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シリル・ラマフォーサと南アフリカ政治

南アフリカに関する記事をUpします。

記事を書いたのはビル・ケラー(Bill Keller)さんです。元記事はここにあります。

南アフリカの次期指導者と目されるシリル・ラマフォーサ(Cyril Ramaphosa)さんに関する記事です。

~~ここから~~

シリル・ラマフォーサは南アフリカが未だ持ち得た事が無い最高の指導者に成れるのか?

1992年、私がシビル・ラマフォーサに会った時、彼は、3世紀にわたる白人支配を、最終的に身震いするような興奮と共に比較的平和裏に終わらせる事になった交渉において、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)の振付師をしていた。数多くの政党が毎日のようにヨハネスブルグ郊外のカンファレンス・センターに集い、複数の言語で議論していた。集まったのは、元囚人とその抑圧者、共産主義者やバンタスタン州(黒人自治州)の支配者、アフリカーナーのナショナリスト、組合の戦闘員などだった。実質的に降伏文書の文言を決める議論だ。

時としてこの試みは差し迫る失敗の予兆で震撼した。内戦すらあり得た。2人の白人至上主義者が若いカリスマ的共産主義リーダーを車両乗り入れ口で銃撃した時が最も険悪だった。別の日には、最後まで屈しようとしないアフリカーナー(南アフリカ生まれの白人、主にオランダ系)が装甲トラックに乗り込み、会議場入り口のガラス扉を破った。(今から振り返ると、その建物がワールド・トレード・センターと呼ばれていた事は奇妙な符合を感じさせる。)

マンデラは道徳的権威とオーラを提供していた。その当時、反アパルトヘイト連合であるアフリカ民族会議(African National Congress:A.N.C.)の事務局長をしていたラマフォーサは事務方を担当していた。大きな丸い顔をして、ごま塩の髯を通して微笑みかける彼は、複数言語を巧みに操る魅力的なやり手であり、緊張を作る事も和らげる事も巧妙だった。「大量動員による示威行動」を支持者に指令すると脅しをかけるかと思えば、手榴弾にピンを戻して場を和らげたりする。現在ヨハネスブルグで人権法律センターを運営していて、ラマフォーサの交渉チームの一員だったジャネット・ラブ(Janet Love)は最近私に指摘した。彼が如何にして、19の政党や同盟からなる、そうそうたる一群を前にした時に持ち上がる難問を解決したかを。このような場合、幾つかの事柄が他よりも重要であったりする。例えば、何かが「決定(decided)」されたと、どうやったら見做す事ができるのか?ラマフォーサは「充分な合意(sufficient consensus)」なる概念を持ち出してきた。この言葉は馬鹿げているほど曖昧に聞こえる。しかしこれは白人のナリョナル・パーティー(National Party)とA.N.C.が合意に達した事を説明する礼儀正しい方法なのだ。その他大勢は、ラマフォーサが後でリポーターに言ったように、「どうにでもなるんだ(can get stuffed)」。

合意に到達した時、明らかに彼は最初の副代表、次期大統領となるべき地位に選ばれるべきだった。実際にマンデラは彼を選ぼうとしていた。しかし党の長老たち、特に困難な亡命時期を過ごしてきた人々による権力を持った派閥は、故国で組合設立の正面を担当し、A.N.C.へ遅れて加入したラマフォーサに不安を覚えていた。

そして昨年12月、南アフリカを訪問した私は新しいシリル・ラマフォーサに出会う事になる。彼が持つ会社シャンドゥカ(Shanduka)・グループがヨハネスブルグの最も高級な地区に持つ砂岩色の光沢ある複合施設のオフィスに、実業界の大立者シリルを訪ねたのだ。最も裕福なアフリカ人を並べたフォーブス誌のリストでラマフォーサは21位に名前をあげられている。彼の資産は6億7千5百万ドルと見積もられる。ロシアのオリガルヒ並みの驚くべき富を国民の40%が一日2ドル以下で生き延びている国で得ているのだ。彼が如何にしてかくも豊かに成ったのかと言う物語を私達はこれから知ろうとしていのだが、私が訪ねたのは、彼が政界復帰を考えていると言う記事の為だった。

そして正に私達の会談から1週間後、与党アフリカン・ナショナル・コングレスは彼を国政に呼び戻した。地滑り的多数で、彼を党の副代表に選出したのだ。この選挙は現在60歳のラマフォーサを、18年前マンデラが彼の為に考えていた軌道に戻した。ついに私達は、南アフリカ国民の多くが長いこと信じていたように、今まで南アフリカが持った事の無い最高の大統領に彼が成れるかどうかを見届ける事になりそうだ。

この地を長いこと訪れていない人にとって、南アフリカは繁栄していると同時に不安定になったと感じられる事だろう。流行の先端を行く地区のショッピング・モールにはあらゆる人種の買い物客が溢れている。ヨハネスブルグ、ケープタウン、そしてダーバンの空港や競技場は世界レベルだ。そしてここには、ラマフォーサのような非常に豊かな黒人資本家が存在する。しかしその豊かさは、手に負えない不平等と顕著な腐敗、そして暴力の爆発で噴出される不満と言ったこの国の苦悩を完全に隠しはしない。

最近、最も動揺を呼び起こし、南アフリカ開放は完遂から程遠い事を思い起こさせる事件が起きた。マリカナ(Marikana)と呼ばれる町のプラチナ鉱山で起きた山猫ストライキが8月、大規模な殺戮で終ったのだ。鉱山での殺戮はラマフォーサを巻き込んだ議論に発展した。アメリカでは確実に××ゲートと呼ばれて報じられるであろう事件だ。彼は、その殺戮現場の鉱山を所有するプラチナ会社の株主で取締役会のメンバーだった。全くのところ彼のポートフォリオには、金、ダイアモンド、石炭、それにプラチナと言った数多くの鉱山への投資が含まれている。白人が支配していた時代、ラマフォーサは南アフリカの強力な鉱山労働者組合を組織した。したがって、彼を解放闘争の英雄にした産業が、最近になって彼を富豪にし、さらには人々に彼の信念が何処にあるのか疑念を抱かせる種となったのだ。彼は今、その特徴的な巧みさでもって、当初は資産に対する負担と見られていた悲劇を、新たな風を切実に必要としている民主主義運動での、行動を駆り立てる原因に変換させようと努力している。

