには、他の多くの政策提言と共に貧困対策に捧げられたコーナーがあった。演台の上で彼は、自分の政権が「貧困を根絶させる」と宣言し、「共に働く事で10年以内に貧困を半減させる」と誓った。しかしオバマ政権下で公式の貧困率は上がり続けた。以前ニューヨーク・タイムズ紙の署名入り論説欄に執筆していたコラムニスト、ボブ・ハーバート(Bob Herbert)は5月にオンライン・マガジンのグリオ(The Grio)で、都市型貧困の中で成長する児童の「災厄」について公に言及しなかった事で大統領を叱責した。「バラク・オバマは『貧困』という言葉さえ自分では殆ど言わなくなった。」ハーバートは書いている。

オバマが貧しいアメリカ人に対して何もしていないと言う考えは真実では無い。複数の尺度から見て、彼は最近の他の大統領よりも多くの事をしている。しかしオバマが公的な場でこの問題に言及しなくなったと言うハーバートの指摘は正しい。オバマは大統領に成って貧困問題のみを取り上げた演説を一度もしていない。そしてもし貴方が最近barackobama.comを見たとすれば、貧困問題に関連する如何なる記事でも探し出す事は難しいだろう。その結果彼は、少なくとも今までのところ、貧困に対する全国的な議論を活発化する重要な機会を失いつつある。私達の貧困に対する知識、特にそれが子供に及ぼす影響についての知識は、ここ数十年の間に顕著に変化している。新しい概念が、経済学の分野、神経科学の分野、および、発達心理学の分野で出現している。4年前、バラク・オバマはワシントンの中で、こういった概念に精通し、その問題を一番強く認識している唯一の政治家だった。そして貧困に対するこういった新しい概念に彼を導いた知的な旅路はローズランドから始まったのだ。

オバマがローズランドへ来たのは1985年の夏だった。23歳の彼は自分の帰属する場所と目的を捜し求めるコロンビア大学卒業生だった。その当時シカゴで黒人である事は、困惑するような葛藤を伴う事だった。2年前、市ではじめての黒人市長、ハロルド・ワシントン(Harold Washington)が選出された事は黒人市民を勇気付けた。しかし多くの者は依然として貧困の中で暮らしており、シカゴで黒人が暮らす全ての地区は急速に戦場と化して行くように見えた。オバマが居た当時、市の巨大な高層住宅プロジェクトの現場から、ジャーナリストのアレックス・コトロウィッツ(Alex Kotlowitz)とかニコラス・リーマン(Nicholas Lemann)とかが報告した記事の内容は、今読んでも衝撃的なものだ。子供達が地面に這いつくばり弾丸を避けている。アパートの部屋が爆弾で炎上している。2つの隣り合った高層ビルの間で行われたギャング達の銃撃戦は長期化し、1台の警察車両では対処し切れなかった。

この当時のローズランドでの生活は、例えばカブリニ・グリーン(Cabrini Green)とかロバート・テイラー・ホームズ(Robert Taylor Homes)とかいった場所のシカゴ高層住宅プロジェクトの現場ほど酷いものでは無かった。しかし近隣は急速に変化していた。そしてオバマは、実情調査の過程でインタビューした土地の住人から、その変化がもたらす不安と恐怖を繰り返し聞かされた。自身の回顧録「Dreams From My Father」の中でオバマは、ローズランドで会った労働者階級の中年アフリカ系アメリカ人が、人生で達成した事に満足していると述べる話を書いている。「2人分の収入で彼らは、住宅の代金を払い、自動車の代金を払い、おそらくはマントルピースの上に飾られた写真に写る息子や娘たちの大学の学費も払っただろう。」しかし隣近所の未来について話す時、オバマは書いている。「私達の会話は、又別の、より不吉な緊張に彩られるのだった。」彼らは隣近所が悪くなっていっている事を心配していた。「店先が汚くなってきている。教会名簿は年老いて行き、見知らぬ家族の子供たちが通りを我が物顔で歩いている。集まってうるさく騒ぎ立てる10代の少年や少女が、赤ん坊にポテトチップを食べさせている。剥ぎ取られた包み紙が通りに散らばっている。こういったもの全てが痛ましい真実を告げている。彼らが達成した業績は束の間の根の浅いものに過ぎないと告げている。自分たちが生きている間でさえ持ちこたえられないと。」オバマは書いている。

サウス・サイドで暮らす時間が進むにつれオバマは、ローズラインドの若い住人の運命に心を奪われてゆく。特に次第に方向性と希望を喪失してゆくように見える10代の少年たちに。彼らに足りないものは単なる金では無くもっと深いものだと彼は実感する。オバマは少年としてインドネシアで数年暮らし、第3世界の貧困を間近に見た。そして回顧録の中でオバマは、アルトゲルド・ガーデンズ(Altgeld Gardens)で見た子供たちの暮らしと、ジャカルタのスラム街で成長期の少年として見た子供たちの暮らしとを比較した。多くの意味において、インドネシアのスラムで暮らす者達のほうが良いとオバマは書いている。「その全ての貧しさにもかかわらず、彼らの暮らしにはハッキリと感じ取れる秩序があった。」彼は説明する。「何世代もの人間が毎日、騒音や舞い散る埃の間で取引を繰り返す中で行われる習慣だ。そのような一貫性の欠如こそが、アルトゲルドのような場所をかくも絶望的にしているのだ。」

