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シリアにおける忠誠の代償

シリア情勢に関する記事をUpします。

記事を書いたのはロバート・F・ワース(Robert F. Worth)さんです。元記事はここにあります。

アサド大統領支持派の立場から見た記事です。

~~ここから~~

シリアにおける忠誠の代償

ダマスカスの近郊にあるメッゼ86として知られる場所は、シリア大統領バッシャール・アル=アサド(Bashar al-Assad)の顔を飾ったポスターが迷路のような山腹の狭い道に貼られている荒廃した密集地だ。大統領官邸はすぐ近くに存在し、重武装した護衛や兵士が練り歩いている。ここに入ろうと思ったら、土地の者に良く知られた人物か政府高官に同行してもらわない限り不可能だ。そしてこの土地の人間は、ほとんど全部がアサドの属するアラウィー派のメンバーである。5月のある静かな金曜日の朝、私はそこに車で入った。幾つもあるチェック・ポイントで何回も止められた。チェック・ポイントに詰めた若い兵士は、私たちを通す前に、提出した書類を注意深く検査した。ブロック造りの塔で縁取られた小さな駐車場の中にある目的地に到着して車から出ると、数人の作業着を着た中年男性が疑念に満ちた視線を投げてきた。「ここで外国人を見るのは珍しいからね。」私に同行していた男性の1人がそう言った。「反乱側はいつだってここを攻撃しようと企てる。誰がここに住んでいるか知っているからね。」彼はあまり遠くない場所の破壊された屋根を指し示した。「迫撃砲が直ぐ近くに着弾したこともあるんだ。私たちの上階にいた女性が1人殺された。直ぐ下でも1人死んだよ。」

多くのシリア人にとって、メッゼ86は恐ろしい場所だ。政権高官、およびシャビハ(shabiha)、あるいは「ゴースト」として知られる冷酷無比な民兵組織の要塞だ。彼らこそ、2年前のシリア人蜂起以来90,000人以上が死んだとされる拷問や殺害を実行した兵士たちだ。この辺りに住んでいる比較的年取った男たちは、1982年のハマ(Hama)の虐殺を助けたとされる悪名高い国防旅団の退役兵たちだ。ハマの虐殺では10,000人から30,000人が1ヶ月も経たない間に殺害された。それでもメッゼ86は現在、虐げられた殉教者の雰囲気を漂わせている。通りには戦死した兵士の色鮮やかに描かれた肖像画が並んでいる。あらゆる家族が、死んだ者、負傷した者、いなくなった者を抱えている。

私はイブティサム・アリ・アボウド(Ibtisam Ali Aboud)という名の女性に会う為にこの場所へ来た。彼女は、夫であるアラウィー人で退役軍人のムフシン(Muhsin)が2月に反乱軍に殺害された後、故郷から逃げてきた。イブティサムは50歳の女性だが、20歳は年長に見える。黒くて長い喪服の外套の上に乗った彼女の顔は、不安のしわが走る青白いカンバスだ。1人の息子が彼女に付き添っている。17歳くらいにみえるおどおどした感じの少年でジャファー(Jafar)という名前だった。私たちは家具の少ない汚れた部屋で話をした。髯を生やしたアラウィー人聖者の絵が壁に飾られている。「私たちは今まで、異なる宗派の人間と何の違いも感じたことはありませんでした。」イブティサムは私に言った。「今やあの人たちは、私たちを殺戮しようとしています。」夫を殺害したのは、アイハム(Ayham)という名の自動車修理工だと彼女は言った。アイハムはそのほんの10日前、同じテーブルで食事をし、直ぐ返すからと言って、何の気兼ねもなく彼女の夫から金を借りていたと言う。そのうち、誰かがドアの下へメモを滑り込ませてゆくようになった。「死ね、アラウィー人のカスめ」「出て行け政府の手先」。そして宗派間の殺し合いや誘拐が次第に増えて、ありふれたものになってゆく。ムフシンでさえ、危ういところで、民兵に捕まりそうになった。しかし彼は、アイハムがスンニ派民兵と一緒に行動していると妻が忠告した時、その忠告に従わなかった。「アイハムは友人だ。」彼は妻に言った。「ここはシリアだ。イラクじゃ無い。」ある晩、用事があって出て行った後、彼は二度と帰らなかった。次の日に夫の死体が家族の車の中に残されているのが見つかった。頭に弾痕があった。家族が営んでいた小さな自動車修理工場は数日後に焼き落とされた。ジャファーは家に帰る途中5人の男に取り囲まれたと言う。「もし出て行かなければ、俺たちはお前を細かく切り刻んでやる。」男たちは言った。「墓の中の親父の後を追うんだな。」

