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アレッポ・コーデックス・ミステリー

イスラエルに関連する記事をUpします。

記事を書いたのはローネン・バーグマン(Ronen Bergman)さんです。元記事はここにあります。

政治とは関連ありません。聖書の写本に関する話です。

~~ここから~~

聖なるものに手を下したのは誰だ

ある春の日、その場所を示す細かい情報とか、内蔵するものを守る為に敷かれた厳しいセキュリティとかいった情報を、なんら明かさないと言う条件の下で、私はイスラエル博物館の中にある秘密の格納所へ赴き、アレッポ写本を見下ろしていた。最も古く、最も完全であり、最も正確であるとされるヘブライ語の聖書だ。このエルサレルムの中のこの場所に、いかにして聖書がもたらされたのかと言う物語は、古代から続く畏怖の心と現代社会が持つ偏見、イスラエル社会が持つ最も原初的な琴線に触れる物語だ。それは、アラブ諸国出身ユダヤ人と、揺籃期からこの国を支配していたグループであるヨーロッパ出身のユダヤ人、すなわちアシュケナジ(Ashkenazi)との間の文化的衝突の物語でもある。そしてまたそれは200ページに及ぶ写本が失われた物語なのだ。今日までに、失われたページは、世界中の聖書学者や個人的探求家、怪しげなビジネスマン、そしてイスラエル情報局モサドが捜し求める対象であり、ユダヤの歴史上重大な謎の一つとなっている。

私達少人数のグループは写本が置かれた格納所の中で輪になっていた。博物館の文書保存研究所の所長、マイケル・マッゲン(Michael Maggen)は1組のグローブを着けて注意深く、バラバラになったページの1つ、3段に分かれた美しい書体の文字が覆っているページの1つを取り上げて私達に見せた。各ページは動物の皮からできている。引き伸ばされて漂白され、切り取られて羊皮紙となったものだ。使われているインクは、粉末状の樹脂と硫化鉄、それに黒い煤を混ぜ合わせたもの。「この文書がとても長い間置かれていた非常に困難な状況を考え合わせると、」博物館のディレクター、ジェイムズ・スナイダー(James Snyder)は言った。「非常に素晴らしいコンディションにあると言って良いでしょう。」スナイダーは、2000年前の死海文書(Dead Sea Scrolls)と共にこの写本を展示できることが如何に素晴らしい事であるかを嬉々として語った。そしてこの写本の復元作業が如何に困難なものであるかも語った。しかし彼は失われたページ、全体の約40%に及び数百万ドルの価値があるとも評価されているページが、現在何処にあるのか、およびどのようにして失われたのかと言った微妙な質問に対して、自らの憶測を語ることを避けた。

この写本の失われたページを見つけ出す事に捕らわれている人々、あるいは誰が盗んだのか解き明かそうとする人々、あるいはこの写本にまつわる物語に歴史的に関わりある多くの人々と話しをすると、写本が千年以上に亘って人々の上に及ぼしてきた力を垣間見ることが出来る。写本は6世紀以上の間、シリアの街アレッポで守られてきた。それは神秘的な力を持っていると信じられていた。この写本を仰ぎ見た女性は妊娠すると言われ、写本を格納した金庫の鍵を持つものは祝福される。そして、誰であれこの写本を盗み出し売り飛ばしたものは呪われ、シナゴーグから写本が動かされると、恐ろしい災厄がユダヤ社会を襲うと言われてきた。写本の最初の数ページには、アレッポの長老達が書いた盗人への警告が記されている。「ヤーウェ(Yahweh)に捧ぐ、売るべからず、冒涜するべからず。」そして他の部分には、「これを盗むものは呪われるべし、売るものも呪われるべし」とある。幾つかのグループの中では、この恐れは今日でも生きている。

死海文書が書かれてから1000年の間に、ユダヤの聖なる文書、すなわちトーラー(Torah)の5書およびその他の19の聖なる本は複写され、種々のユダヤ・コミュニティーの中で、世代から世代へと受け継がれてきた。ユダヤの信仰に従えば、これ等の文書の幾つかは、神が直接その手で書き、存在の本質と直接関連するサインやメッセージやコードが含まれていると言う。数多くの手写本が作られた事、および、どんな変更でも不正確な書き写しでも、重要な秘められた知識の喪失に繋がると言う恐れが、唯一の正当な文書の必要性を生み出した。そしてローマ帝国によるエルサレムの第2神殿(一部が嘆きの壁として残されている神殿)破壊の後、統一された文書はその神秘的重要性を越えて、ユダヤ人の団結を維持する為にも必要だった。死海文書と写本の一部を展示しているShrine of the Book(本の神殿)の館長、アドルフォ・ロイトマン(Adolfo Roitman)は言う。「死海文書と写本との間の1000年間、このミレニアムは文書の標準化が進んだ時代と認識されます。写本作りはユダヤの人々が民族的連帯を維持する努力のメタファーだったのです。一つの聖書と一つの民族。例え人々が世界の四隅に散らばったとしても。」

