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もう一つのシベリア鉄道

連休と言う事で旅行記をUpします。

記事を書いたのはフィン=オラフ・ジョーンズ(Finn-Olaf Jones)さんです。元記事はここにあります。

シベリア鉄道支線の旅です。

~~ここから~~

もう一つのシベリア鉄道

「ベラルーシに住む若い娘だった私にとって、深夜のラジオ番組が紹介していた、シベリア開拓地に建設される鉄道の話は、それはロマンチックで、自分もその中に加わりたいって思うような話だったのよ。」出来たばかりの私の鉄道仲間、57歳のミラ・コズロヴァ(Mila Kozlova)はそう言った。私達は客車の中で前後に揺られながら、シベリアの大自然の中を進んでいた。彼女は窓の外を流れてゆくカバノキの大海原を満足そうに眺めると、家で漬けてきた野菜のビンを2つ取り出して窓枠テーブルに並んだ雑多な食物に加えた。バイカル-アムール・メインライン鉄道(Baikal-Amur Mainline Railread)、ロシア人がBAMと呼んでいる鉄道での日々は、2,500マイルに及ぶ食べ放題な旅へと変わっていった。

過去3時間というもの、私達は1本の道路も、1つの村も、1人の人間も、この森林が続く大自然の中に見出さなかった。外を眺めながら、世界の中でこれ以上ありのままの場所は無いと思った。大陸横断鉄道の線路から目に入る場所には人の住んでいる気配が無い。時として線路が木々の上に出ると、緑の地平の向こうに雪をかぶった山脈が輝いているのが見える。ミラは正しかった。シベリアの広大な自然の中を、ありそうも無く非現実的で、なおかつ勇壮な絶景を進む鉄道で旅する事には、否定しがたいロマンスがある。

シベリアを鉄道で横切ろうと思ったら、殆どの人が考えるのはシベリア横断鉄道だ。1916年に完成したモスクワから太平洋まで続く5,000マイルの長さの鉄道。しかしモスクワから大陸を3分の2進んだところで、シベリア横断鉄道から別の幹線が枝分かれしている。BAMだ。町も舗装道路もほとんど無い、地図の空白の中を、なぜだか北へと突き進み何処かへ行ってしまう謎めいた長大な鉄道路線。

ジョセフ・スターリン(Joseph Stalin)時代に、シベリア横断鉄道の北部代替線として建設が始まったBAMは1991年に完成したばかり。シベリア木材や天然ガス、石油に対するアジアの需要が膨れ上がるのに伴い、今でも改修が続いている。「スターリンがBAMを作ったのは、中国が進入してきてシベリア横断鉄道を取ってしまうと思ったからなのよね。そんな事は起きなかったけど。」ミラは言った。「ブレジネフ(Brezhnev)は開拓民のユートピアを作ろうとしてBAMを拡張したわ。それも実現しなかったけどね。今となっては、」彼女は手縫いの大きなセーターの中で肩をすくめながら言った。「これが美しい旅路である事以外には、何の為の物かなんて誰が知っているというの?」

私は何年もの間、私の旅仲間であるニューヨーク在住のロシア人、ユリア・ダルチナ(Yulia Dultsina)と、シベリア横断鉄道でロシアを横切る旅を計画していた。そしてある時、古いプロパガンダ雑誌のソビエト・ライフに載ったBAMの華麗な説明に出くわして興味を持った。広大な空白地帯を鉄道でたどる旅は私達の心をつかんだ。旅行客で混雑する使い古されたシベリア横断鉄道の代わりがあるじゃないか。

昨春私達は、韓国ソウルからBAM支線が通るハバロフスク(Khabarovsk)へ飛んだ。中国とアムール河を隔てた場所に在るロシアの東端、古くからある魅力的な交易都市だ。ハバロフスクは又、シベリア横断鉄道の主要な駅であり、旅客が路線を乗り換えるインターセクションとなっている。

「まるでヨーロッパみたいね。」ユリアが言った。私達は時差ぼけの中、ハバロフスクの堂々たる帝政時代の大通りを歩いていた。キャンディー色のネオ・クラッシックな建物がアムール河に面して立っている。しかしながら、日没間際のピンク色の空、それにほとんど誰もが着ているミンクのコートから時折のぞく目が、自分たちがアジアの奥深い場所にいることを告げていた。

銅ぶき屋根のハバロフスク駅から出発する列車に乗った私達は、シベリア横断鉄道の旧世界建築に別れを告げた。その変わりに私達が選んだのはソビエト時代のコンクリートの狂演の世界。やがて線路が南へとカーブし、約2,000マイル西のテイシェットで再びシベリア横断鉄道と繋がるまでの1週間の旅だ。

