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クリス・スティーブンスとアメリカ外交の問題

アメリカ外交に関する記事をUpします。

記事を書いたのはロバート・F・ワース(Robert F. Worth)さんです。元記事はここにあります。

リビアで亡くなられたクリストファー・スティーブンス(Christopher Stevens)さんに関連する記事です。

~~ここから~~

アメリカ外交ははたして塹壕から出られるのか?

ロナルド・ノイマンが1970年代初頭に国務省外交局のキャリアを始めた時、彼はしばしば護身用に拳銃を携帯していた。それは合理的な予防措置だった。その当時のアメリカ外交官には、たとえ政情不安な国であっても、爆風障壁とかセキュリティ・アドバイザーとかは無かった。時として領事館はアパートの1階で、上の階には土地の一般家庭が暮らしていたりする。しかしノイマンは、今日の外交官が想像も出来ない自由の下に働いていた。彼は何処にでも自分一人で出かけられ、誰にでも話しかけられた。80年代初頭、イエメンの首都サナ(Sana)で首席公使をしていた時、ノイマンは大使館の建物が焼き討ちされる危険を察知した。その当時アラブ世界は、イスラエルのレバノン侵攻による何ヶ月もの暴力沙汰の後で荒れ狂っていた。怒りの多くはアメリカ人へ向けられていた。大使館は住宅街にある普通の建物で、道行く全ての人が簡単に入れた。警官による保護も無かった。しかしノイマンは、たまたま上司が国外に出ていたその時、大使館を閉鎖しなかった。そして状況がさらに緊迫して、サナ在住の怒れるパレスチナ人がノイマンの家を襲撃すると言う噂が流れ始めた。無口なベトナム帰還兵であるノイマンは平然とそれを受け止めた。「大使館からショットガンを家へ持ち帰って正面玄関の鍵を閉めた。」ノイマンは私に話した。「そしたら妻が訊いてきたんだ。他に何かする事があるかって。私は他には無いって答えた。そしたら妻が言った、『それならカーテンを洗おうと思っていたんで、今やってしまうわ。』私はその時、思いを馳せたよ。きっと昔の西部でインディアンの襲撃を受けていた時も、女達はこうやって過ごしていたんだろうなってね。家の中に留まって、サドルを直したりしていたのさ。」

それから30年が経ち、3カ国で大使を務めた後、ノイマンは自分の仕事が如何に変わってしまったかに驚いている自分自身に気が付く。「危険性は確かに悪化しているが、変化の一部は心理的なものだ。」彼は私に言った。「我々の政治指導者はリスクを受け入れるのを、あまり喜ばなくなった。そういった事全てが私達を塹壕の中へと追いやっている。」

こういった変化を最も良く表しているものとして、ジハーディストによる9月11日ベンガジ合衆国公館襲撃による、J・クリストファー・スティーブンス(J. Christopher Stevens)の死以上のものは無い。スティーブンスは勇敢で思慮深い外交官だった。ノイマンと同じように、鉄条網を越えて赴任国の一般人と関わりながら暮らす人間だった。それでも彼の死はスキャンダルとして扱われている。そしてその死は政治的嵐を巻き起こし、しばらくの間、世界中のアメリカ外交官の手を縛る事になりそうだ。アメリカ人が外国で直面する危険を隠蔽したこと、及び、不適切な保護を提供してスティーブンスの死を招いた事で、議会やワシントンの有識者は政府を非難している。政府を批判する者は危険が無視されたと言っている。中東全体の大使館で常に背景音として聞こえる危険性に対して無頓着だったと。大使の死は、高貴ではあるが危険な職務でしばしば支払われる代償とは見なされない。誰かが非難されなければならない。

全てのこういった党派対立の中で失われているは、アメリカ外交が既に過去数十年間に大きな変化をしてきたと言う事実、そして現在、要塞のような大使館、防護服、仰々しい車列といったものによって、余りにも深く塹壕に閉じこもってしまっており、それを殆ど認識できなくなっていると言う事実だ。1985年、外国にある合衆国大使館のセキュリティ・オフィサーは150人程度だった。現在その数は900人になっている。この中には軍関係者やアドバイザーと言った人達、その存在によって、特に中東では、辺りの雰囲気を変えてしまう人間達は含まれて居ない。安全性は今や、余り重要でない懸念事項から、アメリカが他国と付き合う上での中心的な課題へと変わってしまった。