言い伝えに従えば、6世紀初頭、ガラリア瑚(Sea of Galilee)ティベリアス(Tiberias)のベン=アシャー(Ben-Asher)家に率いられた賢者の一団が、公式な最終的文書の作成に着手したと言う。写本技術(codex technology)、すなわちページの両側に情報を記録して本(codex)の形にし、巻物形式(scrolls)より安く作ることが出来る技術が既にローマでは開発されていた。A.D.930年頃、ティベリアスの賢者達は、24の聖なる本を全て纏めて写本を書き上げた。最初のタナハ(Tanakh)、ヘブライ語聖書の決定版だ。ティベリアスから写本はエルサレムへ運ばれた。しかし1099年、十字軍が都市を破壊、住民を虐殺し写本を持ち去った。カイロ近郊のフスタット(Fustat)に住む富裕なユダヤ人コミュニティーが膨大な身代金を払って写本を取り戻した。その後、12世紀になってその写本は、マイモニデス(Maimonides)が彼の代表作であるミシュネー・トーラー(Mishneh Torah)を書く際に参照される。マイモニデスは写本を、聖なる文献の中で最も正確なものと呼んでいる。14世紀、マイモニデスの曾曾曾曾孫が、写本を持ってアレッポへ移住する。それに続く600年間、写本は、アレッポの巨大なシナゴーグの下の岩にうがたれた小さな地下聖堂に収められた金庫に保存されていた。

その後、何が起きたのかと言う物語、どのようにして写本がイスラエルへ渡り、どのようにしてページが失われたのかと言う物語は、信頼が置けない多くの身勝手な語り手が語る、ハッキリとしない、矛盾を内包する物語だ。カナダ系イスラエル人ジャーナリストのマッティ・フリードマン(Matti Friedman)は、5月にアルゴンキン・ブックス(Algonquin Hooks)から出版した本、「The Aleppo Codex:A True Story of Obsession, Faith and the Pursuit of an Ancient Bible(アレッポ写本:古の聖書を追い求める妄執と信仰の真実の物語)」の中で、徹底的な調査に基づいた興味深い物語を提示している。この本に刺激を受けた多くのレポートがイスラエルでは書かれている。

イスラエル国家が1948年に設立される前、ユダヤ人指導者達は、この地に残る自分たちの遺産を発見し所有権を主張する事に熱心だった。彼らは考古学に熱狂的な興味を持ち、重要なユダヤ文献(Judaica)をパレスチナの地へ持ち帰る探求に出資している。アレッポ写本は彼らの最優先の文献の1つだった。しかしこれを取り戻そうとする数多くの試みは退けられてきた。その事実は、多くのアレッポ・ユダヤ人にとって、この本を巡る神秘をさらに証明するものとされている。こういった失敗に終った試みを指導したのは、シオニスト運動の指導者、イツハク・ベン=ズビ(Yitzhak Ben-Zvi)、卓越した政治家で、アラブの地のユダヤ・コミュニティーに特別な興味を持つ事で知られる学者だ。(彼は又、最初にパレスチナの地で武装蜂起したユダヤ人の中心メンバーで、シオニスト・ミッションに反対する超正統派(ultora-Orthodox)の人間の暗殺に関与した人物でもある。)

1935年、ベン=ズビはアレッポへ旅した。アレッポ・ユダヤ人コミュニティーの長老たちは彼に写本を納めたケースを、一瞬の間しか見せなかった。写本はエルサレムに属するべきだとベン=ズビは説得を試みたが、彼の申し出は、部外者が自分たちの守るべきものを取ろうとする誤魔化しだとして拒絶された。8年後、第2次世界大戦の最中、ベン=ズビと数人の学者は、戦時中にアラブ国家の中に写本を置いておくことは危険だと考え、再度アレッポ・コミュニティーを説得しようとした。1943年、彼らはヘブライ大学の講師でアレッポ出身のイツハク・シャモシュ(Yitzhak Shamosh)を差し向け、写本を持ち出させようとした。シャモシュは命の危険を冒してシリア国境を越えたが、彼もまたアレッポの指導者達に拒絶された。しかしながらコミュニティーの若いメンバー数名は、写本が危険に晒されていると言うベン=ズビの恐れに共感していて、シャモシュが長老たちから写本を盗み出すのに協力しようと申し出た。

この春、私はシャモシュの弟であるアムノン(Amnon)と話をした。アムノンはシャモシュがエルサレムに帰った直後に彼と会っている。「兄は本にまつわる呪いの事を気にしていました。」アムノンはそう思い返した。「『それを売るものは呪われる。冒涜するものは呪われる。そして本が移されたらアラム・ツォバ(Aram Tzova:ヘブライ語聖書でのアレッポの名前)のコミュニティーは呪われる。』こういった話を全て兄は意識していました。ベン=ズビと大学の上司達は、兄がそれを全て引き受けるよう圧力をかけたのです。兄はアレッポのコミュニティーを破壊しなければならないのだと。兄には出来ませんでした。」

シャモシュが写本の獲得に失敗した事をベン=ズビに報告したとき、ベン=ズビは次のように答えた。「残念なのは、我々が正直な男を送ってしまった事だ。」

アムノンは言う。「兄が会議から帰ってきたときの落胆した表情を覚えていますよ。」

写本に関するベン=ズビの恐れは正しかった事が証明された。1947年11月30日、国連総会でユダヤ人国家の建設が投票にかけられ、承認された次の朝、暴徒の一団がアレッポのユダヤ人地区を襲い、ユダヤ人を襲撃して店舗を破壊し、シナゴーグに火を放った。1948年にイスラム教およびアラブ世界で暮らすユダヤ人コミュニティー研究の為に設立されたベン=ズビ研究の所長を現在務める、ヨム・トヴ・アシス(Yom tov Assis)教授はアレッポ出身で、その当時5歳だった。「私は暴漢がラビの1人を蹴飛ばして、ユダヤ人クラブに火を放つのを見てました。」彼は言う。「デモと叫び声、それに暴動は何日も続きました。」

写本が破壊されたと言うニュースは世界中を駆け巡った。アレッポの長老たちは写本の写真撮影を禁止していたので、写本に収められていた計り知れない価値を持つ情報は永遠に失われたと思われた。その時エルサレムにいたイツハク・シャモシュは、呪いを恐れて写本を救えなかった事を、慰めようも無いほど嘆いていた。