家族は故郷を逃げて首都近郊のメッゼ86へ移った。ここなら他のアラウィー人に囲まれて暮らせる。「私たちは標的にされているんです。」イブティサムは私に言った。「夫は何もしていません。退役軍人で、病院でボランティアをしていました。」今彼女は、4人の子供と暮らす狭い部屋の家賃がやっと払える程度だと言う。私たちが席についたテーブルの上のコーヒーカップが、鈍い砲弾の音と共に揺れた。私を彼女の元に連れてきた、やはりアラウィー人の兵士たちも、反乱軍にさらわれた隣人とか、殺された友人や親戚といった、自分たちの話を始めた。「あらゆる家庭でこんな話が聞けるだろう。殺された人間たち、誘拐された人間たち、それが皆、自分たちの宗派のせいなんだ。」彼らの1人が言った。「あいつらは、アラウィー人全部が金持ちだって思っている。何故なら俺たちがバッシャール・アル=アサドと同じ宗派だから。あいつらは俺たちが好きなときに大統領と話せると思っている。でも、俺たちの暮らしを見てくれ!」

その部屋にいる人は誰も口にしなかったが、彼ら自身も現政権の犠牲者であると言う感じが共有されているように見えた。血塗られた反乱が2年続いた現在でも、シリアの小さなアラウィー人コミュニティーは、この戦争の見えにくい主人公であり、その運命がアサドの運命と分ちがたく結びついている忠誠者の核であり続けている。最初の抵抗運動が2011年3月に発生したとき、アラウィー人指揮官は政権の突撃部隊を率いてデモ参加者を監禁し拷問し殺害した。そしてシリアを、他の民衆蜂起に見舞われたアラブ諸国とは別の道へと押しやった。アサドの諜報機関は、反政府側の主張する平和的改革を求めるメッセージを押しつぶし、宗派対立の恐怖を煽るありとあらゆる可能な手段を行使した。

しかしながら2年が過ぎて、宗派対立の恐怖は完全に根拠が無いわけでは無いことも明らかになっている。そして対立を煽るのにたいした努力が要らないことも。シリアのスンニ派とアラウィー派は何百年間も対立関係にあった。そして現在の戦争は史上最悪のもののリバイバルだ。反乱側の過激なジハード戦士たちは今や、シリアの宗教マイノリティーたちの根絶や追放を開けっぴろげに呼びかけている。ほとんどの局外者は、アサドが政治的生き残りの為に同族たちの恐怖を冷笑的にもてあそんだことに同意する。しかし、アラウィー人自身が今アサドをどう感じているのか、そしてスンニ・アラブ世界が実質的に彼らに戦争を宣言している状況で、どんな種類の未来を考えているのか、彼らに尋ねた人はほとんどいない。あるいは尋ねる機会があった人は、ほとんどいなかった。

「恐るべきは、今やあらゆる人間が自分たちの存在を守ろうとしていることだ。」ダマスカスの高名な聖職者、サイード・アブデュラー・ニザム(Sayyid Abdullah Nizam)は私にそう言った。「多くのマイノリティーにとって、あたかもこれは灯りを持たずに長い回廊に迷い込んだようなものだ。」

シリアに到着した4月のおわりのある日、私は首都が普段とあまりにも変って無いことに戸惑った。市場の屋台には新鮮な果物があり、オールド・シティーには買い物をする群集が溢れている。甘いリンゴの香りがするタバコの煙がカフェから漂い出ていた。しかしチェック・ポイントはあらゆるところにあり、平服を来た新国防軍のメンバーにIDをチェックされずには10ヤードと歩けなかった。表通りの心地よい雑踏の背後には、大砲の鈍い音が昼夜を問わず間歇的に起きる雷のように聞こえていた。しかし誰もそれには注意を払わない、そして、春の太陽の光のもと、数マイル先では人々が戦って死んでいるとは、とても想像し難かった。