1987年の春、オバマはサウス・サイドで「何か違ったものが進行している」と感じ始めた、と書いている。それは目に見えないシフト、「雰囲気の変化、近づく嵐が放つ電気のようなもの」だった。そしてオバマにとって、その春、ローズランドにもたらされたものは、「大人や若者に等しく共有された感覚、全てではないが多くの子供たちが救援の手も届かない場所へとこぼれて行っていると言う感覚だった。」

1987年、スティーブ・ゲイツは14歳に成っていた。ローズランドの彼と仲間たちは、正にオバマがあんなにも心配していた根無し草で気まぐれな若者達だった。私がゲイツにその年の話を聞いた時、彼も又それが暗い時代だったことを覚えていた。「あれはクラックが酷く蔓延した年だった。」ゲイツは言った。「それで全てが変わってしまった。クラックが来る前、隣近所で銃声を聞いた事は無かった。」そのずっと前からゲイツは銃を携帯していた。そして暴力沙汰が増えるにつれ、少しでも余裕のある家族はローズランドを離れ、シカゴ市の境界を越えて南の郊外へ移住して行ったと彼は言う。残された家族の多くは散り散りバラバラになっていった。ゲイツが成人になるまで生き延びられた唯一の理由は、母親がバス運転手として余分な業務をこなし、彼をカトリック・スクールから大学に行かせてくれたからだった。

1987年の秋、オバマはハーバード神学校(Harvard Divinity School)でのカンファレンスへ出席する為にマサチューセッツ州ケンブリッジへ旅した。デイビッド・マラニス(David Maraniss)が最近出した自伝で書いているように、オバマが出席した会議の1つは、シカゴ大学の社会学者ウィリアム・ジュリウス・ウィルソン(William Julius Wilson)が主催したもので、氏はその時、自身の時代を画する本となった「The Truly Disadvantaged」を出版したばかりだった。おそらくは、ローズランドのような場所で起きている変化をこの本以上に説明している本は無いであろう。ウィルソンはこの当時アメリカ社会の貧困層で起きていた主なシフトを特定していた。社会学者は、住人の40%以上が貧困であった場合、その近辺を「赤貧(extreme poverty)」と定義する。そしてウィルソンは1970年から1980年にかけて、アメリカ上位5都市で赤貧地帯に住む貧困層の数は殆ど3倍に増えている事を示した。このような貧困の集中は、特に子供に対して、極めて破壊的であり、ローズランドのような地域における「社会的混乱(social dislocation)の指数関数的増大を招く」とウィルソンは書いている。

オバマは次第に、自分が練習した組織化技術が、ローズランドが直面する社会的病には不適切であると思うようになった。それでオバマは新たな考えを提案した。「ユース・カウンセリング・ネットワーク」。実際にYAPと少し似ているプログラム。両親に直接働きかけながら10代の若者へ指導や保護を提供するプログラムだ。しかしその時すでにオバマはハーバード・ロー・スクールに入学を申し込む事を決めていた。

彼は相反する感情を奥深く抱えたままローズランドを離れた。彼は時として、サウス・サイドを見捨てたような感覚に捕らえられた。しかし後に「Dreams From My Father」の中で述べているように、ハーバードへ行くのは、ローズランドの貧困を相手に働いてきた事の自然な延長線上にあると、自分を納得させることが出来た。共同体を組織する上での本質的な教義は、変化は政治力から来ると言うものだった。ハーバードへ行くのはより多くの政治力を得るためだとオバマは理由付けた。「私は権力の通貨を学びに行く」オバマは書いた。そして得た知識を「必要とされる場所へ持ち帰る。ローズランドへ、アルトゲルドへ、プロメテウスの炎のように持ち帰るんだ。」

そして実際に、オバマの政治家としての貧困に対するアプローチは活発であり革新的だった。2007年7月、大統領選挙初期の頃、ワシントン南西部の貧困率の高い地区、アナコスティア(Anacostia)のコミュニティー・センターでオバマは貧困政策のみに絞った演説をした。オバマは演説の中で、民主党伝統の網羅的対貧困政策、最低賃金の上昇、組合強化、健保受給者の拡大、教育機会の改善などを支持すると表明しながらも、彼の注意は都市型貧困に対する新たな解法へと注がれていた。彼はそれについて、「約25年前、私を公共に奉仕する生活へと導いた大儀です」と説明している。

ウィリアム・ジュリウス・ウィルソンの考えに肯きながら、オバマは都市内部の貧困は他の類の貧困と質的に異なっている事を証拠立てて説明した。「都市型貧困が最も圧倒的なのは、逃げ出すのが非常に困難だと言う点にあります。」彼は言った。「それは孤立したものであると同時に、何処にでもあるのです。」この種の貧困が単純では無く、判りやすくも無いと説明しながら、オバマは言った。「もし貧困がコミュニティー全体を犯す病であるとしたら、失業率、暴力、退学、家庭破壊、という形を取る病であるとしたら、これ等の症状を個別に扱う事は出来ません。私達はコミュニティー全体の治療が必要となるのです。」