「マリカナが与えてくれたのは、大変な犠牲は伴ったが、新たなスタートを実際に始めるチャンスなんだ。」彼は私にそう言った。「マリカナは巨大なウェイク・アップ・コールだ。」そしてそのウェイク・アップ・コールはシリル・ラマフォーサのみに向けられたものでは無い。

8月にマリカナで起きた事件は南アフリカでは珍しい事では無い。給料増額を求めて組合の支援無しにストライキが始まり、何日も続く暴力沙汰へと発展した。

紛争が起きた鉱山を所有する多国籍企業ロンミン(Lonmin)は財政上の問題を抱えた会社でロンドンに本社を置いている。この時、一時的にチーフ・エグゼクティブが不在だった。ラマフォーサの持株会社は2010年にロンミンの南アフリカ支社の株を9%購入している。そしてストライキが手に負えなくなった後、無能な経営陣は鉱山労働者を知っていてA.N.C.の身内であるラマフォーサにカウンセリングを依頼した。現在継続中の捜査で会社が捜査官に渡したe-mailには、ラマフォーサがコネを使って、政府、組合、A.N.C.そして鉱山会社に注意を喚起し、流血沙汰を止めるよう求めている様子が記されている。

8月15日、ラマフォーサがロンミンのチーフ・コマーシャル・オフィサーに不満をぶちまけていた時、ストライキ参加者と非参加者、土地の組合役員、そして鉱山の警備員の間の争いで、10人の人間が殺されていた。危険な雰囲気はさらに増大していたが、未だ会社は混乱し、警察は距離を置いて見守っていた。

「現在起きている恐るべき事態は労働争議とは言いがたい。」ラマフォーサは書いている。「彼らは単純に卑怯な悪漢であり、そのように位置づけられねばならない。その位置づけの元に、この状況に対処する付随的行動が必要となる。」

その次の日、重武装の警官隊が到着する。伝統的な槍と山刀、それに弾丸にも傷つかなくなると信じる薬品で興奮した怒れる鉱山労働者達は、催涙ガスやゴム弾、それに放水で追い散らされ、警官隊の装甲と鉄条網で囲まれた四角いスペースへ逃げ込んだ。34人が自動小銃の弾丸で打ち倒された。一斉射撃の様子と、弾丸で傷だらけになった死体の様子はYouTubeで見る事ができる。

シャープビル(Sharpeville:1960年3月21日に発生した虐殺事件の場所)、ソウェト(Soweto:1976年6月16日、全国規模の暴動、ソウェト蜂起の口火を切った場所)、ボイパトング(Boipatong:1992年6月17日、46人が殺された虐殺事件の現場)等の、数々の殺戮で歴史が彩られてきた国において、マリカナは新たに不名誉な名前の仲間入りをした。

ラマフォーサの政敵たち、その中でもジュリウス・マレマ(Julius Malem)、機会主義的な若き情熱家でA.N.C.に不和の種を撒いた事でラマフォーサ率いる告発委員会の決断によって追放された人物は、秩序の回復を懇願したラマフォーサのe-mailを指して、警官による殺人を扇動するものだと決め付けた。ラマフォーサが使った格式ばった法律用語、「付随的行動」が殺戮を意味したもので無いことは極めて明らかだ。そしてこの非難は与党の中で支持を集めなかった。12月に私がインタビューするまで、ラマフォーサは殺戮について、捜査官に対して証言する用意があると言う発言と、犠牲者の埋葬に資金を寄付すると会社を通して表明した以外、頑なに沈黙を通していた。彼の行為に対して何人かは、ノブレス・オブリージと言うよりも、罪の意識のなせる業だと捉えたようだ。

しかしながら、より大きな物語は、鉱山労働者がどのように死んだかでは無く、どのように暮らしていたかだ。マリカナが私達に与える緊急を要する教訓は、南アフリカの最も重要な産業が、民主主義によっても恥ずべきほど僅かしか改革されていないと言う事実だろう。

私が12月に、彼の政界復帰が近いという噂話が膨れ上がる中でインタビューした時、ラマフォーサは言った。現在は株主としてだが、鉱山の現場を訪れるのは今でも苦痛なのだと。そこでは鉱山へ電力を送る送電線が貧民街や村の頭上高くを通っている。そして鉱山はまるで輝く「光の島のようなんだ。周りの村が暗闇に沈んでいる中でね。」鉱石洗浄の為にダムから水を引くパイプラインが下水設備も無い村を通ってゆく光景は彼の気分を悪くする。しかし小口株主として、自分に出来るのは改革の声を上げる事だけだと彼は主張する。そして会社はゆっくりとではあるが応えていると言う。

「アパルトヘイトが与えた影響は鉱業では非常に大きいんだ。何故ならこの場所こそ、あれが始まった場所だからね。」彼は言った。

私はマリカナへ、グレッグ・マリノビッチ(Greg Marinovich)と共に車で向かった。彼は私が20年前ヨハネスブルグに滞在していた時、いつも同行してくれた写真家でありガイドだった人物で、何週間もかけて殺戮を記録している。たとえ事件の数ヵ月後であっても、もし貴方が殺戮の現場へ足を踏み入れて黄色いペンキが赤い岩から剥がれている場所、すなわち検死チームが死体をマークした跡を見れば、ストライキをした人の中の数人は隠れている所を狩り立てられて殺されたと考えるに違いない。マークの跡は、最初の衝突現場から見通せない場所に死体が散乱していた事を示している。ある死体は2つの大きな岩の間に挟まっていたようだった。