障壁が存在しているのには理由がある。スティーブンスの死はそれを証明している。ベイルートやバグダッド、その他、危険な場所に居るアメリカ人によっても証明されている。しかし、ベンガジ襲撃事件に対する反応は、ワシントンでは昔よりもリスクが受け入れられないと、多くの外交官が感じていた事実、「安全」と言う呪文が唯一光輝いていると言う事実を具現化した。その結果、この国の最も傑出する外交官であった元大使達は、このように腰が引けた状態でどんな外交的成果が達成できるのか、改めて問いかけている。

「椅子に腰掛けながら『我々の目標はなんだろう?』なんて言っているような人間は居ませんでした。」200人以上が死亡し4000人が負傷したアル・カイーダの爆弾事件が起きた1998年当時、ケニヤ大使をしていたプルーデンス・ブッシュネル(Prudence Bushnell)は言う。「今の私達のモデルは、危険な場所へ出かけてそこを変えようと言うものなんです。そしてそれを私達は安全な要塞の中からやろうとしている。そんなものは上手く行きません。」

クリス・スティーブンスがカリフォルニア北部で育っていた時、アメリカ外交官は、殆どの場合、自分たちの安全を自分たち自身でなんとかしていた。「その当時は、何が危険か見極める自分の判断力を鍛え上げていたものさ。そして多くの男たちはリスクに興奮していた。」1955年に外交部のキャリアを始めて、4カ国で大使を務め、現在は引退している元外交官リチャード・マーフィー(Richard Murphy)は言った。「テロリスト」と言う言葉は、未だ現在のような重要性を持っていなかった。アメリカ外交官が特定の望ましくないグループと話してはいけない、などと言う考えも無かった。誰とでも話すことが出来た。

1962年暮れ、シリアで軍将校によるクーデターの話を聞いた時、マーフィーはアレッポのアメリカ領事館に居た。その当時のシリアは政情不安定な時代だった。マーフィーは既に、将軍達や革命家が入れ替わり立ち代り企てるクーデターを、他に2回目撃している。今回は大規模なデモンストレーションが伴っていた。彼の上司は、現地で暮らすアメリカ市民が紛争に巻き込まれないよう、シリア官憲の保障を求めていた。それでマーフィーは、1人で車に乗り込みアレッポ警察署へ向かった。そこで彼は混乱した現場に出くわす。武装したシリア兵が互いに怒鳴りあっていた。彼は自分の知っているオフィサーが死んで床に横たわっているのを認めた。「シリア人は皆、機嫌が悪そうだった。」マーフィーは冷静に振り返る。「私は出て行けって言われたよ。」

レバノン内戦の最中でさえ、現場の外交官は自由に自らが適当と考える安全性を適用する事が出来た。1982年9月18日、ベイルートの合衆国大使館で政治課長だった33歳のライアン・クロッカー(Ryan Crocker)は、ベイルート南部にあるサブラ(Sabra)とシャティラ(Shatila)の難民キャンプへ車を走らせた。キャンプではキリスト教民兵がパレスチナ人に対する虐殺を繰り広げていた。「セキュリティなんてものは無かった。全くね。」彼は私に言った。「虐殺と言うものが、どんなものか判ったのはその時さ。」難民キャンプの中では数百の死体が地面に散らばっていた。多くは四肢を切断されていた。数人は、罠として仕掛けられた爆弾で死んでいた。翌日、クロッカーは、現場に戻って死者の数を詳しく報告するよう求められた。彼はボディーガードも伴わず、再びキャンプへ車を走らせた。「その当時は、細かく考える人間がいなかったんだ。」クロッカーは私に言った。「単にやらなきゃいけない事だったんだよ。」

やがてそういった事は変わってゆく。7ヵ月後の4月18日、クロッカーは大使館内の自分のオフィスに居て、改善しないパレスチナ難民の安全性について電話をかけていた。大きな爆発が起きて部屋の向こうへ飛ばされたとき、彼は丁度昼食をとりに下へ降りようとしているところだった。彼は、擦り傷を受けていて目まいがしたが、負傷はしていなかった。そして自力で床から立ち上がって、自分のオフィスのドアを開けた。「ホール越しにオフィスの続き部屋が見える代わりに、」クロッカーは私に言った。「私は地中海を覗き込んでいたんだ。」