オバマは正にそれを行う野心的なアジェンダを広げて見せた。彼はその中心に、ジェフリー・カナダ(Geoffrey Canada)と彼の団体、ハーレム・チルドレンズ・ゾーン(Harlem Children’s Zone)がハーレム中心街の高貧困地区97ブロックで行っている、子供の成長に対する集中的かつ包括的なアプローチを拡大していく事を据えている。その運動では、貧しい子供に対し、質の高いチャーター・スクールを提供するだけでは無い。両親に対するプログラム、就学前の援助、医療クリニック、ファーマーズ・マーケット、家族カウンセリング、そして大学願書の出し方の援助なども含まれている。(私の著書、「Whatever It Takes,(何が何でも、)」はカナダのプロフィールとチルドレンズ・ゾーンの歴史が書かれている。)

「私が大統領になったら、」オバマは言った。「都市型貧困と戦う最初の計画は、ハーレム・チルドレンズ・ゾーンを国内20の都市へ複製する事です。」大統領候補としては異例な率直さで、オバマはこの計画が高くつく事を認めた。「これにはいったい、いくら掛かるでしょうか?」彼は問いかけた。「正直に言わねばならないでしょう。安くはありません。おそらく年間数十億ドルかかるでしょう。しかし私達はそのお金を見つけ出します。何故なら避けて通るわけには行かないからです。」

今日、アナコスティア演説を振り返ってみて、オバマの提案で最も驚かされるのは、その大きさや範囲を超えて、彼がこれを単なる連邦政府の資金を使うもう一つのプログラムとは捕らえていない事だ。むしろこれは、より破壊的な可能性を秘めたもの。既存の都市内部への連邦政府援助の全体的オーバーホール。より多くの協力体制へのブループリント。集中的な貧困の多面的効果で破壊された都市区画へ、しばしばでたらめに投入される政府資金を、より効率的に、より素早く振り向ける方法だ。それは過去からの決別を意味していた。ローズランドのような地区での新しいやり方だった。

大統領になったオバマは、アナコスティアで説明したものとはとても異なる道を歩んできた。Promise Neighborhoodsプログラムは存在している。しかしそれは教育省が自由に出来る予算から切り出された小さなアイテムに過ぎない。「年間数十億ドル」を投入する代わり、彼の政権は3年間で4千億ドルしかこのプログラムに使っていない。その他、今年後半に、幾つかのコミュニティー・プログラムへ6千億ドルが使われる予定ではある。その他にも幾つか、集中する都市型貧困に注目した活動が存在している。しかしそれらは、殆どが小さく、各地でバラバラに行われている。そしてオバマが主に追行している対貧困政策は民主党伝統のグレート・ソサイエティ・アプローチだ。彼の政権は数十億ドルを、その殆どがワーキング・プア家族である貧困層への直接援助に使っている。

こういった優先順位のシフトが起きた理由は、オバマ政権にいる人々に従えば、前政権から引き継いだ経済危機の為だ。オバマの前シニア・アドバイザーで現選挙運動戦略家であるデイビッド・アクセルロッド(David Axelrod)が私に説明したように、「我々は本質的に経済における治療優先順位選別ユニットなんだ。第2の大恐慌へ国が落ち込むのを防ごうとするので精一杯さ。」政権交代期の大統領経済チームは殆どが中道派経済学者だった。ローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)、ティム・ガイトナー(Tim Geithner)、ジェイソン・ファーマン(Jason Furman)。しかし初期における彼らの最重要課題の1つは貧困層へ援助を提供する事だった。ケインズ学派の経済刺激策における中心的教義は、経済危機においては、直ぐに使ってしまう人々へ出来るだけ早くお金を配ると言うものだ。お金を持っていない人々ほど、政府から受け取った金を全て、直ぐに使ってしまう傾向は高い。その前の夏、ムーディーズ・アナリティックスのチーフ・エコノミスト、マーク・ザンディ(Mark Zandi) はマケインの選挙運動でアドバイザーをしていたが、積極的経済刺激策の必要性を議会で証言している。彼は証言の中で彼自身のアルゴリズムに従った簡単なチャートを示した。そこには、「出費に見合う価値(Bang for the Buck)」と書かれていて、色々な刺激策が紹介されていた。ザンディの計算に従えば、富裕なアメリカ人への援助は刺激策として効率的では無い。議会が削減した法人税では、G.D.P.は1ドル当たり30セントしか増えない。ブッシュ減税を恒久化する事による増加分は、全ての追加債務1ドル当たり29セントしか無い。

それに対し、貧困層や困難を抱えた家族へ金を与える刺激策は、より生産的だ。失業保険延長はG.D.P.を1ドル当たり1.64ドル増加させる。そしてザンディ・リストのトップは、フード・スタンプ・プログラムによる一時的な増加だった。その場合、G.D.P.の増加は支払われた1ドル当たり1.73ドルと彼は計算している。