私が戦争を見たのは、ダマスカスを出て北に向かうハイウェイに乗った後だった。家屋は焼き落とされ残骸しか残ってなく、形も判別できない。アサドと彼の部族の顔が描かれたポスターは撃たれてズタズタになっていた。最近数ヶ月でも最悪の戦いが何回か起きたハラスタ(Harasta)近郊を通り過ぎたとき、数百ヤード先の家屋が密集した場所から巨大な黒い煙の柱が立ち上っていた。車を運転していたアフマド(Afmad)という名の髪をボサボサにした若い男は、不安そうに何回も前後を見た。スピードメーターの針は時速90マイルを越えていた。私は古びたヒョンデがもつかどうか不安になった。「この辺りはすごく危険な場所なんだ。」アフマドは言った。「早く通り過ぎないと。」

郊外を過ぎるとハイウェイは戦闘に巻き込まれたホムス(Homs)の市街地をかすめて通り、西へ曲がる。そして地中海に面した山岳地帯にあるアラウィー人の心臓部へと向かう。この道こそ、バッシャールと彼に忠誠な者たちが首都を放棄した後、祖先から残された土地に縮小された国家を建設すべく通るであろうと、彼らの敵が夢想しているところの道だ。北へ進むにつれハイウェイ沿いの景色は緑を増し、戦争の痕跡はゆっくりと引いていった。頂に雪を載せた高山が西方に見える。そしてしばらくすると、青く輝く海面が視界に入ってきた。山にはオリーブや果樹が点在していて、ユウカリの香りが磯のにおいに混ざっていた。シリアのアラウィー人地域の首都、ラタキア(Latakia)はひなびた魅力をたたえた穏やかな海辺の街だった。街を取り囲む山々は長い間、このシリアにおけるマイノリティーに避難場所を提供してきた。そして第一次大戦直後のわずかな期間だが、フランスの保護の元に建国されたアラウィー人国家の一部となった。その事実がここに住む人々へ、この国とその歴史に対する、西洋のジャーナリストがあまり垣間見ることのできない独自の見解を与えている。私が、政権に忠誠を誓うアリアー・アリ(Aliaa Ali)と言う名の女性に会ったのはこのラタキアだった。彼女は27歳で、退役した軍高官とフランス語教師の娘だ。アリアーは大きな愛らしい顔をしていて、眉を寄せた表情が、意思が硬い気難しそうな印象を与えている。彼女は知的で、1年間イングランドへ留学していた経験もあるために、西洋がこの対立をどのように見ているか十分認識している。政府に忠実な多くの人間たちと異なり、彼女は自分たちの側の残虐さを認めている。そして時には警察国家的なシリアのあり方を恥じているようにさえ見えた。「私は最初、反体制側でした。」彼女は言った。「この国にはたくさんの変わらなければいけないものがあります。それは知っています。しかし事実として、この紛争は人々が考えているよりもずっと早くから暴力的な宗派間の対立に変わっているのです。」

アリアーが私に話してくれたところでは、2011年4月の始め、彼女が海岸沿いの道路を通っていた時、大きな爆発音と銃声を聞いたと言う。銃声は数分間続いた。9人のシリア人兵士が待ち伏せを受けて近くで殺されたのを知ったのは、自分が住むジャブレー(Jableh)の自宅に帰った後だった。最初の頃の記事は、脱走兵が上官に殺されたのであろうと説明していた。しかしそれを裏付ける証拠は出てこず、その場面を録画したアマチュアのビデオでみると、殺したのは反乱軍兵士のように見えた。アリアーと友人たちによれば、これは典型的なパターンにフィットしていると言う。西洋のメディアは反体制側の暴力行為を認識するのを拒否していて、政府側の犠牲を無視している。

その春の時点で反体制側は自分たちを宗派を越える包括的な運動だと強調してはいたが、宗派対立のレトリックはすでに忍び寄っていた。その頃はやったスローガンの1つは次のようなものだった。「我々はイランなどいらない。我々はヒズボッラなどいらない。我々は神を恐れる者を求めている。」この言葉は部外者には無害なものに見える。しかしシリア人にとっては、スンニ派が敵に対して叫んでいる言葉なのは明らかだった。2011年の夏を通して奇妙な風説が広がって行く。聖なるラマダン月の間、真夜中過ぎに金属を打ち鳴らして正しい祈りを唱えれば、アラウィーは消え去ると言うものだった。アリアーの家を訪ねた時、彼女は私をバルコニーの外に案内して近くの建物のテラスを見せてくれた。「あのテラス、見えるでしょう?」彼女は言った。「あの人たち、真夜中に金属を打ち鳴らしているのよ。父はベッドから出てきて叫んだわ。『黙れ!俺たちは消え去ったりしない!』って。」その後、私たちが階段を下りてゆく時、彼女は壁に書かれた丸にXのサインを指した。「あれは反体制派がターゲットに着けるマークなの。」彼女は言った。「あの家には政府高官の弟が住んでいるのよ。」