建物は前面を全て吹き飛ばされていて、隣のオフィスに居たクロッカーの同僚は死んでいた。爆発物を積んだトラックで乗り込んだ自殺狂信者の爆弾は63人の死者を出した。その中にはC.I.A.ベイルート・スタッフの殆どと中東分析家のトップも含まれていた。それに続きさらなる爆破事件が起きる。ベイルートの合衆国海兵隊の兵舎で241人の兵士が死亡。翌年、合衆国大使館が再度被災した。一連の爆破事件は外交局に前例の無い損害をもたらし、議会に波紋を広げた。

これらの攻撃が直接もたらしたものは、外国の合衆国大使館に対する新たな基準の設定だ。大使館は外周の壁から100フィート離れなければならず、障壁や爆風防護設備、それに厳格な入館管理が決められた。しばしば大使館は無菌の郊外へと移設された。外交官が居なければならない都市中心部から遥かに離れた場所だ。私はアラビア語の漫画を覚えている。事件の数年後に描かれたもので、2人の小さな人影が聳え立つ要塞の外、アメリカ国旗が翻る門の側に立っている。「合衆国大使館へはどうやって入ったらいいの?」1人が尋ねている。「入れないさ。」もう1人が答える。「この中で生まれるしか無いんだ。」

新たな建物と共にやってきたのは保安要員の一軍だ。彼らはアメリカ外交官に付き添い、何が危険で何が安全か助言する。彼らはやがて、ホスト国と大使館職員が関わる時に、不可欠な一部として組み込まれてゆく。誰が何処へ行って良いか、及び誰と会って良いか決断するのを助けるのだ。

「ベイルート爆破事件の前、我々は現在より、おおむね大きなリスクを取る準備が出来ていた。」クロッカーは私に言った。「思い返して欲しいのは、1983年が、我々が外交官を失った最初の年では無かったと言う事実だ。私は6回大使に就任した。そして私の前任者の内3人は暗殺されている。これは危険な地域で仕事をする上でのコストなんだ。議会は了承していた。一般民衆も了承していたんだ。最優先事項は仕事をやり遂げる事だった。」

2003年に私が外国特派員と成った頃、既に「アメリカ要塞」モデルは深く居座っていた。私が数年暮らしたレバノンの合衆国大使館はだいぶ前に、ベイルートから30分北に行った山間の、堅固に守られた施設に移っていた。色々な意味でその施設は監獄のようだった。そこを拠点とする外交官は許可無く離れる事ができない。そして外出する時はしばしば護衛に守られていた。殆どのジャーナリストは彼らと話そうとも思っていなかった。何故なら彼らは、私達より遥かに少ししかこの国の事を知らないと見なされていたからだ。他の国ではここまで酷くは無かった。しかしイエメンやサウジアラビア、そしてもちろんイラクの合衆国大使館は、余りにも仰々しかったので、そこを訪問中、私はアメリカ人である自分自身さえも歓迎されていないと感じざるを得なかった。英国や欧州の外交官は、遥かに少ないスタッフとリソースしか持っていないにも関わらず、時としてアメリカ人よりも土地の文化に精通しているように見えた。

全ての場所で私は、その国を良く知っていて、定期的に人々と触れ合う為に外へ出る、献身的で思慮深いアメリカ外交官を見つける事が出来た(その内の1人がクリス・スティーブンスだった。彼とは2007年に出会った)。しかしそういった人々の多くは、何層にも重なる保護措置によって作られた障壁を克服するには、とてつもない努力が必要だと私に語った。私と話してくれた全ての大使は、セキュリティ・チーフとは良い関係を保っており、リスクを理解する上で彼らが提供してくれる助力に感謝していると話した。しかしもっと下位の外交官が話してくれたところでは、セキュリティ・オフィサー達は、全ての決定に目に見えない影響を与えていると言う。「彼らはイエスと言いたく無いんだ。ノーと言った方が楽だからね。」ある中間の位の外交官は言った。「俺達は毎日それと戦っているんだ。クリス・スティーブンスの死を最初に聞いたとき浮かんだのは、もちろん悲しみの他にだが、今よりもっとやり難く成るだろうなって事さ。」数人の外交官は、もしセキュリティの禁忌がさらに悪くなったら、もうキャリアの変更も考えると私に言った。