経済危機の間、ジョー・バイデン(Joe Biden)のチーフ・エコノミック・アドバイザーだったジャレッド・バーンスタイン(Jared Bernstein)が私に話したところでは、ザンディのチャートは経済チームでとても真剣に受け取られていたと言う。「あらゆる人間があの倍率のリストを持ち歩いていた。」バーンスタインは言う。「フード・スタンプは何時もトップだった。一番倍率が大きかったんだ。」(殆ど4年経った今でも、バーンスタインはフード・スタンプの倍率を覚えている。)

現在、国家経済会議(National Economic Council)の副代表を務めるジェイソン・ファーマン(Jason Furman)は、2008年夏にオバマ選対本部の経済政策ディレクターに成った時、リベラル派が憤怒の矛先を向けた人物だ。(彼の批判者は、ウォルマートとかの多国籍企業を擁護する彼の発言に対し主に反対を唱えた。)しかしながら政権移行期の当初、リベラル派の予算・政策優先度研究所(Center on Budget AND Policy Priorities)の代表、ロバート・グリーンスタイン(Robert Greenstein)に、貧困層へ向けた有望な景気刺激支出の要望リストの提供を求めたのはファーマンだった。グリーンスタインが私に話したところでは、彼と彼の同僚達は、ホワイト・ハウスが好みそうな複数の異なる対貧困プログラムを詳述した長々としたメモを書き上げてファーマンに送ったと言う。数日後ファーマンはグリーンスタインに電話して不満を述べた。彼のメモでは短いと言う。「彼は『もっと大きな事を考えてくれ』と言ったんだ。」グリーンスタインは言った。「『もっとオプションが欲しい』ってね。」その秋、経済が依然下降を続ける中、数字は増え続けた。2009年、主に低所得アメリカ人をターゲットとした刺激策パッケージは合計で800億ドルを越えた。

従って2009年から2010年にかけて、オバマ政権は膨大な資金を迅速に低所得アメリカ人の手へ届けたのだ。復興法(Recovery Act)の一環として、政権は既存のプログラム、例えばフード・スタンプとか失業保険の対象者を拡大した。そして崩壊しつつあった経済とより緩いルールの組み合わせは、プログラムの急速な増大を意味していた。フード・スタンプ受益者の数は2007年の2740万人から2011年の4510万人へ上がった。2008年から2010年にかけて、その殆どが児童の680万の人々が、メディケイドを受け取り始めた。所得税控除や児童控除を含む種々の税控除対象者ルールの一時的な変更で何百万人もの低所得労働者に税金が戻された。その額はしばしば年間1人当たり数千ドルを超えた。

そして国勢調査局による公式の貧困状況は、2008年の貧困ライン以下13.2%から2010年の15.1%と、オバマ政権下一貫して悪化してはいるが、この陰鬱な数字には重要な但し書きが付けられる。政府の統計局が貧困率を計算するとき、彼らは現金収入のみを含める。そして過去20年間、オバマ政権下では特に、連邦政府が貧困者へ与える援助は、現金を渡す事から、フード・スタンプとかメディケイド補助とかハウジング・バウチャーとかの非現金補助へとシフトしており、これ等は貧困統計での家計収入には含まれない。若しフード・スタンプやその他の非現金補助を含めれば、何人かの計算によると、貧困率はオバマ政権下、この70年で最悪の経済危機下においてずっと上がり続けていたわけでは無い。これは注目すべき業績だ。先月私がウィリアム・ジュリウス・ウィルソンに現政権の対貧困政策について彼が何と考えているか質問した時、彼は、オバマは「低所得アメリカ人に対して、リンドン・ベインズ・ジョンソン以降のどの大統領よりも多くの事をしている」と答えた。

ローズランドでの景気刺激策は事態を余り改善していない。しかしそれは彼らが、もっと悪い状態に成るのを押し留めてはいる。フード・スタンプで幾つかの家族は充分な食料を得られた。ティーンエイジャーは夏のアルバイトを得られた。何人かの借家人は家賃支払いで援助を受けた。景気刺激策はシカゴ公立学校がYAPプログラムへ資金を提供するのを認め、それによってスティーブ・ゲイツはジャスミンやダミアンのような子供と働き始める事が出来た。しかしこれは、その定義からして、一時的な修正に過ぎない。

今日、政府高官が貧困に対する長期的対策を述べようとする時、彼らはしばしば教育について言及する。そして内閣のメンバーで貧困児童の抱える苦境に最も強く個人的な懸念を表明するのは、教育相のアーン・ダンカン(Arne Duncan)だ。ホワイト・ハウスに来る前、ダンカンはシカゴの公立学校を統べる長官だった。そこで彼は、市の崩壊しつつある高校、その多くがサウス・サイドにある高校のオーバーホールに高い優先順位を与えた。そして教育相となっても、国内の最も成績の悪い学校1,300校を転換させる連邦政府プログラムに30億ドルの追加支出を決め、教育改善の努力を続けている。「私が基本的に信じている事、そして大統領も同じ様に信じている事は、」ダンカンは私に言った。「貧困を終らせる唯一の道は教育だと言う事です。」