アリアーの弟、アブドゥルハミード(Abdulhameed)は私に、彼自身の宗派ショックを話してくれた。彼は23歳のアマチュアボクサーで昨年11月までエジプトに留学していた。アレクサンドリアの家で5人のシリア人の友人たちと暮らしていたのだ。ある夜、イラク訛りのある若い男が家の扉を叩き、アブドゥルハミードがシリア人かどうか訊いた。彼が、そうだと答えると男は去っていった。その夜遅く、一群の男たちが、宗派的罵声を叫びながら扉を壊そうとした。アブドゥルハミードと仲間たちは戦って彼らを追い散らした。「しかし一番悪い出来事はその後に起きたんです。」彼は言った。「数日後、フェイスブックに記事がポストされました。僕たちの正確な住所と一緒に、『こいつらはシリア人だ。イランやヒズボッラから金を受け取って、シーア派をエジプトに広めるために来ている。こいつらを殺せ』って書いてありました。」3人のシリア人は留学をあきらめて家へ帰ったと言う。

アリアーと彼女の友人たちは、反乱に対して中立的な目撃者のふりをするつもりも無い。彼らはデモが始まってからこの国で起きたほとんどの出来事に目をつぶる。大量の逮捕と拘束、拷問。平和的抗議をする人々数百人の正当な理由の無い殺害。私との会話の中で、彼らはシャビハと言う言葉を冷笑した。そんなものはでまかせだ。そして、最初の抗議運動につきまとっていた宗派対立をあおる風評は政府に責任があると言う話を、素直には信じなかった。それでも彼らが抱える問題の核には、感情的な真実があった。彼らは自分たちアラウィーに対して、怒りをあおり立てようとする者たちがいることを感じ取っている。そしてそういった怒りを解き放つことが、何か天啓のように感じられている。それは彼らが嘘の上に生活していることを示す兆候だった。

アリアーの親友、かつて親友だった少女は、ノウラ(Noura)と言う名のスンニ派だった。2人は1ブロックしか離れていない場所に住み、同じ学校に通い、一緒に弟妹たちの面倒を見ていた。宗派の違いは何の意味も持たなかったとアリアーは言う。彼女の友達はほとんどがスンニ派だった。「ノウラは言ってたんです。自分の最初の娘にアリアーって名づけるって。そして娘が生まれたら私のうちへジャスミンを届けるって。」彼女の見せてくれた写真のなかで、ノウラはふっくらした童顔の少女で、スカーフをゆるやかにまとっていた。アリアーはその隣に立ち、彼女の肩に腕をまわしている。2010年にノウラはとても宗教的な男と婚約する。アリアーの話では、その男はノウラに、映画にゆくのも短い服を着るのもいけないと言ったと言う。そしてスンニ派でない友人と付き合うのも許すつもりは無いとも。ノウラは直接アリアーの家へ来て彼女に話した。そして2人はアリアーのベッドに一緒に横になって、何ができるか話し合ったと言う。彼女は直ぐに婚約を破棄した。「彼女は言いました。『アラウィーは禁制だなんて考える男と暮らせないわ』って。」

最初の抗議運動が始まって直ぐ、アリアーは自分が聞いた反体制派の宗派的な掛け声についてノウラに話した。ノウラはそれを信じることを拒否した。翌月、ジャブレーで軍による弾圧が始まった時、ノウラは無実の反体制派が殺されたと言って絶望的になっていた。アリアーはノウラに、政府が自らの民を殺すなんて「理屈に合わない」と言った。ノウラは引き下がった。「たぶん私たちは違う物語を聞いているのね。」彼女は言った。しかしながら、彼女の家族が反対側の陣営へ深くのめりこんで行くにつれ、友情は揺れ動いていった。あるとき、2人が海岸へドライブに行った時、ノウラは突然言った。「もしスンニ派があなたを攻撃したら、私はあなたを守る。それはお互い様ね。」2人は一緒に笑った。「その時はその言葉は、まるで冗談みたいだった。」アリアーは私にそう言った。「私たちは本当にそんなことが起きるなんて想像できなかった。」アリアーはその年の夏、イングランドへ旅立った。その直ぐ後、ノウラの母親が誘拐され、2人の友人は話をすることを止めた。アリアーが私に話してくれたところでは、8月のある夜、アリアーが半分寝ていた時、ラップトップが鳴り出すのを聞いたと言う。ノウラがビデオ・チャットをかけて来ていたのだ。午前4時だったが2人は一時間ほどお喋りをして笑いあった。まるで何事も無かったかのように。「通話が切れた後、涙が溢れ出しました。」アリアーはそう私に言った。「まだ2人が、なんの違いも無かったかのように友達でいられることがとても嬉しかった。」