中東の外では、規則の変更はもっとゆっくりと進んだ。1993年にアフリカ担当国務次官補代理になったプルーデンス・ブッシュネル(Prudence Bushnell)は、自分の安全を殆ど気にせずに大陸中を歩き回ったと私に言った。彼女は「ワーロード(warlord:武力で成り上がった権力者)のところへ行って、もう止めなさいって平気で言えました」と言う。「セキュリティに関しては何も要求しませんでした。紛争勃発直前のルワンダにも行ったし、勃発直後にも行きましたよ。セキュリティ無しでね。F.B.I.は銃を持たせたがっていたけど、私は彼らに対し、狂ってるって言ってやりました。」

そういった状況も1998年8月7日に変わる。ナイロビの合衆国大使館の外でアル・カイーダの工作員が巨大な爆弾を爆発させたのだ。その当時、ケニヤ駐在大使をしていたブッシュネルは、ケニヤの貿易相と隣の建物で会議をしていた。爆弾は防御の薄い大使館を破壊し、煙が立ち込める中、数百人のズタズタにされた死体を残した。彼女は爆発で倒れ、意識を失った。飛び散るガラスの破片で少し切った。犠牲者の殆どはケニヤ人だった。近くのホテルで医師の治療を受けた後、ブッシュネルは復旧作業の監督をした。彼女の嘆きは深い怒りと混ざり合っていた。彼女は、ダウンタウンにある大きくて脆弱なナイロビの大使館を移動するように何回も要求し、信頼性の高い情報を下にした危険性についても報告していた。その中にはトラック爆弾による攻撃に関する警告も含まれていた。ブッシュネルは個人的に国務長官のマデリン・オルブライト(Madeleine Albright)へ手紙を書いて、何かするように即していたと、私に話した。

それでもブッシュネルは現在、海外でアメリカ人を襲う最悪の恐怖を目撃した多くの他のベテラン外交官と同様に、リアクションが行過ぎていないか心配している。海外の外交官が、ワシントンによって変更された優先順位の成すがままになっている事態を心配している。「腰を下ろして考える必要があると思います。如何に我々は職務を追行するのか?」彼女は私に語った。「私達は柔軟性が要求される新しい状況に居て、国務省にはその柔軟性が無いのです。」

バーバラ・ボーダイン(Barbara Bodine)は、カイーダによる米海軍ミサイル駆逐艦コールの爆破事件の時、イエメン駐在大使をしていた。彼女は、アメリカ外交官が旅行中に強いられるセキュリティは非生産的だと確信していると言う。「この状況の裏にある考えは、セキュリティの人員を増やせば問題は去ると言うものよ。」彼女は言った。「旅行中に強いられる膨大な車列や厳重な警備兵の一団は、セキュリティの幻を与えてくれるのよ。現実のセキュリティでは無いわ。大勢の注目を集めて自分を標的にしてしまう。レーダーに引っかからないように行動した方が良いのよ。」

ある意味、増大する軍事的装備は、より攻撃的な姿勢を反映していると言える。合衆国は現在、アフタニスタンとかイラクのような戦闘地域に外交官を配置している。かつてであれば、大使館を置くには危険過ぎると見なされていたところだ。過去において、ワシントンは、悪化する安全性に対し「仕掛け線(tripwire)」を設定していた。撤退を強要する一線だ。「状況が怪しくなったら引き上げさせる」と言うのは、昔の国務省で繰り返された言葉だ。1989年、アフガニスタの状況が内戦へと悪化し、無政府状態になった時、合衆国は引き上げ、2002年まで帰らなかった。1992年には、政府の瓦解を受けてソマリアから引き上げ、現在も帰っていない。しかし実際には、その場所に留まる重要な政治的理由がある時、仕掛け線は無視される。そして合衆国軍が占領軍として存在する場所こそが、そういう場所なのだ。

そのような状況下では外交とか「ソフト・パワー」とかは無意味だと言う人間もいる。外交官は情報を集める役には立つ。しかしそれは、外交官の主要な目的とは言えない。何年もの間、アフガニスタンにおける合衆国の行動を批判する者は、数十億ドルの出費と、現地の女性の生活を改善しようという崇高な努力は、一度軍が徹底すれば、無駄であったことが証明されると主張してきた。「私達はいまだに19世紀に生きているかのように振舞っている。政府が地域をコントロールして外交派遣団の安全を保障している時代にね。」ブッシュネルは言った。「しかしイラクとかアフガニスタンのような場所では、それは真実では無い。もし影響を与えられないなら、去るしかないです。」