暴動が起きてから数日後、コミュニティー指導者達の小さなグループは、写本が破壊されたと言う報告が正確でないことを知った。写本が救い出されたときの様子を述べる証言が少なくとも10件は上がっていた。しかし真のヒーローはシナゴーグの寺男、アッシャー・バグダーディとその息子であった事が判明している。2人はシナゴーグの灰へ取って返し、散らばったページをかき集めていた。

アメリカの骨董商が2千万ドルの値段を写本に付けた後、シリア政府が所有権を主張したりした為、アレッポ・シナゴーグの指導者達はかなり長い期間、シリア政府情報省を相手に、写本は焼けたと振る舞い続けた。写本が破壊されていないと言う言葉が漏れ出した後も含めて、10年もの間、彼らは写本を秘密の場所に保持しアレッポから移動させる考えを拒絶し続けた。

1952年、イツハク・ベン=ズビはイスラエルの第2代大統領に成る。その直ぐ後、彼はイスラエルのチーフ・ラビから、写本に関連する呪いが実質的に無効にされたと言う、ラビ教義上の裁定を得る。そしてアレッポのユダヤ人に対し写本をエルサレムへ送るよう圧力を強化した。この時までに多くのアレッポ・ユダヤ人はニューヨークへ移住し、その内の数人はかなり富裕に成っていた。ベン=ズビは彼らに、シリアに残るラビ達を説得する助力を頼んだ。そしてアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(American Jweish Joint Distribution Committee:アレッポに残るコミュニティーの存続に必要な資金援助をしていた機関)に対し、若し写本がイスラエルに移送されなければ、資金の提供を削減すると脅した。

1957年、コミュニティーの滅亡が近づいている事を恐れる2人のアレッポ・ユダヤ人ラビが、この機会に、イスラエルに住むアレッポ・ユダヤ人の所へ写本を密かに持ち出す事を決意した。シリアから追放されたアレッポ・ユダヤ商人、ムラド・ファハム(Murad Faham)がこのミッションの為に選ばれた。1982年に亡くなったファハムは後に物語っている。「私が発つ直前に、ラビ・モシェ・タウィル(Moshe Tawil)が私に言ったのです。『貴方に話したい事がある。しかし私は貴方の行く末を案じてもいる。何故ならこの話は貴方の命を危険に晒すものだからだ。誰でもこれをやっている間に捕まったら吊るし首になるだろう。』」あらゆる機会を捉えて自分の勇敢さを吹聴して回ったファハムは、ラビにこう答えたと言っている。「神の御加護の下に私がこれを持って行きましょう。私の命なら心配なさるな。何故なら、若し造物主が、私によってこの本が持ち出される事を命じられたのなら、これは造物主が私を使って成される偉大な奇跡なのでしょうから。」

写本の世話を任じられていた男が貴重な荷物を入れた袋を持ってファハムの住居へやって来た。後に行われた調査に基づいて書かれた報告書に従えば、ファハムの妻は「その袋の中身の重要性と、それに関わる危険性とを気にして、袋を開けずに全体をチーズを入れる布で包んだ。」家族はチーズを作ることで生計を立てていた。「そしてさらに毛布で包んで、洗濯機の中に隠した。」

ベン=ズビ研究所の公式な物語に従えば、アレッポのラビ長がファハムを雇って写本をベン=ズビ大統領へ渡し、大統領から研究所へ渡された事になっている。しかしマッティ・フリードマンが確かめた数多くの文献と、その著書の中で展開している議論に従えば、全く異なった物語が浮かび上がる。アレッポのラビ達は写本を大統領や研究所へ渡すようにファハムに頼んでいない。そうでは無く、アラッポ・ユダヤ人のチーフ・ラビへ渡すよう頼んでいる。ラビ達が思ってもいなかったのは、モサドやユダヤ機関(Jewish Agency:ユダヤ離散民および彼らのイスラエル移住を担当する機関)のエージェントがファハムへ接触し、イスラエルへ移住するに当たっての特別待遇を持ちかけたことだ。

ユダヤ機関の担当官はトルコでファハムに会い、エルサレムの当局へ彼の全ての動きを伝えた。ファハムが安全にファイハの港に着いた時、彼は写本をアレッポ・コミュニティーの代表へ渡す代わりにユダヤ機関の移民省のメンバーに渡した。そして写本はそのメンバーからベン=ズビ大統領へ渡された。

「公式バージョンの物語、それは最初に私が知った物語なのですが、それだとアレッポ写本はイスラエル国家へ自発的に渡されたとされています。」フリードマンは私に言った。「しかしそんな事は起きていない。写本は奪われたんです。政府当局は自分たちがユダヤ人全体を代表していると信じています。だから本の正当な所有者なのだと言うのです。彼らは恐らく、本を寄り良く保存できるかも知れない。しかしそうだとしても、真実の筋道を変える事は出来ません。政府関係者は、洗練された国際的陰謀を仕掛け、それによってアレッポのユダヤ人から写本を奪い取った。そして驚くほど成功裏に終った隠蔽工作をして、興味深くも不快な物語の詳細を隠したんです。」

1958年2月、アレッポ・ユダヤ人の指導者は、ベン=ズビへ写本の返却を命令するよう、ラビ教義法廷に嘆願書を出した。裁判の間、ファハムへ本を渡した2人のアレッポ・ラビは、怒りを持って証言している。2人がファハムに命じたのはイスラエル内コミュニティーのチーフ・ラビへ渡す事であり、他の誰にでも無いと。ファハムの主張では、2人は彼に本をどうすべきか委ねたのだと言う。ベン=ズビの弁護人は裁判の詳細を秘密にするよう要請した。詳細は50年間秘密にされる。