偉大な学校が多くの低所得児童へ貧困から抜け出す道を提供している言う証拠は次第に増えてきている。そしてダンカンは、例えばローズランドのような地区の学校を変貌させれば、その地区に生きる子供たちの人生を変換できると言う考えを強く信じている。しかしローズランドでの学校改革の歴史はあまり勇気付けられるものでは無い。ジャスミンとダミアンは、クリスチャン・フェンガー高校(Christian Fenger High School)へ入学した。赤レンガ3階建ての堂々たる建物で、112番通りにある。ダンカンとその先任者の時代、フェンガー校は数多くの改革のターゲットだった。中途半端に終わった、数学と科学のアカデミーに変貌させるプログラム、その実態はNASAが提供した525,000ドルで科学実験室を作る事で完了したプログラムから、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金による大規模な出資が使われた「トランソフーメーション」プログラムの導入まで、様々な改革が行われた。しかしそういった全ての努力に関わらず、フェンガー校の学業成績は、ダンカンの任期中殆ど変化しなかった。新入生クラスの約半数は卒業までにドロップアウトする。フェンガー校の2年生で、A.C.T.テストで20点以上を取れるのは約2~3%しかいない。20点以上はシカゴ公立高校で大学入学資格とされている点数だ。

過去10年間の学校改革運動は、貧しい子供たちに対する幾つかの注目すべき成果を上げている。しかし教育界では、例えば両親の深い関与を要求するチャーター・スクールのような一連の改革が低所得児童に高い効果を上げるのは、家庭が安定していて余裕がある場合に限られていると言う懸念が増大している。シカゴの公立学校に通うのは殆ど低所得の人々だ。連邦政府の昼食補助を受けていないのは8人に1人だけ。そしてその中でも、何人かの生徒は他の子よりさらに恵まれない状況にある。シカゴ大学のシカゴ学校研究協会(Consortium on Chicago School Research)は最近、特に恵まれない生徒を特定した。貧困と失業が集中し、犯罪が蔓延し、児童虐待件数も増加している地区に住んでいる子供たちだ。研究者達は、そういう子供たちが46の公立学校に集まっていることを発見した。ウィリアム・ジュリウス・ウィルソンの言葉を借用し、研究者達はこれ等を「真に恵まれない(truly disadvantaged)」学校と名付けた。この46校は頻繁に行われる改善努力のターゲットと成っている。しかしこれ等の学校は、(やはり貧しいが)それ程酷く無い生徒たちの学校と比較して、改革に対する前向きな反応が返ってくる事が少ない。

協会の研究者達がシカゴの生徒たちの間に発見した相違点は全国的な貧困のトレンドとも一致している。国勢調査局は、政府が「重貧困(deep poverty)」と呼ぶカテゴリーの追跡調査をしている。貧困ラインの50%以下しか収入が無いと重貧困に居ると分類される。金額にして4人家族で年収11,000ドル、フード・スタンプ等の非現金補助は含まれない。最近の経済危機とその後の混乱で重貧困状態の家族は急速に増えた。2010年、貧困ライン半分以下の家族に属するアメリカ人の割合は新記録を付けた。全人口の6.7%、15人に1人のアメリカ人だ。児童の場合その数は不安を覚えるほど高く成る。2010年度で10人に1人のアメリカ人児童が重貧困状態だ。

この重貧困の増加は明らかに経済の変化と関連している。しかしこれは又、過去20年間に起きた政府の貧困援助のシフトにも、より多く関連している。去年、政策数理研究所(Mathematica Policy Research)のヨナタン・ベン=シャロンが率いた経済学者チームが発表した中間報告には、拡大する格差の物語が述べられている。1984年、貧困家庭に対する連邦政府援助は、その言葉通りの意味で、段階的だった。最も貧困な家庭は一番多く援助を受けていた。貧困ライン50%以下の片親家庭は、今日の価格で、平均毎月1,231ドル連邦政府から貰っていた。軽貧困(shallow poverty)に分類される人々、貧困ライン50%から100%の人々は448ドルだった。しかしこの20年間に状況は逆転する。重貧困家庭に対する政府援助は平均38%下がる。一方軽貧困家庭への援助は86%増加した。2004年、政府は実際に毎月、重貧困家庭より軽貧困家庭へ、より多くの援助をしている。

このシフトは1990年代に起きた、貧困者に労働を奨励しようとした一連の法改正の結果だ。その中には所得控除の拡大や、低い給料で働くシングルマザーの子供をメディケイドでカバーする法律などが含まれている。同時に、働かない貧困家庭への政府援助は急激に下がった。1996年に議会を通過した社会保障改革法案では、引き続き貧困家庭へ現金補助が与えられるが、厳しい条件が付け加えられた。援助を受ける大人、殆どがシングルマザーの人々は、働いているか働き口を探そうとしていなければ援助を受けられない。この20年間、現金補助は常に下がり続け、現在多くの州では無くなっている。ワイオミングでは僅か314世帯のみが現金補助を受けている。イリノイス州では1997年から2011年にかけて取り扱い件数は86%減少した。ジョージア州では1996年、90%以上の貧困家庭が現金補助を受けていた。今は8%だ。