クリス・スティーブンスは、複数の人間が彼の死後に言っているように、反逆者でもアラビアのロレンスでも無かった。彼はルールを破らなかったし、彼を監視するセキュリティ・オフィサーと戦ったりもしなかった。彼は熟練した思慮深い外交官で、他の多くの人と同じ様に、自分に課された制限を苛ただしく思っていた。彼の同僚や友人に言わせると、彼は滅多に無い共感の能力を持っていて、予断を持たれる事無く人々と話せたと言う。これは、アメリカの政策がしばしば深い怒りを呼び起こす地域で働くアメリカ人にとって貴重な能力だ。「多くのアメリカ外交官は自分たち自身のコミュニティーに閉じこもる傾向がある。少なくとも個人生活においてはね。しかしクリスは実際にイスラエルで、アメリカ人で無い外国人との接触を求めた。そしてその見解を聞きたがったんだ。」スティーブンスが派遣されていた2003年から2006年の間、エルサレムで働いていたノルウェーの外交官、ヨナス・ヨレ(Jonas Jolle)は言う。「クリスは何時も熱心に聴いてくれた。全ての人が彼を自分達の味方と感じていた。それでアラブ人も彼を違う人間と見ていた。彼は一度としてブッシュ政権の政策を批判しなかったのにね。クリスは私が本当に尊敬する数少ない外交官の1人さ。」

2011年4月にスティーブンスがリビアへの特使を任命された時、それはまるで里帰りのようなものだった。彼は2007年から2009年にかけてリビアで過ごしている。シリア、サウジアラビア、エジプト、イスラエルで過ごした20年の外交官キャリアの中でも最高の瞬間だった。2011年4月初頭、ベンガジへ向かうギシリャの貨物船の桟橋を渡る自分を発見した時、彼は興奮を押さえ難かった。それは、彼を好きになったリビア人と、死後に彼を取り巻く寓話の双方にとって、殆ど伝説となるような旅行だった。気難しいギリシャ人とルーマニア人水夫が操船する船は、豪華さとは程遠い代物だった。スティーブンスは押入れのような広さの船室で、ジュニア・オフィサーと寝台を共有した。直ぐにトイレが壊れている事が判った。船が地中海で揺れる間、トイレは船底の水あかの匂いを発散し続けた。彼らは戦場へ向かっていた。カダフィのスリーパー・セルとかジハーディスト(聖戦士)とかが通りをうろついている都市へ向かっているのだ。反乱軍との連絡係として彼らを赴任させる事は、国務省の基準からして、酷く伝統無視なやり方だった。新政府は混乱しており、戦争がどういう風に終るのか誰にも判らなかった。しかしスティーブンスは天国にいた。「彼はこの仕事にロマンを感じていた。」同じ船に乗っていた彼の同僚の1人は言う。「これは冒険だった。まるで赴任地に船で向かう19世紀の外交官みたいだぜって彼は言っていたよ。」

スティーブンスはナイーブな男では無い。彼は中東で30年の経験があり、他のどのアメリカ人よりもリビアを知っていた。彼はアラビア語のリビア方言を流暢に喋れた。彼は危険をただ楽しむような男でも無かった。しかし色々な意味で、彼は昔の時代へ戻る航海をしていたのだ。アメリカ外交官にかけられた手綱がきつくなかった時代へ。ベンガジでスティーブンスと彼のチームは、事実上革命に参加していた。彼らはティベスティ(Tibesti)ホテルに居を構えた。悪臭漂う干潟を見下ろす15階建てのタワーで、ロビーでは何時も怪しげな噂話が交わされ、武装兵とかジャーナリストとかスパイとかが熱心に会話をしている場所だった。彼の以前のあらゆる赴任地と異なり、そこには彼を閉じ込める大使館は無かった。彼の部屋は荒れ果てた6階のスイートで、派手な金ぴか家具と4柱式寝台が詰め込まれた部屋だった。カダフィの右腕と言われた男、アブドゥラ・アル=サヌーシ(Abdullah el-Senussi)が良くその部屋を使っていたと知って、彼は面白がっていたようだった。スティーブンスは自由を満喫していた。彼は人々の家庭を訪れ、アラブ式に床に座って食事を共にした。携帯で撮った写真は、直ぐにインターネットに掲載された。彼は毎朝ランニングをして、しばしば立ち止まり、一緒に走っていたセキュリティ・オフィサーが狼狽する中、路上で人々とお喋りをした。8月、反乱軍指揮官トップがイスラム教徒に殺害された後、スティーブンスは車を飛ばして、リビア東部の部族支配地域の中心地に赴き、ハラビ(Harabi)部族の5人の長老と何時間も浜辺に座った。男達はラムの焼肉を食べ、お茶を飲みながらアラビア語で話し合った。スティーブンスは彼らに回答を強要しなかった。彼は何時の日かの見返りの為に関係を築いていた。「ベンガジは今までで一番好きな赴任地だとクリスは言っていました。」彼の友人であり、スティーブンスがこの春大使になったとき、ベンガジで彼の代理を務めたジェニファー・ラーソン(Jennifer Larson)は言う。「彼はとても、とても幸福でした。」