その直後、ノウラと彼女の家族はトルコへ逃れて行った。ノウラはフェイスブック上でアリアーを友達から削除した。しかしアリアーはノウラのフェイスブック・ページを毎日チェックし続けている。書かれていることは、反アサドの強い思いに彩られていてアラウィーに対する宗派的暴言が含まれている。ノウラはジャブレーから来たスンニ派の男性と結婚した。その男のフェイスブックにはアル・カイーダが使う黒い旗の写真が飾られている。5月中ごろ、ノウラはサダム・フセインを賞賛する長い文章をポストした。その文章の最後には次の1文がついていた。「いったいどれだけの人々が、シーア派やその類の異教徒たちの支配を『好む』と言うの?」アリアーはノウラの10代の弟、カマル(Kamal)のフェイスブック・ページを見せてくれた。そこにはその弟がカラシニコルを構える写真が載せられている。「昔はこの子を肩車して、クラッカーを食べさせてあげたこともあるのよ。」彼女は言った。

ノウラは今、トルコに住んでいる。私は彼女の叔母が国境沿いに開いている学校から電話で彼女と話をした。彼女はアリアーとの友情を認めた。しかし彼女の狂信的な信仰は直ぐに明らかになった。彼女は外国人ジャーナリストと話すことは夫が許さないと言った。それで私は、学校のディレクターである彼女の叔母、マハ(Maha)と話した。マハはアリアーの言ったノウラとの友情、およびジャブラーでの反乱の話のアウトラインを裏付けてくれた。彼女が私に、宗派対立的なのは政府だけだと話す時、その声は甲高く、ほとんど叫んでいるようだった。「反乱が起きる前、私たちは共に暮らしていて何の問題も無かった、」彼女は言った。「彼らは私たちに安心していたんです。何故なら、ハマの事件の前は、私たちが彼らに歯向かうなんて考えていなかったから。でも私たちが革命の道を選んで直ぐ、標的にされるのはアサドだけでは無く自分たちだって彼らは感じたのです。私たちは彼らに言ったのです。欲しいのは自由だけなんだって。しかし彼らは私たちの目の前で扉を閉めたんです。私たちと対話しようとしなかった。」マハは、対立を悔やむ考え深い女性のように私には見えた。アリアーと同じように。

しかし私がアラウィーの宗教について尋ねたとき、彼女の答えは私を戸惑わせた。「アリアーは素晴らしい少女です。」彼女は言った。「でもアラウィーに宗教はありません。彼らは信義にもとる人間たちなんです。十字軍と協力していたし、フランスが支配していた時はフランスの協力者だったんです。」

アラウィー人にとって御馴染みのこういった非難には人種差別的侮蔑が含まれている。約1000年前に始まったアラウィー人の信仰は、新プラトン主義とキリスト教、イスラム教、それにゾロアスター教の、異様な神秘的混合物だ。そしてそれには、預言者ムハンマドの義理の息子で従兄弟であるアリ(Ali)の再生と神聖化が含まれている。こういった非正統的教義が、十字軍やその他の外部勢力から、ムスリムに対抗する上で共闘できる勢力として好まれた。今日の強硬派イスラム主義の祖となる神学者イブン・タイミーヤ(Ibn Taymiyya)は1300年代初頭に宣言した。アラウィー人は、「ユダヤ人やキリスト教徒よりも異端だ。多神教信者よりも異端でさえある」と。そして良きムスリムは彼らを虐殺し奪わねばならないと扇動した。アラウィー人は山岳部に避難し、ラタキアにさえあまり現れなくなった。彼らの多くはオスマン・トルコ帝国軍に虐殺され、そのコミュニティーの一部は歴史上の幾つかの時期に絶滅の淵に追いやられた。歴史家のジョシュア・ランディス(Joshua Landis)によれば、1870年代という最近になっても、アラウィー人の山賊と思われる人々が串刺しにされ、警告として四つ辻にさらされていたと言う。彼らはシリアの封建的経済の端っこで絶望的貧困の中で暮らしていた。しばしば娘たちを、豊かなスンニ派の家族へ、奴隷的年季奉公に差し出していたと言う。