今現在、イスラエル内アレッポ・ユダヤ組織の代表である、エズラ・カッシン(Ezra Kassin)は、写本とその失われたページの物語を何年にも亘って調査している。彼とフリードマンは最近、秘密の裁判記録を入手した。原告弁護人に従えば、ファハムの証言は矛盾に満ちていると言う。3月27日に国側弁護人がベン=ズビ大統領に報告した内容では、ファハムに対する反対尋問は「非常に高い緊張感に包まれた。しかしファハムは自らの物語に固執した。」となっている。裁判の間、アレッポ・ユダヤ・コミュニティーの代表は、ファハムがイスラエル官憲とベン=ズビから特典を受け取った事を避難し続けた。特典は写本を渡す代わりに与えられたのだと主張された。ファハムはその主張を否定し続けた。7月に私は、彼の息子とテル・アビブ近くのショッピング・モールで長時間の会話をした。彼は最初に、シナゴーグが襲撃された後に写本を救い出したのは、寺男では無く自分の父親だと主張した(彼の話ではファハムは炎の中に飛び込んで写本を救っている)。2番目に、ファハムがシリアから写本を密かに持ち出したのは、それがユダヤ人全体に所属し、1つのコミュニティーのものでは無いと信じていたからだと言う。それ以外の全ては嘘っぱちだと息子は断言した。「父が写本をイスラエルにいる(アレッポの)ラビへ渡そうとしなかったのは、彼らがそれを売り飛ばすのを恐れたからだ。」彼は言った。「父は誰からも特典を受け取っていない。」

裁判は単に写本の所有権の問題を扱っただけでは無い。ずっと深い問題にも触れている。ユダヤ国家が設立された今、誰がユダヤ人を代表するのか?その問題は又、その殆どが東ヨーロッパ人であり体制として世俗的なシオニスト支配層と、自分たちの文化遺産を譲り渡す気持ちは無いアラブの地に住むユダヤ人コミュニティーとの直接対決を強いるものだった。裁判は秘密の妥協が成立して終了する。写本は引き続きベン=ズビ研究所に保管される。しかしアレッポ・ユダヤ人の代表は、文書を管轄する評議会、ベン=ズビとファハムを含む評議会に参加できる。

ファハムは、イスラエル内のアレッポ・コミュニティーとの諍いに加えて金銭的問題にも見舞われて、ニューヨークへと移住した。その場所から彼は、自分が命を賭けて写本を取り戻したのだとベン=ズビに認めさせる為に多大な努力を始める。自分の貢献への賛辞として、写本に名前を記して欲しいとのファハムの要求に対し、ベン=ズビは1960年5月、最終的に次のように返答した。「私は写本の装丁版に注意書きが追加されるよう取り計らった。そこには、写本が貴君によってイスラエルにもたらされたと書かれるだろう。」その約1年後、自分の要求が満たされるのを待つファハムは再び書いた。「究極に重要な事柄が貴殿をして、私の小さな要求にこたえる暇を与えてない事には、何の疑念も持っておりません。それでも私は、私の懸案が忘却の埃の中に捨て去られるべきでは無いと言うことを貴殿に思い起こしてもらう為に、再度書く事にしました。何故ならこれは私にとって、世界中の全てのお金よりも重要な事であるからです。」

イスラエル支配層が強硬に隠そうと試みた写本の秘密を知っていると思われるファハムは、明らかにベン=ズビの言葉になだめられてはいなかった。ユダヤ機関の長官であり、その同僚がハイファ港でファハムから写本を受け取った一人である人物、シュロモ・ザルマン・シュレイガイ(Shlomo Zalman Shragai)が、ファハムをなだめようとして失敗している。「我々に(写本を)渡し、現在合衆国に住んでいる件の男は、もはや自分自身を抑える事が出来ないでいる。」とシュレイガイは1964年に手紙に書いている。そのコピーは、1年前にベン=ズビの死の後を次いで大統領になったザルマン・シャザール(Zalman Shazar)へも渡されている。「私はこの問題が公表され、世界中でスキャンダルとなる事を非常に心配している。」

果たしてファハムは、世界中でスキャンダルとなった事件の原因となる何を知っていたのだろうか?恐らくそれは、写本が殆ど完全な形でイスラエルに着いたという事実だ。そして200ページ近くが失われたのは、イスラエル到着の後でのみだと言う事実だ。そして恐らく写本が、現存する最も重要なユダヤの文献が、復元されて注意深く展示される事も無く、ヘブライ大学にあるベン=ズビ研究所の事務所の、鉄製ケースに保管され続けているのは、この秘密の為だ。

無視され続けている写本の為に最も激しく戦っている男の1人がアムノン・シャモシュ、1943年、チャンスがあったのに写本を盗むのを良しとしなかった「正直」な特使イツハクの弟だ。アムノンはイスラエルでも最も有名な作家の1人だ。彼の小説「Michel Ezra Safra & Sons(ミシェル・エズラ・サフラと息子たち)」は1980年代初めにイスラエルで唯一のテレビ局で連続ドラマとなり、国内殆ど全ての人がドラマを見た事で、彼はその名声を確立した。その小説はアレッポ出身の銀行家一家の物語。一家は全てを失い、建国されたばかりのイスラエルへ逃げる。物語の始めで一家の家長が炎の中からアレッポ写本を救い出し、フランス、ニースへ持ち去る場面がある。