「こんな場所にいる人間をどうやって撃ったと言うんだ?」グレッグが訊いた。「たぶん頭上からか?あるいはそこまで這って行って出血で死んだか。だがこれは、至近距離からの銃殺に見える。」

誰かが36の白い十字架から成る祭壇を作っていた。34は倒れた人々のもので残り2つは事件の知らせを聞き、息子達が銃で撃たれて死んだと知って心臓発作で死んだ両親のものだ。

その陰鬱な視察の後、私達は、そびえ立つ鉱石運搬機と通気ダクトに「Lonmin Care(ロンミン社が面倒を見る)」と言うスローガンが貼られた鉱山施設へ行き、フェンスの外に広がる荒れ果てた小屋の間の狭い道を歩き回った。

他の鉱山地帯と同様にプラチナ・ベルトも、アパルトヘイト時代から殆ど変っていない移民労働システムに依存している。私達は32歳のジャクソン・マジキ(Jackson Majiki)がビールで土曜の息抜きをしているのに出会った。彼は電気も水も通っていない10×13フィートの小屋の中でプラスチックのミルク・ケースの上に座っていた。多くの鉱山労働者と同じ様にマジキは600マイルかなたの東ケープ州から来た。彼の故郷では妻と3人の子供、それと母親に4人の弟たちが彼の給料で暮らしている。争議を収める為にロンミンが与えた給与増額で彼は月に27回のロング・シフトで800ドル近く得られるようになった。トンネルの奥深くで馬上槍試合の槍くらいあるドリルを操る過酷な仕事だ。上司とか鉱山労働組合とか、A.N.C.とかラマフォーサ(「草むらに居る蛇」)に対する彼の態度は、丁寧な言葉でまとめても嫌悪感になるだろう。

アパルトヘイト時代、鉱山労働者は気味の悪い宿泊所で暮らしていた。まるでワイン貯蔵庫の棚に収められたボトルのように窮屈な寝台で寝て、息抜きはアルコールとか麻薬とか売春婦以外に無かった。組合指導者としてのラマフォーサの輝かしい勝利の1つは労働者をこういった収容所から解放した事だった。労働者は「生活給付(living-out allowances)」の支払いを受け、文化的環境の住居を借りて家族を呼び寄せる事も出来るようになった。しかし給付は予期しない結果を招くケース・スタディとなる。殆どの労働者は穏当な住居を借りるのでは無く、給付を給与の補填として使った。彼らは宿泊所から安い掘っ立て小屋へ移り、残りの金で故郷への送金を増やしたり、鉱山町に住む2番目の家族とかガールフレンドとかへの支払いに使った。ジャクソン・マジキは彼の小屋に月30ドル払っている。汚いマットレス以外に家具は殆ど無く、水は半マイル離れた場所の、雨が降ると汚水が流れる脇道沿いの蛇口から得ている。彼はこの不衛生な環境に捕らえられていると感じている。

その間、地元の全国鉱山労働者組合(National Union of Mineworkers:N.U.M.)の職員は、ドリル操作者の権利を守る存在であるはずなのに、自分たち自身の良い待遇を模索して交渉している。フルタイムの地上勤務とか自動車、ケータリングやランドリー・サービスを選ぶ権利(それにキックバックの分け前)とかだ。「全国経営者組合さ」マジキは地元の委員達をそう呼んだ。

南アフリカには数多くのマリカナのような町がある。そのような場所で起きる殺戮は、仲間内で固めた政治グループが率いる武装全国警察の力を増す結果に終る。警察官達は犯罪との穏健な戦い方を訓練されていない。彼らは群集をコントロールしようとしない。彼らがするのはショックを与えて怯えさせる事、あるいは、パニックを起こさせたり殺戮したりする事だ。

ラマフォーサは主張する。マリカナの殺戮は、鉱業の全体的改革を求める政治的刺激を与えたと。組合を真の労働者の代表に戻す。鉱山企業と行政府と動きの鈍い地方自治体とのパートナーシップによって、正常で維持可能なコミュニティーを作り出す。手始めとして、彼は、鉱山労働者の勤務をより短いサイクルにして故郷へ帰る回数を増やし、宿泊所をより居住しやすいように改築する事を提案した。彼が言うところの、オーストラリア鉱山で充分良好に機能したのと同種の改革だ。

「果たしてそれが可能だろうか、」彼は自問する。「私は可能だと思う。そして出来るだけ早く取り組むべきだと思う。もし私達が、人々の頭や心の中の鉱業の正当性を回復させたいと思うのであれば。」

鉱業以外の分野でもラマフォーサは、今後20年間に亘る画期的な「国家開発計画(national development plan)」の著者の1人だ。この計画書は、広く敬意を集める元財務相トレバー・マニュエル(Trevor Manuel)を中心に集まったビジネスマンやテクノクラートの委員会が政府向けに起草したものだ。こういった計画の多くがそうであるように、この計画もその大望と約束するものは遠大だ。2030年までに貧困を「消し去る」。格差を狭める。国民皆保険を提供する。警官を専門職にする。公教育を全面的に改革する。その殆どを、経済を3倍にし、腐敗による損失を無くし、市場と政府による幸福な共同作業の元で、痛みを伴わずに財源を確保する。その大望の一部でも達成する為には尋常ならざる巧みさで持って数百にも及ぶスイッチを押してゆく必要があり、そんな巧妙さは南アフリカの統治者がついぞ持った事が無いものだった。