少なくとも理論的には、この厳しいアプローチは経済観念に適っている。低賃金の仕事を貧困な大人に、より魅力的に見せる為には、働かない事が魅力の無いものにしなければならない。小さなニンジンに、小さな罰だ。この理論が破綻するのは、こういった大人が子供を育てているケースだ。そして多くの大人は、例えばジャスミンやダミアンの母親のように、とてつもない困難を抱えている。政府が過去20年間にしてきたように、彼らの収入を削る事は、彼らをより効率的な親にはしなかった。そして必然的に彼らの子供を傷つける結果となった。

今や貧困ライン50%以下の家庭のアメリカ人児童は700万人居る。私達はこの10年間に、年収11,000ドル以下の家庭生活にしばしば付随する絶え間ない混沌の中で育つことが、子供にどんな影響を与えるか、数多くの事を学んできた。神経科学者や発達心理学者は、早期のストレスやトラウマがどのように前頭葉の発達を阻害するか説明することが出来る。安定した成人との強力で信頼できる関係の欠如が子供の、実行機能(executive function)と呼ばれる一連の認識能力の発達を、如何に阻害するかを説明できる。

しかし事実として、重貧困の生活が子供へ与える影響を説明するのに、神経科学者は必要としない。高い貧困率の地区で幼稚園の先生をしている人に聞いてみれば誰でも教えてくれる。特別に困難な環境下で育った子供は、学校で衝動を抑えるのに苦労する。クラスメートと一緒に行動したり指示に従うのに苦労する。集中的な早期の介入は大きな違いをもたらす。しかしそのような追加援助が無い場合、最貧困家庭からの生徒は通常、学校で早くから遅れを取り、殆どキャッチアップできない。衝動抑制に問題を持つ子供を1つの教室に多くの割合で集めた場合、教師は、教えたり生徒に学ばせたりする事が困難に成る。そしてこういった児童が思春期に達すると、スティーブ・ゲイツが介入に成功したような人々で無い限り、彼らは自分自身やお互いにとって危険な存在に成る。彼らのコミュニティーに危険な存在と成る。

バーバード大学のCenter on the Developing Childのディレクターで小児科医のジャック・ションコフ(Jack Shonkoff)は、苦難と脳発達に関する科学を、重貧困で暮らすアメリカ人児童をより良く助ける政策へと翻訳するキャンペーンを指揮している。彼に言わせると、現政権の政策は、学校で成功する為に追加の集中的支援を必要とする児童の特定には、非常に良い方法を提供していると言う。若し親が連邦政府の現金補助に必要な作業を扱えないとするならば、おそらくその子供は、幼稚園で行儀良く振舞えるように成る為に、追加援助が必要であるだろう。しかしこういった子供はしばしば、追加的特別援助を受ける事が最も少ないであろう子供たちなのだ。別の言葉で言えば、大なり小なり、私達が今日やっている事の反対の事をすれば、私達が貧困児童に向けるサービスはより良くなるだろう。

去年4月のある日の午後、 YAPのカウンセラー、シーン・レット(Sean Lett)と共に私はフェンガー高校を訪れ、ダミアンと彼の母親に出くわした。その日は成績表返却日だった。レットは正に言葉の意味通りに親代わりだった。面倒を見ている全ての子供について教師とチェックした。1人1人と椅子に座り、成績表を1行ごとにチェックした。ダミアンを見つけた時、彼は成績表を見ろと言った。酷いものだった。たくさんDやFがあった。レットはダミアンをホールの真ん中で叱った。「なあおい、こいつは充分良くは無いな。」彼はおおいかぶさるようにして言った。「お前はいずれ自分で仕事を始めなきゃいかん。現実の仕事だ。誰もお前の為に働いてはくれないんだ。」彼は声を上げた。「遊びを止めろ。これは現実の人生なんだ。お前は幾つになった?」

「18」ダミアンは言った。

「18か?瞬きする間に21になっちまうぞ。本当だぞ。」彼はダミアンの肩に手を当てた。「お前には出来るんだ。俺は知っている。ちゃんと心を配れば良いんだ。」

最初に会った時レットは私に、自分の役割は単なるメンターでは無くて、もっと重要なものだと思っていると言った。「私達の子供の多くは父親がいない。」彼は言った。「もし暮らしの中に父親の影が無いと、規律とか決まりごととかを持てない。もし決まりが無ければ何もできない。単に混乱があるだけだ。」

レットの分析は、貧困が時間と共にどのように変化してきたか研究している学者達によっても裏付けられている。ジョンソン大統領の対貧困戦争(War on Poverty)時代のアメリカ貧困層の生活や可能性を振り返ってみると、2つの大きな変化があった事を見て取れる。物質的な意味では多くの場合良くなる傾向にある。貧困ライン以下のアメリカ人が餓えたり栄養失調になったりする事は、その当時より現在の方が少ない。貧困ライン以下の家族の多くは、1960年代には考えられなかったような贅沢品を持っている。エアー・コンディショナー、ケーブルTV、携帯電話。