シャモシュの小説とそのテレビドラマは、「アラブ」系ユダヤの人々へ新たな誇りを吹き込んだ。アシュケナジ(東欧系ユダヤ人)と対比しながら、アラブ系ユダヤもまた豊かな文化的伝統を持つ存在として描かれている。「人々は突然気がついたのです。アラブの地から来たユダヤ人も又、未開な存在などでは無いと言う事に。」シャモシュは私に言った。「この地にも又、教養を持つ鋭敏で富裕なユダヤ人が居るのです。」

今日、シャモシュはマーヤン・バルクフ(Maayan Barukh)キブツに住んでいる。レバノンとシリアの国境の近くだ。彼は殆ど目が見えない。特別に厚いレンズに、特別な電気式拡大鏡をあわせて、やっと少しずつ、リビング・ルームの棚に並んだ本を読む事が出来る。「小説が世に出てから少しして、」彼は私に言った。「私はエドモンド・サフラ(Edmond Safra)から電話を受けました。ジェネバの彼のオフィスに来て会ってくれと言うのです。」アレッポ出身で金融業界の億万長者であるサフラは、超現実的な力を硬く信じている人でもあった。そしてシャモシュの小説を読んだ時、彼の家族名が写本の移動に絡んで出てきている事で、恐怖に捕らわれた。ジェネバに行くと彼は小切手帳を開いてシャモシュを待ち受けていた。「どうぞ、」サフラは言った。「貴方のものです。好きな金額を書いてください。私は出版された全ての本を買い取ります。そうしたら貴方は、何でも好きな別の名前を使って好きなだけ出版し直してください。」

シャモシュは言った。「私は説明しようとしたんです。これは作り話なんだと。しかし彼を説得できなかった。サフラは私に言いました。『私は悪魔の目を刺激したく無い。この本は私に恐ろしい状況での死をもたらすに違いない。』」

ベン=ズビ研究所は、シャモシュの小説の成功故に、写本に関する学術的研究を彼に依頼した。彼は自分が調査して発見した事柄を書いた報告書を提出する。その中にはムラド・ファハムの行為と、研究所自身の写本への怠慢行為を厳しく批判する箇所が含まれていた。研究所が報告書を受け取った時、どうしたかを思い出してシャモシュは微笑んだ。「報告書には研究所の行為を記述した箇所があって、彼らはその部分の削除を求めてきたんです。」

彼は、ファハムに対する批判箇所は削除しても良いと研究所に言った。しかし写本が正しく復元されるのをこの目で見るまでは、彼が発見した写本に対する怠慢行為について削除するつもりは無いと言った。後にニューヨークのアレッポ・コミュニティーの篤志家が、写本復元の資金を寄付し、写本は厳重に警護されたバンに乗って、イスラエル博物館の保存研究所へ送られた。

6年間かかった作業を通して、博物館の文書保存研究所の所長マッゲンは重大な事実を発見した。その時まで、公式の物語では、失われたページはアレッポ・シナゴーグの火災で破壊された事になっていた。その理論を支えたのは、救出されたページの端に残っている紫色の焦げた跡だった。しかしマッゲンは紫の跡は焦げて出来たものでは無い事を発見した。これはカビによる変色だった。もしページが火災で損害を受けていないのであれば、どうして失われたページが存在するのか?

しばらくの間、疑いの目はアレッポ・コミュニティーのメンバーに向けられていた。火災の跡、1人または数名のメンバーがページを持ち去ったのではないか、あるいはシリアから持ち出される前に10年間隠していたメンバーが、お土産として持ち帰ったのではないか。こういった疑いは、写本のわずかな破片といえども所有者を守る力があると、広く信じられていた事実を思えば、ありそうな事に思われた。

イスラエル情報機関で指導的役割を果たしていたラフィ・サットン(Rafi Sutton)はアレッポで生まれ、少年時代を通してその地で過ごした。彼は今80歳でエルサレム郊外の小さな町に住んでいる。5月に私が彼の自宅へ訪ねた時、彼は1945年に行った自分のバル=ミツバ(bar mitzvah:13歳男子の成人式)を振り返った。「15人の少年が集められたんだ。金庫から数メーター離れて1列に並んだ。そしたら2つの鍵を使って金庫が開けられた。」彼は言った。「私達の多くは激しく震えだした。何故って赤ん坊の頃から教えられてきたんだ。きちんとした敬意を持たずに本と相対する者は災いに襲われて死ぬってね。」

アレッポ・シナゴーグが襲撃された数日後、サットンは友人のレオン・タウィル(Leon Tawil)と共に燻っている廃墟を確かめに行った。タウィルはそこで文字の書かれたページを見つけてポケットに入れた。後で家に帰ると、そのページは写本のものに違いないと父親が言った。タウィルは1950年にシリアを逃れてレバノンへ移住した時、ページを持って行った。そしてレバノンから合衆国行きの船に乗った。合衆国で彼はブルックリンのアレッポ集会に参加している。彼はページを伯母にあげた。伯母が亡くなった後、娘のレニー(Renee)がページを相続し、それを姪にあげた。その息子アリーヤ・ロマノフ(Aryeh Romanoff)は現在、エルサレム地区裁判所で判事をしている。ロマノフが私に話してくれたところでは、アメリカから伯母のレニーがある日訪ねて来た。「伯母はページを持ってきたんだ。そしてこれが何か聖なる書物のものだと言うんだ。」彼は付け加えて言った。「母はそれが何なのか知らなかった。それで国立図書館の専門家に問い合わせた。専門家はやってきて包みを開けると、もう有頂天になったよ。『これはアレッポ写本だ!アレッポ写本だ!』喜びの余り飛び上がりそうだった。」