最初に出会った車掌は髪を金髪に染めて青い制服を着た女性だった。私達が荷物を上に上げようと、列車の急な階段で苦労していると彼女は顔をしかめた。「この次はもっと荷物を軽くしてください。」私達がゆるいカーペットの上でスーツケースを転がしていると、彼女は小言を言った。そのゆるいカーペットは列車内の全ての床を覆っているようだった。

しかし私が列車で唯一の外国人乗客であると知ると、彼女の態度は殆ど母親的な態度に変わった。トイレの横にある、押入れのような小さなキオスクから、ティーバッグやらミネラル・ウォーターやらキャンディーやらを持ってきてくれた。日没時には列車のリビングルームの雰囲気を良くしようと、長いさおに取り付けられた廊下の窓のカーテンを引いてくれた。

BAMはシベリア横断鉄道のような豪華な快適さは無い。つまるところBAMがカバーする領域には観光地が存在しない。この路線は貨物輸送と大自然の中でビジネスをする人の為の路線だ。私達が旅程の最初に乗った1ダースの車両の半分を占めていたのは、シベリアの製材所や油田や天然ガス井へ向かう労働者やマネージャー、それにこの路線で働く人々だった。そうした事が示すように、この列車は実用本位の列車で、付属しているのは、派手さの無い食堂車両、実質的に24時間営業のバーとして運営されている車両と、2台の込み合った3等車両、寮のような寝台をカーテンで区切ったせせこましい車両と、数台の2等車両、4つの心地よい寝台が付いたミニバンサイズのキャビンが入った車両だ。

2等車両の寝台にマットレスを広げ、その上にパリッとしたシーツを敷いて、快適なサービスを受けた気分になった私は、月明かりの照らす森林が壁に劇的な影を映し出す中、列車の優しい揺れに誘われて眠りに落ちた。

BAMは大衆的な路線ではあるが、時間には正確であり、私が合衆国で乗ったどの列車よりも優しい乗り心地をしている。帝政時代とソビエト時代を通して、驚くほど広大で良く管理された鉄道システムは国の誇りであった。そして乗組員のしみ一つ無い制服に伝統が生き残っているのを見ることが出来る。彼らはこの大自然を通るマシーンを常に掃除し磨いているようだった。引っ切り無しに流れを横切り、丘や山を通り抜けているにも関わらず、テーブルの上でバランスを取る、鉄製の取っ手付きグラスに入ったロシア・ティーは、一滴もこぼれる事が無かった。「アムトラック(Amtrak:アメリカの鉄道会社)もこのぐらいスムーズであるべきよね。」ユリアは言った。私達はおそらく2000もの橋を渡り2ダースものトンネルを通ってゆくのだが、幾つかの地域は余りにも辺鄙なので、建設資材は艀で内陸へ運ばなければ成らなかった。この国の広大さと、ここまで来る鉄道交通の限界の為に、列車はしばしば単線を走る事になる。急坂を上る時などは、後方に広がる人の手が及ばないツンドラの中に、絡み合った糸のように線路が続いているのを見る事が出来る。

2番目の夜を過ごした後、列車はノビー・ウオヤン(Novy Uoyan)という寒村に止まった。15分間の停車時間の間、私達はシベリアのすがすがしい大気の中へ出てゆき、タラに似た土地の魚、オームリ(omul)の干物を一袋と、庭で育てたラズベリーのジャムを一瓶、駅の入り口に集まっているカチーフを被った女性達から買った。駅舎は彫刻飾りの屋根を持つ、1区画を占有する巨大な構造物で、他の半ダースほどのノビー・ウオヤンのコンクリート建築物がまるで小人のように見える。

私は駅員に、この近辺は熊が出るのかと聞いた。

「この辺全部ですよ。」彼は言った。「春であれば何時でも線路から見ることができます。時々、鉄道作業員が追い詰められて助けを求めてくるんですよ。」彼は厳しい微笑みを浮かべた。「現場にたどり着いても血痕しか残っていない場合もあります。」

険しく孤独で野蛮な場所を快適な列車から眺める事には、独りよがりな喜びが確かにある。私達は2本の金属の筋で直接モスクワと繋がりながら、暗黒の真っ只中(Heart of Darkness)と窓ガラス一つ隔てている。私達の日々は心地よいルーチーンに変わっていった。野性の世界が外を流れてゆく中で、しょっちゅう入れ替わる旅客との親密なコミュニティで形成される窮屈ではあるが移り変わる内側の世界。

私達は列車が進む中、夜遅くまで旅仲間とお喋りに興じた。青白い太陽が登り、又森林へと沈むのを眺め、遠くの山並みを眺め、お湯を取りに何回も、全ての車両の後ろに備え付けられた湯沸しへと往復しながら、終わり無く続くお茶や一時間毎のウォッカで乾杯し(ここの人々は薬のようにウォッカを飲み、酔っ払う為には飲んでいない)、優しく揺られながら眠りに落ちた。