ラマフォーサの優れた伝記を書いており、ケープタウン大学で公共政策論の教授をしているアンソニー・バトラー(Anthony Butler)は言う、「シリルは南アフリカ政治史におけるフォレスト・ガンプなんだ。」バトラーが言いたいのは、ラマフォーサは今まで、この国における殆ど全ての重要な瞬間に立ち会って来ていると言う意味だ。

彼は1952年、ヨハネスブルグ近郊の「非西洋人」向け多民族入植地、ウェスタン・ネイティブ・タウンシップで、ミッション・スクールを卒業した子煩悩で大望をもつ両親の元に生まれた。父親は巡査部長、母親は小さな酒屋をサイドビジネスとして経営しながら家事を取り仕切っていた。10歳のとき家族は強制的に、比較的幸福で多様性に富んだタウンシップから陰気な環境、ソウェトの膨れ上がる黒人大都市へと移住させられる。政府による黒人再部族化(retribalizing)と言う情け容赦無い実験の為だった。ソウェトにおける地位を持たない北部のヴェンダ人であるラマフォーサは、ヴェンダ近辺の人々と共にゴミ捨て場横のブロックへと移された。

まだ若かったラマフォーサは、マンデラや他の多くの者と同じように、黒人意識運動(Black Consciousness Movement:B.C.M.)に惹かれていった。B.C.M.は黒人による自給自足を信条としていて、活動の最も有名な殉教者にはスティーブ・ビコ(Steve Biko)がいる。高校に入ったシリルはB.C.M.に傾倒する学生キリスト教運動に参加し、その雄弁さや組織化のスキルでもって最終的に全国の代表にまで上り詰める。彼は北部にある人種別大学に法科の学生として入る。しかし、学生運動を主導した為に逮捕される。正式な裁判も無く、彼は11カ月、プレトリア(Pretoria)監獄の独房に収監された(その当時マンデラはロッベン島に収監されて10年目を過ごしていた)。

1976年、ソウェトで学生が大規模な抗議活動を行い、警官隊が尋常で無い無秩序で野蛮な方法で制圧した後、疑わしい人間は誰でも逮捕される事態が続いた。ラマフォーサは再び警察署に引っ張られる。裁判も無く再び6か月、警官による拷問で悪名高いヨハネスブルグのジョン・ヴォルスター・スクウェア(John Vorster Square)で独房に入れられた。

マンデラや他の多くの者と同じく、彼も又、知的で殆ど反政治的ですらある黒人意識運動に幻滅し、より現実的な見通しのあるものへと惹かれて行く。彼は小さな法律事務所で書記の仕事を得て、自分の政治的才能を発揮する場を探し始める。

その当時、南アフリカはアフリカーナー・ナショナリスト党に統治されていた。しかし産業界の多くはオッペンハイマー家(Oppenheimers)やメネル家(Menells)のような一族に支配されていて、黒人多数派に対するよりリベラルな扱いを望んでいた。彼らは主張する。経済的繁栄は安定を必要とし、良く訓練された黒人労働力と、消費者としての黒人中間層を必要とすると。彼らは又、より慈悲深い対応で、ヨーロッパおよび合衆国からの資本引上げや経済制裁が緩和される事を希望していた。何年か後、この同じ産業界の人間が、白人支配の黄昏を予見し、黒人解放後の影響力確保を望んで、アパルトヘイトを終焉させる議論の円滑化を助ける事になる。しかしまだこの時点では、黒人に少しだけ良い暮らしを提供するだけで、実際の権力を分け与える事は無かった。

このような進歩的主張から発生したのが、金取引のアングロヴァール社を所有するメネル一族のような鉱業界の巨人が始めたアーバン基金だった。同基金は、影響力があり能力のある黒人を、彼らに相応しい、アフリカ人コミュニティー地位向上を目指すプロジェクトへ招いた。そしてそれこそが、ラマフォーサが重要なパトロンを得た道だった。金鉱業コングロマリットを率いるクライブ・メネル(Clive Menell)が彼をアーバン基金へリクルートした。監獄にいた為に中断していた法律の勉強を完了させるのを援助し、南アフリカを治める真の力を持った人々に対する大きな信用を彼に提供した。クライブの息子で跡継ぎのリック・メネル(Rick Menell)は彼の親しい友人になり、その関係は今も続いている。

アーバン基金は彼に、権力を持つ人間達と交渉する上で有用なスキルを教え、ビジネスに対する鑑識眼を与えた。それは反アパルトヘイト連合の人間が一般的に持っていないものだ。しかし白人の理想主義的慈善家が現状維持を装飾するのを助ける事は、彼の興味を長く引き止められなかった。彼は労働者達へ法律上のカウンセリングをする仕事を始める。そして直ぐに、国内最大で殆ど他人を寄せ付けない黒人労働者の集団を組織化する努力を始める。鉱山労働者達だ。

黒人労働組合は80年代にブームを迎える。暴力的山猫ストライキを恐れ、技術を持った労働力に飢えていた雇用者が許容したのだ。雇用者は又、組合との共同作業を通して、良く組織され高給の白人労働者が占める仕事へ、訓練された黒人を充てる事でコストを抑えられると計算していた。しかしながら、遠くから出稼ぎに来ていて広範囲に散らばり、会社の宿泊所に閉じこもって反組合のアフリカーナー上司に見張られた鉱山労働者は、手の届かない存在だった。鉱業界に交渉相手となる組合を導入しようとする秘密の活動は、少なくとも2件あった主要な企てが惨めな失敗に終わっている。