1988年、ベン=ズビ研究所の副ディレクター、メナヘム・ベン=サッソン(Menahemu Ben-Sasson)は、他のページの断片がブルックリン在住のサミュエル・セバーグ(Shmuel Sebbagh)と言う名の年寄りに用心深く守られているのを発見する。そのページは出エジプト記(Book of Exodus)の一部で、ナイルが血の色に染まった後、アーロン(Aaron)が如何にして自分の配下を展開し、エジプトにカエルの災厄を引き起こしたかが書かれていた。「私は彼を訪ねて自己紹介をしました。」ベン=サッソンはこの7月始め、テル・アビブで私に話した。「彼は挨拶もせず、私が何を求めているかも訊きませんでした。彼は単にこう言ったのです。『これの事は忘れなさい。私はこれを貴方にあげる気は無い。』」セバーグは自分がその断片を何処で手に入れたのか話そうとしなかった。彼は断片をラミネート加工し常にポケットの中に入れていた。彼の死後になってやっと、明らかにはされていないが大金と引き換えに、セバーグの家族は断片をベン=ズビ研究所へ渡す事に同意した。それは今年6月初めてShrine of the Bookに展示された。

今日までのところ、写本の失われた部分の内、発見されたページは以上のものだけだ。それでも探索の努力は続けられている。1990年代中頃、モサドはC.I.A.と合衆国国務省の協力の下に、シリアに残されたユダヤ人を脱出させる秘密の大規模な作戦を実行した。その中には打ちひしがれたアレッポ・コミュニティーも含まれていて、そのメンバーの多くは写本の呪いが自分たちを襲ったのだと信じていた。作戦の一部としてモサドはトーラー文書やその他の聖なる文献をイスラエルへ秘密裏に持ち出す事に成功した。しかし失われた写本のページを見つけ出す努力は行き詰まっていた。

アムノン・シャモシュが私に話したところでは、匿名の人物が、写本のどんなページでも買い取ると約束していると言う。この約束を胸に、シャモシュはニューヨーク公立図書館の代表ヴァルタン・グレゴリアン(Vartan Gregorian)の元に向かった。グレゴリアンは、ユダヤ文書収集家向けに新聞広告を出し、写本のページを買い取る声明を出す事に同意した。シャモシュは他の学者と共に、富裕なアレッポ・ユダヤ人のコミュニティーがあるパナマやサン・パウロ、ブエノス・アイレス、ニューヨーク等を回った。そして金曜夜の礼拝集会で発言する許可を得た。「この中のどなたかが、羊皮紙の断片を持っていらっしゃるかも知れません。それがユダヤの人々にとって大変な価値あるものとも知らずに。」彼らはそう呼びかけた。「恐らくこの中のどなたかは、アレッポ出身の祖父から物語を聞いていらっしゃる事でしょう。私達を助けてください。」このような特使の1人がベン=サッソンだった。彼はイスラエルのチーフ・ラビから特別な裁定を貰っていた。それによれば、写本を巡る呪いはかけ直され、今や逆の方向に働いていると言う。即ち、秘密に所持している人に向けて災厄が訪れると。「聖なる書物はエルサレムに戻されなければなりません。」彼は訴えた。しかし直ぐに彼は自分の努力に効き目が無い事を悟った。「コミュニティーのメンバーは私に説明しました。チーフ・ラビとその裁定の力にはあらゆる敬意を払うが、写本の力に対するアレッポ・ユダヤ人の信仰ははるかに強いのだと。そして彼らは、例えどんなに小さな断片でも、写本が偉大な力と健康と幸運を人々にもたらすと信じているのです。」

この記事のために私がインタビューした中の数人は、以前アレッポの住人だった人だとか収集家だとか言う人の所で、写本の断片が隠されているのを見たと主張している。しかし今日までのところ、そういった手がかりに対する全ての探索は成功していない。

1989年、イスラエル・テレビは、失われたページの探索にサットンを任命した。彼は情報将校およびモサド工作員として勤務し、かなりの実績を収めた人物だ。彼は貴重な文献の救出をした経験も持っている。1967年6月6日、六日間戦争の最中、敵地内で活動する任務についていたサットンは緊急電文でディノ(Dino)という名の骨董商を探し出せと言う命令を受け取った。その人物は死海文書の1つを所持していると言う疑いをかけられていた。

サットンと数名の将校は彼とその息子を逮捕した。2人は強硬に疑惑を否定したが、監獄の中で2人が問題の文書について話しているのが録音されていたと知った後、白状した。「彼はもうゲームは終ったと観念し、協力するようになった。」5月末にエルサレム近郊の彼の自宅で会った時、サットンは私にそう話した。「彼は私達を自宅へ連れて行き、床のタイルを数え始めた。この方向へ5枚、そして別の方向へ4枚ってね。それでタイルを見つけると、排水溝の掃除に使うプランジャーを持ってきて、タイルを2枚はがしたんだ。その下には藁が敷いてあって、セロハンで包んで赤いリボンで結ばれた筒が2本出てきた。」その筒は、死海文書の中でも最も長い、神殿の巻物(Temple Scroll)である事が判明した。