しかしながら物質的なギャップが無くなる中で、別の種類のギャップが貧困層と中間層の間に開いている。社会的ギャップだ。1960年代、殆どのアメリカ人は、富裕層も中間層も貧困層も、両親のそろった家庭で子供を育てていた。彼らは比較的安定した、収入にばらつきのあるコミュニティーで暮らしていた。各層だいたい同じような数の人々が教会に集まった。子供達はしばしば同じ公立学校へ通っていた。今日ではこういった社会的要因は階層によって極めて異なっている。そして状況が最も激しく異なっているのは、貧困層においてだ。ダミアンは恐らく携帯電話を持っている。しかし彼は父親に会ったことが無い。

今日において、こういった社会の変化に対し、最も卓越した記述を残している2人の社会科学者は、最近その状況を記述した本「Coming Apart: The State of White America, 1960-2010(分断:アメリカ白人社会の状況、1960-2010)」を出した保守派哲学者のチャールズ・マレー(Charles Murray)と、「Bowling Alone(孤独なボウリング)」の著者として知られるハーバードの進歩派政治科学者ロバート・パットナム(Robert Putnam)だろう。マレーとパットナムがそれぞれレポートしているのは、大卒の裕福なアメリカ人は、両親の揃った安定した家庭で子供を育てている事。この集団では離婚率は過去数十年間下がり続けている。未婚出産の割合は僅かに上がっているが、それでも極低いままだ。パットナムのデータによれば、教会出席率は1990年から一定となっている。社会との関係を表す指数は上がっていて、両親が子供と過ごす総時間、特に幼児と過ごす時間は、急速に増えている。

しかしながら、社会経済尺度で底辺にいるアメリカ人の場合、状況は非常に異なっている。教育を受けていない低所得のアメリカ人の教会出席率は1990年から下がり続けており、離婚率は上がっている。両親が揃った家族も減っている。2010年、収入分布で見て上位3分の1家庭の子供の内88%は結婚した両親の元で育てられている一方、下位3分の1では41%しかいない。確かに多くの片親の人たちが幸福で成功した子育てをしてはいるが、こういった傾向は、低所得層の児童に対し重大な負担を強いている。

「子供を育てると言う見地からいうと、」ションコフは私に言った。「所得の尺度でみて底の方の家庭にいる児童は、良い結果に繋がる親からの影響や世話をより少なくしか受けられず、悪い結果に繋がる困難さに直面しやすい事を、我々は知っている。」子供にとってこういった社会的要因は大きな相違をもたらす。今現在の暮らしやすさだけで無く、将来の経済的可能性にも相違をもたらすのだ。これは貧困の研究における比較的新しい考えだが、学者の間でこの考えを受容する人が増えている。貧困が一つの世代から次の世代へと付きまとう上での重要な要因は家族のダイナミックスとそれが子供の成長に及ぼす影響だ。この意味するところは、若し人々の社会階層を上昇する能力を改善したいと思うのならば、私達は恵まれない両親とその子供達を助けるより良い方法を発見する必要があると言う事だ。

この貧困理論は社会学者の間ではまだ議論の決着が付いていないが、貧困地区の中においては議論の余地は無い。オバマ自身、ローズランドでそれを見てきた。「The Audacity of Hope(大いなる希望)」の中で、家族の崩壊が都市型貧困を永続させる役割を果たしていると、貧しいアフリカ系アメリカ人が良く認識している事をオバマは書いている。彼が言うように、「黒人の仲間達は、しばしば、衰えてゆく職業倫理とか、不十分な両親の役割とか、減り続ける性倫理とかについて、ヘリテージ財団が喜びそうな程、熱意を込めて語る。」

私自身、似たような経験をローズランドでした。スティーブ・ゲイツはどんな意味でも保守的では無い。しかしYAPで面倒を見ている子供達が、学校や人生で直面する問題の根っこを語る時、彼は何時も彼らの家庭環境の問題へと帰ってくる。「子供達の家の事を詳しく見れば、何であいつらがああなのか、完全に明白さ。」ゲイツは私に言った。「家族の問題と子供達の学校での振舞いには正に直接の関連がある。両親の不在、家庭の機能不全、全部子供達にのしかかるんだ。そして子供達はそれを学校へ持ち込む。通りに持ち出す。あらゆるところへ持ってゆくんだ。」

残念ながら、こういった社会の変化は政策決定者に非常な困難をもたらす。アメリカ人は特定の貧困について政府が如何に行動すれば良いか知っている。もし家族に、生き延びる為に充分な食料やお金が無いのなら、私達はどうやってフード・スタンプやお金を出せば良いのか知っている。しかし子供達が、人生で成功するのに必要な、安定とか保護とか秩序とかを欠いた家庭で育つ時、政府がどのように振舞えば良いか、アメリカ人は判っておらず、確実に合意もできていない。私達は一般的には、人々が社会階層を上昇するのを政府が助けたり、政府が成功機会を増やしたりする事に合意する。しかし私達は、政府が個人的な家庭生活の中に介入する考えを好まない。そうして私達はジレンマの中に捕らわれる。貧困児童が社会階層を上昇するのを拒む最も大きな要因は、私達が解決の為の優れた戦略を持たない要因なのだ。そしてそれは、私達が言及する事さえ、ためらうような要因なのだ。