鉱業界の大立者と会い、彼らを研究していたラマフォーサは、こそこそしたアプローチを捨て去り、基本的に正面入り口から話す方法を取った。彼は自分自身を、暴力的労働争議と予測しがたい要求、それに高給な白人労働者に対する妥当な代替として売り込んだ。全国鉱山労働者組合(N.U.M.)は14,000人のメンバーと設立委員会、そして1人のフルタイム従業員であるシリル・ラマフォーサ、当時30歳の事務局長を持って始まった。4年も経たない内に組合は344,000人のメンバーを集めた。そして、バトラーの伝記が書いているところでは、鉱山所有者はN.U.M.が「当初期待していたような親和的組合では無い」事を実感してゆく。

彼の最も重要なパートナー、レソト(Lesotho)出身のタフで巧みな元鉱山労働者、ジェイムズ・モトラツィ(James Motlatsi)が気難しい組合員をまとめている間に、ラマフォーサは経営陣との交渉を担当した。彼は、交渉の場での劇的効果、裏取引、冷静な計算や脅し、巧みな演説、そして白人ビジネスマンの思考方法を熟知している事など、全ての能力を駆使した。N.U.M.は次第に給与を改善して行く。そしてより重要な事に、年金を獲得し、過酷な労働環境を改善し、黒人をより良い仕事から遠ざけていた人種間の壁を壊し、強力な組織を築いていった。

1987年、組合がその力のピークにあり、金産業の経営状況が苦境にあった時、ラマフォーサは大きな賭けに出た。彼はストライキに出る。鉱山労働者の70%が参加し、かなりの暴力が伴ったストライキは前例の無い21日間に及んだ。そしてこのストライキは叩き潰される。鉱山企業は大規模な解雇、ロックアウト、給与減額、そして組合の権力削減で応じた。ラマフォーサは組合が生き延びて再構築された事に慰めを見出すしか無かった。その後の組合が鉱山労働者にどの程度の恩恵をもたらしたかは議論が分かれる。しかし、解放闘争に収斂されてゆく組合の力は、白人支配を終わらせる上で、偉大な貢献をした事は間違い無い。

ワールド・トレード・センターにおける議論から暫定憲法が出現し、最初の自由選挙が1994年にスケジュールされた時、地位をめぐって熾烈な闘争が持ち上がった。特にアパルトヘイト時代を亡命(exile)して過ごした人間達、経済制裁を売り込み、募金活動をし、空想的気まぐれで武力闘争を手探りしていた人間達と、ラマフォーサのような、いわゆるインザイル(inzile:exileの対義語として作られた言葉)と呼ばれていた人間達、故国の最前線で戦っていた人間達との間の闘争だ。ラマフォーサは鉱山労働者の力を、南アフリカ労働組合会議(Congress of South African Trade Union:COSATU)へ持ち込んだ。同会議は労働者を束ね、組合の闘争を、個別の交渉から社会変革闘争へと方向付けさせるものだった。ラマフォーサはA.N.C.にも参加し、全体を統括する事務局長へと速やかに登って行った。マンデラが監獄から釈放され、興奮する民衆と興味津々の世界へ向かった最初の演説を行った時、ラマフォーサはこの偉大な男の唇へマイクを向けて支えた人間の一人だった。

マンデラが最も信頼する数人の人間の間では、最初の大統領代理、および1999年に自分が引退した後の後継者としてマンデラはラマフォーサを一番に考えていたと言う。マンデラはこの男を信頼し賞賛していた。その理由は、私を含む彼の行動を見てきた人間全てに明白だった。そしてマンデラは又、民族間の政治を全く意識していなかったわけでは無い。A.N.C.に対する批判の1つとして、同党がマンデラの同胞で東ケープ地域に住むコサ(Xhosas)族の役員が多すぎると言うものがある(A.N.C.は時々、コサノストラ(Xhosa Nostora)と呼ばれる事がある)。ヴェンダ族のラマフォーサは、党に多様性の光沢を若干与える事が出来る。

しかしラマフォーサは、A.N.C.がザンビアの首都ルサカにいた時代からのオールド・ボーイ・ネットワークに含まれていない。そして彼の国内活動が、敵との交渉を避けがたく含んでいた為に、アンソニー・バトラーが上手い言葉で言い表したところの「亡命で離脱した者の持つ純粋性(purity of exile disengagement)」を持っていなかった。A.N.C.代表のオリヴァー・タンボ(Oliver Tambo)の弟分で、各地を転々とした亡命者のタボ・ムベキ(Thabo Mbeki)が大統領代理と後継者の地位を得た。大統領になって数か月後、マンデラは私に彼の執務を1日観察する機会を与えてくれた。私は彼に、何故ムベキを受け入れたのか質問した。彼の回答は判りにくく言い訳の多いものだった。最後に彼は言った、ラマフォーサはムベキより10歳若い。彼はいずれチャンスを掴むだろう。

マンデラはラマフォーサに外相の地位を提示した(その地位はおそらく諸国を転々としたムベキにこそ相応しかっただろう)。彼は断った。友人で鉱山企業重役のリック・メネルと共に渓流へ行き、釣りをしたりふさぎ込んだりの生活を送った。メネルは当時を振り返って言う。時おりラマフォーサと「政治の世界から方向を変えて実業界に入り、別のセクターでのもう1つのロールモデルになる」と言った話し合いをしたと。実業界と言う選択肢は、別の言葉で言えば、次の闘争の場として捉えられていた。ラマフォーサはまず2年間、マンデラに認められた役割として、正式憲法の成立過程を見守った。そして彼は方向を変える。

それ以来、マンデラの後継者が悪い人間からさらに悪い人間へと移ってゆく間、社交場でよく話される雑談では、(そこに限られたわけでは無いが、特に白人リベラル層の社交場の雑談では、)より有能で腐敗の少ないラマフォーサ大統領の元で繁栄する南アフリカと言った空想が持て囃されてゆく事になる。