そのようなわけで、失われた写本ページ・ミステリーの世界的探索をサットンが指揮するのは適切であるように思われた。そして彼の調査結果は画期的だった。数多くの証言が、写本が火事を無傷で、あるいは殆ど無傷で生き延びた事を示していた。そしてそれは、やはり無傷でイスラエルへ届いたようだ。今や疑惑は、アレッポ・ユダヤ人から、誰であれムラド・ファハムがイスラエルへ運んだ後に所持していた者へとシフトした。ハイファ港でファハムから写本を受け取った人物の同僚だったシュロモ・ザルマン・シュレイガイは、亡くなる少し前、サットンに対し、写本が彼の元に殆ど無傷で届けられたと証言している。7月初め、カッシンが行っていた調査の一環で、シュレイガイの息子はエズラ・カッシンに話をしている。それによると、写本が家に持ち込まれた時、彼はその場に居て確かに見たのだと言う。「少しのページが欠けているだけだった。3ページか4ページ。しかしその他は無傷だった。」

写本が届いた時、ベン=ズビの個人秘書だったメイア・ベナヤフ(Meir Benayahu)は、ベン=ズビ研究所の初代ディレクターでもあった人物で、写本の受領に際してメモを書いている。ベナヤフの学問的背景と、写本の歴史的重要性から、彼が、ページ数を含む詳細な状態の正確な記録を残したと期待したいところだ。しかし実際は写本のヘブライ語名であるKeter Aram Tzova以外、詳細な記録は残されていない。さらにおかしな事に、写本が渡された少し後、ベン=ズビは、ヘブライ百科事典の編集者にページ数について不正確な情報を伝えている。彼はその情報をベナヤフから得ている。ほんの少しの時間が経過しただけなのに、写本の殆ど半分が失われている事が発見されるのだ。

これ等の事実が我々をシュロモ・モウサイエフ(Shlomo Moussaieff)へと向かわせる。彼はロンドン宝石商の大立者で、世界でも最大のユダヤ文献収集家の1人だ。彼は私の質問への回答は拒否したが、ベン=ズビ研究所の職員や、イスラエル内アレッポ・ユダヤ人の長であるエズラ・カッシンや、作家のマッティ・フリードマンへは話しをしている。その話によれば、1980年代中頃、エルサレム・ヒルトンホテルのロビーで2人の超正統派 (ultora-Orthodox) ユダヤ人が接触してきたと言う。その内の1人、ハイム・シュニーバルグ(Haim Schneebalg)を彼は良く知っていた。シュニーバルグは古いユダヤ文献の巧みなディーラーで、偶然にもメイア・ベナヤフの知人だった。彼は業界で最も専門的で信頼できるディーラーと見なされており、高い価値を持つ発見物しか扱っていない。彼とそのパートナーがモウサイエフに近づいてきた時、シュニーバルグはブリーフケースを持っていた。モウサイエフはその後に続く会話を覚えていて、それはフリードマンの本に記載されている。

「シュロモ、急いで来てくれ。君が興味を持つだろうものを持っている。」シュニーバルグは彼に言った。

「何を持っているんだい?」モウサイエフは尋ねた。

「静かに。これについては口を閉ざし、誰にも言わないで欲しい。」シュニーバルグは言った。3人の男たちはホテルの部屋へと上がり、部屋の中でシュリーバルグはブリーフケースを開けた。

イスラエル国営テレビが1993年に公開したインタビューの中で、モウサイエフは回想している。「彼らはスーツケースをベッドの上において開いた。そして上を覆っているシルクのような紙を開けたんだ。突然だった。私の目は飛び出したよ。私は70から100ページほどの重なった羊皮紙を見ていた。黒いインクで書かれていたが経年変化で少し赤みがかっていた。大きな文字は、トーラー巻物の文字より倍くらいの大きさで母音字を伴っていた。手書きの文字で少し踊っているような印象だった...疑いの余地は無かった。私が見ているのはアレッポ写本だった。」

2人は値段の交渉をし、モウサイエフは最終的に文書の一部分だけ買うと申し出た。それに対し、シュニーバルグはオール・オア・ナッシングだと答えた。後から振り返ってモウサイエフは大きな間違いを犯したと認めている。1993年、彼はイスラエルの新聞記者に言った。「私は強欲だった。私は安い値段を提示した。彼らが値切ってくれると考えていたんだ。彼らが提示した値段はとてつもなく高かったわけでは無い。しかし私は値切ろうとした。それで写本を失ったわけさ。別の買い手が私の用意した金額より100,000ドル余計に支払った...写本は今、ロンドンに居る超正統派ユダヤ人の手にある。彼の名を明かすつもりは無い。」

ベン=ズビ研究所の職員はその人物の名を明かすようモウサイエフに働きかけた。「彼は何一つとして同意しなかった。」研究所の現所長ヨム・トブ・アシスは私にそう言った。「私達を助けてくださいと言ったんだが、彼は口を閉ざしたままだった。決して答えようとせず、とても敵対的だった。」

現在最早、シュニーバルグが写本を買った人間の名を明かすことはあり得ない。1989年8月16日、エルサレムのプラザ・ホテルの1室で、鼻から血を流した彼の死体が発見された。ダン・コーエン(Dan Cohen)と言う名でその部屋を借りた人物は姿を消している。チェックインの時、彼が記載した内容は誤魔化しである事が明らかに成っている。シュニーバルグの超正統派の家族は宗教的理由から死体の司法解剖を拒否した。その為、死因は特定されなかった。ユダヤ文献に関わる世界の多くの人々は、彼は写本に関わった為に殺されたと信じている。

サットンは自分の調査結果を下に、盗難が発生したのは写本がイスラエルに着いた後だと結論付けていて、盗人を特定したと言っている。彼は失われたページを取り戻す為に国際的おとり捜査を計画した。しかし、その為には捜査を依頼したテレビ局が出せる以上の資金が必要だった。