このような政治的制約を考えたとき、ダミアンやジャスミンのような若い人に対して、オバマ大統領はどうすれば今までと違ったやり方をする事が出来るのだろうか?ローズランドが必要としているのは、必ずしも連邦政府資金の大規模投入では無い。他の何よりも必要なのは、今日存在するものよりも、より包括的で大胆な対貧困戦略だ。子供達の、誕生から思春期までの状況を改善する事に集中するアプローチだ。フード・スタンプ等の援助は重要だが、ダミアンの母親のような人は、さらに踏み込んだ援助が必要なのだ。学校はもちろん改善されなければならない。しかし良い教師とか高い希望だけでは、地域全体が及ぼす浸透性の強い影響を変えられない。例えば親を対象とする家庭訪問プログラムとか、最も恵まれない家族をターゲットとした集中的幼少期教育とか、YAPのようなティーンエイジャーを対象としたメンター・プログラムのような、子供達の重荷となっている家族の機能不全を直接的な方法で取り上げる数多くのプログラムを作る事。それによってしか、大統領は2007年アナコスティアの演説を実現出来ない。

オバマ政権は事実として、現場で行われているこれら全てのプログラムへ資金を提供している。しかしそれは比較的少なく、互いの協力も無く、しばしば一時的なものでしか無い。シカゴのYAPへ資金を提供していた景気刺激策は2年で使い果たされた。YAP運営者は学校関係者や市長のラーム・エマニュエル(Rahm Emanuel)に市予算によるプログラムの継続を訴えた。しかい1年前、YAPの基金は約半分に切り詰められ、その次の月、プログラムは完全に終了した。スティーブ・ゲイツは職を失った。

そしてリベラル派の間では、オバマに必要なのはさらに何回かの優れた演説だと言う意見は、殆ど決まり文句のように聞かされる。大統領が公衆に貧困政策の困難さを率直かつ思慮深い態度で説明する演説、オバマが上院議員時代にしてきたように、そして大統領選挙中にしてきたように、それによって違いを作り出す事が出来る演説が必要なのだと。オバマの長年の友人でメンターそして現在大統領のシニア・アドバイザーであるヴァレリー・ジャレット(Valerie Jarrett)に、オバマが都市型貧困に対して比較的静かであることについて質問した時、彼女は答えた。オバマが大統領候補としてアナコスティアで貧困について演説したやり方、一つのアメリカ人グループに独特な問題として演説したやり方は、彼にとって大統領として言及する上では正しいやり方では無かったのだと、ジャレットの話では、大統領として、より良いアプローチは、もっと大きなプログラム、全てのアメリカ人を経済的に持ち上げるプログラムだと言う。彼女が説明するところの包括的なアプローチだ。彼女は付け加えて言った。「私が思うに、人々が貧困層から中間層へ上がるのを成功裏に援助するチャンスは、何故そのような道が全ての人に与えられる事が最善の利益となるのかを、全ての人が理解する時に始めて最大となるのです。私達は、何故これが自分自身の利益となるのか、全ての人が理解するようなやり方で話さなければなりません。」

このような事は、困難な経済状況下のどんな政治家にとってもチャレンジであるだろう。中間層自身が恵まれないと感じている時に、真に恵まれない人々を助けるために税金を使う事について、どのやって有権者を説得したら良い?問題は世界的経済成長は赤貧の人々を助けないだろう事、少なくとも充分には助けないだろうと言う事だ。ローズランドのような地区を変えようと思ったら、特別な、目標を定めた、効果的な援助が必要だ。

6月に私がローズランドを訪れたのは、初めてスティーブ・ゲイツに会った約2年後だった。最も驚いたのは、近隣が余りにも変わっていなかった事だ。店舗の店先は殆ど板が打ち付けられて塞がれたままだった。生徒の卒業率は依然として低いままだった。私とゲイツは、撃たれて死んだ又別の若い男の、又別の葬式に出席した。しかしゲイツは楽天的になろうとしていた。金曜の夜、ゲイツは私を、バプティスト教会の地下で行われたYAPの卒業パーティーに招いてくれた。ダミアンは盾を貰い、仲間達とメンターに向けて短いスピーチをした。彼には今や2人の赤ん坊がいて、いつも大変だと言う。しかし高校を卒業して靴屋で仕事を得たと言う。彼の家の表の窓は又壊れたそうだ。しかし今は夏だから、そんなに大きな問題では無い。

それはたぶん、ダミアンのような家族で、彼と彼の子供達に現実の成功への希望を持たせるのに必要な、小さくて個人的で漸進的な進歩だろう。そしてそれは、単純にどんな政府の力をも、どんな大統領の力をも超えたものなのだろう。しかし2年の間に、スティーブ・ゲイツは回りまわって、ローズランドにおける連邦政府職員になっていた。そして彼のした仕事は、少なくとも私にとっては、ダミアンのような若い人と関わる、より生産的で異なったやり方を指し示していた。

新しいアプローチを見つけることは難しい。2007年のアナコスティアで、オマバは「私達の都市を少し手も良くしようと思ったら、達成できた事に対する謙虚さと、成長を待つ忍耐が必要でしょう」と認めている。しかし現実の変化の為には、それ以上のものが必要だと彼は言った。「最も重要なのは、これには合衆国大統領の継続的な関与が必要だと言う事です。」

~~ここまで~~

次回更新は9月15日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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