1週間続く旅の間、入れ替わり立ち代り私達の車両を訪れてくれた旅人達、その中にはバイカル湖北部の油田へ行くエンジニアや、休暇中の海軍将校、一言も喋らなかった大学生等がいた。その人たちのおかげで、私達のテーブルは何時も食べ物が乗っていた。ピロギ(pirogi)、鳥の煮物、ピクルス、ハム、その他発音する事もできない食べ物達。私達が提供したのは、列車が色々な駅に止まる度にバブーシュカ(老婦人)達から買う土地の食べ物、それと毎日入れ替わり何処からでも出てくるウォッカのビン。食堂車へ行くのは1日に1回だけ、カリカリに揚がった朝食を食べに行くときだけだった。朝食は厚化粧して細かい模様のショールを被った女性が給仕してくれる。しかし彼女は、次第に浮かれ騒ぎを強めるジャージ姿の若者たちへ朝ビールとか朝ウォッカを出すのに忙しそうだった。「ゴプニックス(Gopniks)よ。」ユリアが囁いた。ロシア語で彼らみたいな同じ服装をし、国内のあらゆる公共の場所で昼日中、何時でもパーティーをしているのを見つけられる若者たちを指す言葉だ。

しかし最もシュールリアルな眺めは外にあった。2晩目の午前2時に停車したのは、開けた場所に不釣合いなほどエレガントなソビエト‐デコな駅舎が経つチルチ(Chilchi)だった。そこでは黒い毛皮のコートを着た息を呑むほど美しい女性が2人、ハイヒールで列車に乗ってきた。一瞬の後、私達は再び森の中へと戻る。チルチはまるで、シベリアのタイガの中に立ち現れた優雅な幻であるかのようだった。

窓に映ったもっと奇妙な風景は、森の中に立つステンレススティールの胸像とか、コンクリートを削って作った抽象派の彫刻、丘の上に取り付けられた巨大な赤い星、ソビエト時代に考えられたユートピア的未来の亡霊だ。1960年代と70年代、レオニード・ブレジネフ(Lonid Brezhnev)の時代、BAMは全国的な運動を巻き起こした。学生、エンジニア、労働者、芸術家が大自然を切り開く事業に手を貸した。ロシア版公共事業促進局(Works Progress Administration:アメリカでフーバー大統領、ルーズベルト大統領の時代に設置された失業軽減機関)だ。「私は美術学校の仲間と何百万もの蚊と一緒に一夏あそこで過ごし、てモニュメントを作ったのよ。」モスクワのアート・ギャラリーのオーナー、ジュリア・グエルマン(Julia Guelman)は言った。「今まで、あれを見たと言う人に会った事がないの。まるで何処でも無い場所に立っているみたいよ。」

私は通常、ソビエトの未来的デザインを全体主義が生んだ俗悪として片付けていた。しかしこの驚くべき構造物で表現されるユートピア的光景を経験してみると、今やそのうっとおしい政治的文脈が剥ぎ取られたソビエト・デザインが、しばしば個性的で想像力溢れ、見事に生き生きとさえしている事に驚かされた。BAMの本社が置かれている都市、ティンダ(Tynda)の駅舎は、まるでジョージ・ジェットソン(George Jetson)のアニメーションから抜け出して来たような、二段になった円柱状の首から2つのコントロール・タワーが飛び出した形をしている。しかし実際にはそれはモスクワから来た建築家チームのイマジネーションの産物だ。この路線はソビエト連邦全土の都市がスポンサーとなって作られた。各都市はこの作業に専念する労働者、デザイナー、建築家を送り出し、それらの人々はこの大自然に自らの足跡を刻んだ。その為に、駅舎は抽象主義的建築だったり、スタイリッシュなログ・キャビン型だったり、磨き上げられたネオ・クラッシックのモノリスだったりする。その他にも驚くような建物が、小さなコンクリートの村から顔を出していた。ついに建設されなかった都市の残滓となるモニュメントだ。

暗い物語を持つ別の建築物もある。「あそこは、スターリンがBAMを築いた時、政治犯を収容していた場所だよ。」69歳のアナトリー・ステファノビッチ(Anatoly Stepanovich)は、そう私達に言うと、駅舎の北に伸びる道沿いにある、木造の細長いバラックが集まっている区画の方へうなずいて見せた。彼はティンダ駅で私達の旅仲間の1人を迎えに来た時、私がBAMに興味を持つアメリカ人である事を知ると、BAM運営の本社として建設された街の案内を申し出てくれたのだ。