1990年代初頭、サットンは偶然、エドモンド・サフラと、エルサレムのキング・デイビッド・ホテルで会った。サットンは、もしサフラが失ったページを狩り出すおとり捜査に資金を提供してくれれば、テレビの生放送で、彼の家族が写本と何の関係も無い事を公表して、彼の不安を和らげようと提案した。「そして実際に約束した通り、」サットンは私に言った。「私はテレビの生放送で国中の人に言ったんだ。写本はサフラ家には無いと。アムノン・シャモシュもスタジオに座っていた。私は彼へ振り向いて言った。『そうですよね、アムノン?』彼は頷いて言った。『そうです。そうです。あれは全て架空の話ですから。』その後、私は親愛なるエドモンドから何の言葉も聞いていない。彼は消えた。何処かへ行ってしまったんだ。そして捜査は中止された。」

生涯悪魔の目を恐れたエドモンド・サフラはモナコのペントハウスを襲った大規模火災で、1999年12月に亡くなっている。

ベン=ズビ大統領の名声と威信のお陰で、極めて重要なものも含む、アラブの地で生まれた3,000余りの文献がベン=ズビ研究所へ預けられた。アレッポ写本とは対照的に、それらの文書のほとんどは自発的に寄付されたものだ。研究所ならば安全に保護し保存してくれるだろうとの信頼の下に。マッティ・フリードマンの調査によると1950年代から1960年代を通じて研究所で、写本だけで無く、古くから伝わる本や文書に対して組織的盗難が行われていた事が今や明らかになっている。

1970年、メイル・ベナヤフは、不明瞭な理由で研究所のディレクター職を辞めている。ベナヤフは、1960年代にイスラエルのセファルディ(Sephardi:スペイン・ポルトガル系)ユダヤ・チーフ・ナビだったイツハク・ニシムの息子で、幾つかの内閣で大臣を務めた政治家モシェ・ニシムの兄だ。2009年に亡くなったベナヤフは、聖文献の指導的収集家で、アレッポ写本受け取りの際に、特徴の無いメモを残した人物だ。

モシェ・ニシムが私に話したところでは、ベナヤフが研究所の職を辞したのは、自発的なものだったと言う。ベナヤフは研究所の指導者と場所を巡る権力闘争の最中に去っている。その当時、彼が文献を盗んでいると言う疑惑が膨らんでいたと、研究所にいた人物が言っている。事実、サットンのおとり捜査のターゲットはベナヤフだった。「私達は彼の事を『バグダッドの盗賊』と呼んでいた。」その人物は私にそう言った。

ベナヤフは研究所に入ってくる本や文献について秩序だったカタログを残していない。その為に、幾つかの散らばった覚書とか、寄進者からの文献閲覧依頼とかから推測する以外に、正確に何が失われたのか断言するのは困難だ。そういった要望の1つが最近、ニューヨークのシルヴェラ(Silvera)家から出されている。その要望書はイスラエルの国家会計監督官(State Comptroller)への厳しい要求の形を取っている。1961年、銀行家であり商人でもあるデイビッド・シルヴェラ(David Silvera)は、コルフ(Corfu)から出土した貴重なヘブライ語聖書の文献を寄付した。1961年5月、ベン=ズビ自身が文献受領書の1つにサインしている。同じ日付でメイル・ベナヤフも別の受領書にサインしている。しかし文献は消えてなくなった。

研究所はベナヤフに対し矛盾した態度を取っている。ディレクターのアシスはベナヤフの個人資料へのアクセスを許可していない。彼は資料を金庫に納め、長いこと「見たことも無い」と言っている。その一方で、彼はこうも言っている。「私達は法律の許す限り、あらゆる事をして失われた文献を取り戻そうとしています。私達が個別の文献の場所を特定できているのに取り戻そうとしていないなどと、想像できると言うのですか?」

電話での私との感情的な話し合いの際、モシェ・ニシムは言った。「40年間と言うもの、私の兄は最も正直で、最も正しい男と思われていました。自分の人生を文化の研究に捧げてきた男であり、自分の個人的収集品を研究の為に提供してきた男なんです。40年間です。そして誰も文句を言っていなかった。あらゆる人がたくさんの賞を兄に与え、称えてきた。そして今、突然に、何人かの卑劣なやつらが兄を汚そうとしているのです。」

それではアレッポ写本の失われたページは何処へ行ったのだろうか?サットンの話では、事件は今や余りにも敏感な問題になってしまった為に、現在の所有者は、売ろうと望んでも自分自身の安全を恐れてできないでいると言う。

今現在、ヘブライ大学の学長をしているメナヘム・ベン=サッソンは私に言った。「写本はあまりにも重要なものになってしまった為に、それを所持している者は誰でも、どんな人だとしても、隠してあるところから持ち出す事に同意しないでしょう。例え世界中の金を積まれたとしてもね。恐らくは隠していることの罪の意識から解放され、その自然な安置場所、エルサレムのイスラエル博物館内Shrine of the Bookへ渡されるのは、息子の世代、あるいは息子の息子の世代になるのではないでしょうか。」

ベン=ズビがアレッポのユダヤ人コミュニティーから写本を盗み出したと言う非難に対して、アシスは言った。「どんなコミュニティーと言えども、どんなシナゴーグと言えども、ベン=ズビ研究所以上に写本の面倒を見れる場所など、私は知りません。もちろん質問はあがるでしょう、誰がアレッポのユダヤ人を代表するのかと言う質問がね。私はアレッポ生まれでベン=ズビ研究所長です。私は彼らに属していて、同時に研究所にも属している。何と言っても、もし本がイスラエルに到着していなかったら、たぶん今頃、バッシャール・アル=アサドの銃口に守られた何処かの博物館に収まっていることでしょうから。」

~~ここまで~~

次回更新は10月6日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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