鉱山企業の株式に加えて、ラマフォーサの持株会社は南アフリカ国内179店舗ある全てのマクドナルド・レストランと、ありとあらゆる会社、それこそコカ・コーラ配送会社から太陽光エネルギー企業まで、銀行から最大の携帯電話ネットワークまで、数多くの会社の株を少しずつ所得している。彼があまりにも多くの会社の取締役会や委員会に名を連ねているので、彼と一緒に新国家開発計画の元で働いているトレバー・マニュエル(Trevor Manuel)によると、ラマフォーサからのe-mailは規則正しく朝3時に届くのだと言う。彼の妻はさらに重要な大立者、フォーブス番付8位のパトリス・モツェペ(Patrice Motsepe)の妹だ。黒人資産家層の一員としてのラマフォーサの地位は殆ど王朝的なものになっている(前妻の子1人を含む4人の子供の内、長男は銀行に入り、もう1人の息子と2人の娘はまだ学生だ。)。

他のこれ見よがしな新しい資産家達と異なり、彼は個人生活を明かさない。しかし彼は良い暮らしを好んでいる。フライ・フィッシングとか、アフリカーナー紳士の究極的な暇つぶし、北部にある個人の広い農場でエキゾチックな野生動物の飼育をしている。(最近彼は稀な事に、取繕わない姿を公衆の前に出した。家畜のオークションに出席して賞を取ったバッファロー牛に200万ドルの値を付けたのだ。ラマフォーサはこれを投資として見ている。「同じ額をハンバーガー製造プラントを買うのに使おうと思っているんだ」と彼は私に言った。彼は落札できなかった。しかし政敵たちは嘲笑し、彼は大衆との接点を失ったと囃し立てた。彼は自分の思慮の足りなさを謝り、騒ぎは収まった。)

過去数世紀の殆どの期間、アフリカで豊かな人間に成る一般的な方法は2つだった。植民地収奪者になるか土着の盗賊政治家になるかの2つだ。南アフリカでも、この2つの方法はお馴染みだ。しかしラマフォーサの富は別の方法で得られた。

白人が自分達の政治に対する独占を棄て去る際に行われたグランド・バーゲンの一部として、土地所有や製品製造や利益分配制市場経済へ黒人を招き入れる為に、新憲法は様々な施策を約束している。他の新たに解放された国々、産業の国有化や生産地の没収をして国家経済を破綻させた国々と異なり、南アフリカは物事を慎重に、もっと緩やかに進める決断をした。

白人企業家の何人か、特に鉱業関係者は、早期からアフリカ民族会議と良好な関係を築くと言う巧妙さを備えていた。緊張感を孕みつつも同等な関係は解放後も続いた。再分配における合意はアフリカの健康な経済を損なう事が無いように注意深く議論された。少数民族納入業者との政府契約とは別に、雇用と昇進における差別撤廃措置が時間をかけて実施された。そして黒人が、経済界の劣った支流に閉じ込められる事の無いよう、B.E.E.(Black Economic Empowerment:黒人経済強化法)が策定され、以前土地から追放された人々を、土地を所有する階層へと招き寄せた。

鉱業セクターにおいては、2014年までに各企業の4分の1以上の資産を黒人の手に委ねることで、政府と産業界の間に合意が成立している。その為、幾つか創造性豊かな資産運用が特別に求められた。あるいは辛辣な政治エコノミストでシステムの批判者(そして元大統領の弟)であるモエレツィ・ムベキ(Moeletsi Mbeki)が言うように、「インチキ資産運用」が求められた。ラマフォーサは自分の持株会社、ヴェンダ語で「変化(change)」を意味する「シャンドゥカ(shanduka)」を2001年に立ち上げ、非常に特徴的な方法で株式の取得を始めた。しばしばシャンドゥカの株式取得は銀行から資金提供を受け、その返済は配当金と株価上昇分で支払われた。時には、株式を取得する会社から直接資金をシャンドゥカが借りる場合もあった。

「僕は君に、僕の鉱山の25%を売ろう。」複数の権力移譲取引に絡んでいるリック・メネルはそう説明した。「君がお金を持っていないのは知っている。私に払う代金は貸してあげるさ。そしたら君は自分の利益の取り分から私に返してくれれば良い。そうそう、君には特別な配当金をあげよう、生活の為に少しばかりのお金が必要なのは判っているからね。」

このような取引が一般的に、多数派の白人株主にリスクを負わせるよう作られていたとしても、それは数世紀にわたる抑圧に対する弁済と受け取られていた。そしてその情報が政府に逐一報告されていたのも偶然では無い。何故なら、驚くほどの事では無いが、新たに出現した黒人資産家、特にラマフォーサを含む「いつものあいつら(the usual suspects)」として知られる中核グループは、A.N.C.政権と深い繋がりを持ち、党の資金に貢献してきた人間達だったからだ。民間セクターで活動していたこの時期を通してラマフォーサは、党の全国実行委員であり続け、黒人経済強化法の策定をした部会を含む影響力の強い作業部会のチェアマンであり続けた。

理論的には新しく強化された黒人資産家は、その幸運を労働者へ下したり、新たなビジネス上の慧眼を次世代の黒人起業家達へと渡して行く事で、その責任を果たすはずだった。先月私達が話した時、ラマフォーサが言ったように、充分な量が下に届いているとは言えない。資金を下におろす時は、しばしばチャリティーの形を取り、新たなビジネスの立ち上げには向かって行かなかった。例えばシャンドゥカでは2つの慈善基金を持っている。その内1つは、国の酷い公共教育システムに対する治療法として作られたもので、学校を選抜して、資金の投資と専門知識の直接伝授をしようとする試みだ。このような仕事は緊急に必要だし賞賛に値する。そしてラマフォーサが私に言ったところでは、さらにそれを拡大しフリーステート州の450の学校で実施する野心的な提案をシャンドゥカは策定中だと言う。南アフリカ版レース・トゥ・ザ・トップ(Race to the Top:オバマ大統領の教育改革法案)だ。