アナトリーの丸い顔には時の経過に伴う深いしわが刻まれていたが、傍目にもわかる鉄道に対する彼の誇りは、街を車で案内する間、数十年の時の流れを忘れさせているようだった。40年前に彼が来た時、この街はBAMの最初の建設者達が住む数件の木造建築とテントだけだった。

かつてのソビエトのグーラグ(gulag:収容所)の亡霊はシベリア各地に点在している。BAM建設におけるスターリンの計画は当初、ここにあるようなバラックに収容された囚人を酷使する事に依存していた。ブレジネフが1964年に権力を握ると、以後BAMは「綺麗な手」によって建設されると、彼は宣言した。奴隷労働で汚さないと言う意味だ。そしてソビエト連邦全土の市民が荒野の開発へ参加する事を呼びかけた。

アナトリーが同志と共にその呼びかけに応じた時、彼らはティンダをソビエトのショー・ケースとして建設した。1970年代にはコンクリート作りの頑強な16階建てアパートが何棟も立ち並び、74,000人の人口をもつ地域社会の中心だった。しかし仕事の減少と共に、ティンダは今35,000人に減っている。「BAMは残念な事になったが、ここでの暮らしは良いよ。」アナトリーは私達に言った。「今や始めての教会まで持つようになった。」彼は私達をティンダの目抜き通りにある巨大な玉葱型ドームを持つ教会へ連れてきてくれた。内側では金色に塗られたイコンが数百本のロウソクに照らされている。何世代にもまたがる群集が深い声で歌っていた。その歌声は、この街に新たに付け加えられた教会を神聖なものにする為に、シベリア大自然の魂がやって来たと信じさせるに足るものだった。そしてそれは、やはりティンダらしく無いものではあった。

しかし未だ最高のものが待っていた。2日後、ティンダからバイカル湖へ向かう列車に乗った私達はスイッチバックを通ってコダー山脈(Kodar)を登っていた。コダー山脈は「シベリアのアルプス」と呼ばれていて、密集した森林の上に頂上が顔を出している。孤立している為、9,000フィートと言うその高度よりもっと高く見える山脈だ。

大地の眺望が次第に劇的さを増してゆく中、車両の中の全ての本とかコンピュータとかは脇に置かれた。お喋りも止み、狭い廊下は窓に取り付いて景色を堪能する人々で混在した。それは私達が10マイルの長さのセベロミュスキー(Severomuyskiy)トンネルの暗黒に包まれるまで続いた。そして私達は巨大な渓谷の目くるめくような明るさの中に飛び出す。バイカル湖北岸へと降下してゆく私達の列車の孤独な軌跡以外は全く人気のない土地だった。

ほとんどの訪問者はバイカル湖を人口が多く発展した南岸から見る。そこはシベリア横断鉄道の駅でもある。しかし私達が居る側、約400マイル北では、バイカル湖は言わば原始の姿を見せている。メリーランド州程の大きさの山に囲まれたコバルト・ブルーの内海。水平線まで続くその沿岸には、一つの道路も家も見当たらない。

私達の列車はBAMが生み出した街、セベロバイカルスク(Severobaikalsk)へ到着した。バイカル湖を見下ろす起伏のある岡の間に位置する街だ。私達は既に奇抜な設計には慣れたと思っていたが、巨大なコンクリートのスキージャンプ台が屋根に乗ったセベロバイカルスクの駅舎には驚かされた。その屋根は帆を現している事が後で判った。駅のスポンサーとなった街、海に向かった大都市であるサンクト・ペテルスブルグを象徴していた。

あと1日、西へ旅してシベリア横断鉄道に合流する前に、BAMの自然の中をうろついてみたいと言う欲求と、列車で揺られた骨を休めたいと言う欲求に圧倒された私達は、この駅で下車し、セベロバイカルスクを取り巻く伝説的な温泉の1つを試してみる事にした。私達は車を雇って40分登り、丘の中腹に位置するゼリンダ(Dzelinda)温泉へ行った。温泉は半ダースのリゾート・キャビンを持っている。

華氏110度の温泉にとてもゆっくりと体を沈めた私達は、BAM列車が通り過ぎる音を聞きながら元気を取り戻した。列車は森林を通り抜け、シベリア横断鉄道へと進み、3日後にはモスクワへたどり着く。

「BAMには未だ華麗な未来があると思うんだ。」ティンダで、駅舎の横に積まれた東アジア市場へ向かう膨大な木材を指差しながら、アナトリーは私達に言った。私達にとっては、大自然の天国の中を力強く進み、滑らかな乗車をほんの少しするとヨーロッパへ戻れるBAMは今のままでとても豪華なものに見えるのだが。

~~ここまで~~

次回更新は9月22日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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