スティーブンスの死後、非難が応酬される中で、あの時点でリビアのトップ・ランキング外交官であったスティーブンスこそが、どの程度のセキュリティが適当か、どのようにセキュリティを使い、安全と危険をどのように見分けるか、最終的に決断する責任を持っていた事は見過ごされている。彼は9月に、トリポリの大使館からベンガジへ戻ると言う、運命的決断をした。それは彼が向こう見ずだった事を意味しない。彼の死後、色々とコメントをしたどんな人間よりも、彼は現地の状況を遥かに良く知っていたのだ。彼はリビア政府が政治的に傷付きやすく、ひ弱である事を知っていた。彼は、占領者と見られる事のリスクに対する自分自身の安全性を推し量るべき人間だった。

9月初頭、スティーブンスのガールフレンド、ヘンリエッテ・フォン・カルテンボーン=ステイチョウ(Henriette von Kaltenborn-Stachau)は仕事でカブールへ飛んでいた。それは定期的な旅行だったが、スティーブンスは彼女のことを心配していた。「最後のe-mailで彼は言ってたんです。『アフガニスタンでの君の安全を祈っている。それが最も重要なんだ。』って」彼女は私に言った。「彼が危険性を軽く見たことなんてありません。」スティーブンスとフォン・カルテンボーン=ステイチョウは殆ど10年来、付かず離れずの関係だった。しかし2人のキャリアは2人が望むほど長く一緒の時を過ごさせてくれなかった。フォン・カルテンボーン=ステイチョウが私に話してくれたところでは、9月11日の夜、彼女はスティーブンスに関係する怖い夢にうなされたと言う。「夢の中で彼は暗い所に居て、私から引き離されて行ったんです。」彼女は言った。「彼は行きたがって無く、私も彼を行かせたく無かった。だけど何かが彼を連れ去って行ったんです。目を覚ました私は、ベンガジから来たニュースを見ました。」

スティーブンスの死の2日後、彼の遺体と、他3名のベンガジ襲撃事件アメリカ人犠牲者の遺体がワシントン郊外のアンドリュー空軍基地に届いた。約800名が集まる巨大な飛行機格納庫へ、死者の遺族が歩み入った時、その場を完全な沈黙が支配した。「聞こえたのは自分達の足音だけでした。」シアトルで小児科医をしているクリスの妹、アン・スティーブンス(Anne Stevens)は言う。国旗に覆われた4つの棺が運び込まれ、黒いテーブルの上に置かれた。軍楽隊が「主よ、みもとに近づかん(Nearer, My God, To Thee)」を演奏した。セレモニーの途中、スティーブンスの母、メアリー・コマンデイ(Mary Commanday)が静かに泣き始めた。オバマ大統領は彼女の隣に跪きハンカチーフを差し出した。演説の中でオバマは宣言した。合衆国は「決して世界から撤退はしない」と。

スティーブンスの死の翌朝、ヒラリー・クリントンが電話する事が出来た最初の親族は、アンだった。彼女はクリントンから何が起きたのか説明を聴いた。そして沈黙が訪れるのを待ってから言った。

「兄がやっていた仕事を止めないでください。」彼の妹はそう言った。

~~ここまで~~

次回更新は12月15日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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