しかしラマフォーサが、資金や訓練やメンターを提供して小規模および中規模の黒人ビジネスを「育成(incubate)」する事に注意を集中し始めるのは2009年までかかった。現在73人の建設業やサービス業を含む種々の業種に跨る新たな起業家がシャンドゥカ・プログラムに登録されている。「小さな事業さ、」彼は言った。「しかしこれ等は、広範囲にやればどんな事ができるかって言う、とても良い実例なんだ。」ここに来るまでに長い時間がかかったのは、黒人学校の不足、黒人の土地所有の禁止、町中の食品雑貨店(bodega)より大きな商売を黒人にさせなかった事など、白人が支配するシステムの欠陥だったんだと彼は言う。アパルトヘイト下の黒人は自分たちの労働力を売るしか無かった。それもとても安く。

「18年も経てばこの動きはもっと早くなるだろうか?」ラマフォーサは自問する。「私の答えはノーだ。我々の期待は高すぎる。教育を国民の心の深いところまで沈めるには1世代以上の時間がかかるだろう。」

「君たちの国は200年以上民主主義の歴史がある、」彼はつけ加えた。「私達はティーン・エイジャーだ。まだ成長途上さ。」

最も厳しい批判者に言わせれば、黒人経済強化プログラムは、アパルトヘイト資産家層からのペイオフ以上のものでは無いと言う。アパルトヘイト時代と同じ強欲なやり方を続ける一方で、権力を持った新しい政党との平和を金で購入したのだと言う。モエレツィ・ムベキは、「少数の非生産的だが資本家の仲間である黒人富裕層を作り出した事で、出現しつつある黒人起業家に破滅的な一撃を与えた」と言って黒人経済強化法を非難している。ラマフォーサは当然の事ながら、そのような評価は厳しすぎると考えている。しかしその非難の中には一抹の真実も含まれている。

今、おそらくは遅まきながらも形を成しつつある全国的コンセンサスは、段階的富の再配分は十分で無く、中小規模の黒人ビジネスが膨れ上がる大波となって生み出されるのに必要な起業家重視の環境整備を、政府は怠ってきたと言うものだ。

南アフリカの風土病とも言える基本的な不安感を超えて、気掛かりな自己評価に対する全国的熱狂が、マリカナで顕在化した不満と膨れ上がる腐敗に対する疑念によって火が付き、燃え上がっている(私が南アフリカに居た先月、腐敗を示す指標を元に各国を評価しているトランスペアレンシー・インターナショナルはこの国を格下げし、正直なビジネス環境の中で69位に位置づけた。以前は64位だった)。経済学者やビジネスマンは、南アフリカが「アフリカの入り口」としての地位をナイジェリアやケニアに譲渡しつつあると話している。リック・メネルや他数人の者から私が聞いた話では、殺戮事件以降、ジャイコブ・ズマ(Jacob Zuma)の現政権は初めて、法の支配および労使関係の破綻、貧困層への基本的サービス提供の失敗などについて、ビジネス・リーダーと座って話し合いを始めたと言う。

黒人ビジネス構築を新たに強調する行き方に対し、より過激な国家主義的方法を求める反対意見も盛り上がっている。その中には活動家のジュリウス・マレマ(Julius Malema)が要求する鉱山国有化も含まれている。しかしA.N.C.のマレマ派閥は現在、信用されておらず、与党内で発言の多い大衆迎合派、共産主義者、労働組合員は、黒人大立者に希望を託しているように見える。

私達が会った時、ラマフォーサは用心深いと同時に人を惹きつける魅力を持っていた。そして良い交渉者が共通して持っていると言われる、共通の評価基準を探り当てる習慣を持っていた(彼はマルコム・グラッドウェル(Malcolm Gladwell:ニューヨーク在住のカナダ人作家)を引用した)。彼は髪も髭も短く刈りそろえて、完璧に仕立てられた青の上着を着ている。組合の会合で演説したりデモ行進をしたりするよりも、取締役会とか外国の代理店とかを仕切っている方が似合っていそうだった。しかしそのような見方は南アフリカを見くびっているのだろう。インタビューの間、私の心は、数日前に29歳の女性とした会話を思い返していた。彼女はヨハネスブルグの東の外れにある、孤立した不法占拠者のキャンプでA.N.C.ユース・リーグの支部長を務めていた。彼女が私に語った話によると、南アフリカ救済者に成ると思われる人物は、ユース・リーグの過激派の誰でも無く、冷静で研究者肌でカリスマ性の無い元財務相トレバー・マニュエル(Trevor Manuel)だと思うと言う。それはまるで、シカゴで低所得者のハウジング・プロジェクトを取材していて、ベン・バーナンキ(Ben Bernanke)に対する大きな支持を発見したようなものだった。ラマフォーサが話している間にも、果たして南アフリカがこの社会不安を乗り越えられるのか、私は疑いを持たずにはいられなかった。

公平に言って南アフリカは実際に進歩している。この国は、かなりの量の黒人中間層を育てた。そして最貧困層の最低生活水準を改善した。しかし膨大な人々が最下層から動けずに留まり続けている。富裕層への経済強化策と、貧困層への社会保障の組み合わせは、単に生活レベルの大きな格差を作っただけで無く、大望を持つ力強い人々と、人に依存し絶望する人々の間に、文化的ギャップを作り出している。

現在最も勢力を伸ばしている政党はA.N.C.では無い。数年前より支持基盤を拡大したとはいえ、敵対する民主連合(Democratic Alliance:D.A.)でも無い。それは無投票者、幻滅者の党だ。トップのビジネス・エスタブリッシュメントから、悪臭漂う不法占拠者まで、あらゆる人から聞かされるメッセージは、盗人達やこれ見よがしな物質主義が、与党A.N.C.の道徳的基盤を犯していると言うものだ。若し私がこの2週間で聞いた話を単純な願望にまとめるとするならば、それはこんな風になるだろう。我々から解放のうたい文句を取り上げ無いでくれ。誰かこの忌々しい仕事を出来る人間を送ってくれ。

ネルソン・マンデラの後を継ぐと言う不可能な仕事を引き受けたタボ・ムベキはそれが出来る人間では無かった。権力の座に居る間にムベキが次第に孤立し、偏執狂的になり、独裁的になるに連れ、マンデラは自分の選択を苦々しく後悔する姿を知人に見せている。やはり鉱山労働組合のベテランでムベキが失脚した後の選挙期間中、暫定大統領として仕え、現在副大統領を務めるカレマ・モトランテ(Kgalema Motlanthe)は穏当ではあるが無力だと見られている。

2009年に選出されたズマ大統領は物笑いの種になった。汚職や同族贔屓が新聞の見出しを占めた。身内贔屓は既に弱々しかった政府各省の事務能力をさらに引き下げた。彼の元々の支持者であるA.N.C.ユース・リーグ活動家、共産党、労働組合は硬直的な官僚機構を代表している。近代化とか説明責任を求める普通の選挙民では無い。その上さらにズマは、部族主義の克服を誇る党にズールー民族主義と言う不安要素を持ち込んだ。そして彼の性生活は嘲りと嫌悪の両方を招きよせた。一夫多妻的結婚に不倫相手まで居て、その内の何人かは特別な利益の恩恵で生活している事に付け加え、レイプ訴訟に対して若い女性のスカートが短すぎると難癖を付けて退けた。無防備でセックスした後、感染を予防する自分なりの療法はシャワーを浴びる事だと開陳している。

シリル・ラマフォーサの批判者も賞賛者も、明らかに尋ねるであろう質問がある。上から下まで腐ったこのシステムを、果たして彼がどのくらい修正できるのかと言う質問だ。

「これはシリルが腐敗するかどうかと言う問題じゃ無い。」彼の友人、ジェイムズ・モトラツィは言う。「誰もシリルを腐敗させられないさ。だけど今や皆、シリルに注目している。ズマじゃ無くてね。今や再び期待値が高くなり過ぎている。」そして彼は付け加えた。「判るだろう。海にはサメがうじゃうじゃ居るんだ。」

ラマフォーサは腐敗を認識している。それについては、「ガンだ」とか「怪物だ」とか言って表現している。しかし同時に腐敗を「巻き取る」事は出来るとも言っている。私が特にズマについて、一番最近のスキャンダルでは政府の資産と特別な利益を自分の田舎の要害堅固な敷地に注ぎ込んでいると言うズマについて尋ねると、ラマフォーサは現在進行中の種々の公式捜査、おそらくは、そのまま続ける事は許されないであろう捜査を尊重すると言った。(南アフリカで最も効率的な対犯罪部隊、スコーピオンズとニックネームを付けられた部隊は、ズマやその他の政府高官にとって脅威になってしまい、解散させられている。)彼に言わせると、批判者に恩恵を与えて問題を解決しようとするような攻撃的自由新聞、強硬な反対政党、法執行機関が南アフリカに存在すると言う事実は、道徳的健康が損なわれつつある徴候だと言う。

私は彼に言った。彼の友人達は、彼がズマの側に立って政府に戻ることで信頼性が台無しになってしまうと考える人々と、彼には選択肢は無く、鼻をつまんで頭から飛び込む以外無いと言う人々の2つに分かれていると。彼は大きく微笑むと、これに対してインタビュー中唯一の「ノー・コメント」を答え、大声で笑い出した。

ラマフォーサが、後継者達の系図へ再登場した事は、彼が自分の中に葛藤を抱えているとは思っていなかった人々を大いに驚かせた。(「シリルは残念な人間たちとは離れたキャリアを選択してしまった。」ある主要紙の編集者はそう主張した。) オバマが時として世評に感じる嫌悪感と同じ様なものを、彼も持っている。彼が代理の仕事を戦い取るのでは無く、任命されるのを待っていると言う世評に対してだ。私達が会った時、ラマフォーサは、戦いを求めているような発言をした。「オバマの就任演説で私が好きな部分の1つは、」彼もボランティアをした2012年の選挙運動の後、「『民主主義は騒々しい混乱したものにもなりうる』と彼が言った部分だ。しかし民主主義はきちんと働く。そして私の考えでは、我々の民主主義も同じさ。我々の民主主義はとてもダイナミックで混乱していて騒々しい。」

準備できていようと無かろうと、既に人々の期待には息吹が戻り動き始めている。党の中でズマの代理として任命された事で、ラマフォーサは副大統領になろうとしている。(それは自分の富をある種の信用機関に任せる事を意味している。) 現在、確認されてはいないが、ある疑念が存在している。ズマが自分をある種、総理大臣的役割に落ち着かせようとしていると言う疑念だ。自分の周りを正直で有能なチームで固めて、新国家開発計画で説明されている改革の実施を始めるのだと言う。しかしより可能性が高いのは、おそらく次の2014年の選挙の前に彼は背任行為の疑いで引き摺り下ろされ、ラマフォーサがトップに残ると言うものだ。

これら全ては、魔法のような空想かもしれない。しかし南アフリカの若い民主主義は、耐久性としなやかさを持っている。かくも遠くまで来る事が出来た能力だ。南アフリカではあらゆる事が議論されてきた、その中には言語、人種、イデオロギー、階層を跨いだ合意が含まれている。おそらくこの国は準備が出来ているのだろう、最も強力な交渉者、他の何でも無い、充分な合意なる考えをもたらした男を向かえる準備が。

~~ここまで~~

次回更新は3月16日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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