1936年、フランスがアラウィー人の海に面した国家をより大きなシリア共和国へ統合しようとした時、アラウィー人の著名人6名が再考を即す嘆願をした。「ムスリムで無い全てのものに対する憎悪と狂信は、アラブ・ムスリムの心臓に埋め込まれた精神であり、イスラム宗教によって永続的に育てられている」と彼らは書いた。「状況が将来変化しないという希望はどこにも存在しない。従って委任統治の廃棄は、シリアのマイノリティーを死と絶滅(annihilation)の危険にさらす。この廃棄が信仰と思想の自由を絶滅させることは言うまでも無い。」嘆願書の署名者の1人、スレイマン・アル=アサド(Sulayman al-Assad)はシリア現大統領の祖父だ。後にフランスがその構想を捨て去った後、アラウィー人はシリア・ナショナリズムの大義を大急ぎで許容する。そして自分たちのかつての分離主義を他の国民が忘れ去ってくれるよう多大な努力を続けている。

私はジャブレーのアリアーの家へ入るとき、その嘆願書のことを考えていた。家の居間の壁には、高いカラーにネクタイを締めた彼女の祖父の白黒写真が飾られていた。「祖父は1930年代にフランス語を勉強していました。」アリアーは明るく言った。そして急いで付け加えた。「その後、彼は独立の為に奮闘したんです。私はそう思います。」

私はアリアーに、反対側についたアラウィー人についてどう思うか質問した。例えば同じジャブレー出身の小説家のサマル・ヤズベクのような人物について。彼女はヤズベクの名前を聞いて落ち着かなくなった。「彼女には一度会ったことがあります。」アリアーは言った。「彼女は私に言いました、私の前には明るい未来があると。しかし私は彼女のような未来は欲しく無いのです。私の考えでは、反対側についたアラウィー人は、自分たちが道具として利用されていることを知らないのです。それか、あの人たちはこのジハード戦争を民主革命に変えることができると考えているのです。しかし彼らは決して成功しないでしょう。」

ヤズベクも又、革命の最初の頃、シリア国内にいた。反政府運動が始まった最初の4ヶ月の間、後に英語で、「A Woman in the Crossfire(十字砲火の中の1人の女性)」という題名で出版された日記によれば、彼女が反乱側への支持を表明した後、怒り狂ったキャンペーンが彼女に対して繰り広げられたと言う。彼女の家族は彼女の勘当を強いられ、ジャブレーでは彼女を貶める小冊子が配られた。ある時、彼女は政府機構との恐るべき邂逅をした。ダマスカスの自宅から連行された彼女は、尋問センターの1つにつれて行かれた。そして彼女は、激しく罵る尋問官に床に打ち倒されている自分を見つける。尋問官は彼女に唾を吐き、殺すと脅した。そして護衛兵は彼女に目隠しをし、政府が地下に設けた拷問室へ連れて行った。そこで彼女は、血まみれで半殺しにされた反体制活動家が天井からぶら下げられているのを見させられる。ある時点で尋問官は彼女に言った。彼女は「サラフィ・イスラム教徒」に騙されていると。そして仲間の元に帰るか死ぬかのどちらかだと彼女に言った。「我々は誇り高い人間だ、」彼は彼女に言った。「我々自身の血族を傷つけたりしない。我々はお前のような裏切り者では無い。お前は全アラウィー人の面汚しだ。」

現在パリに住んでいるヤズベクと最初に話した時、彼女は、アラウィー人コミュニティーはアサドの部族の最初の犠牲者だと私に言った。彼らは政府の権力を維持するための「人間の盾」として使われていると。「彼らは、アサドが失脚したら自分たちは虐殺されると言う政府のレトリックを信じています。」彼女は言った。「でもそれは真実ではありません。彼らは非常に恐れ、そして非常に困惑しています。」シリア国内の複数のアラウィー人も、静かにではあるが同じような指摘をしている。そう指摘することは、彼らにとって、はるかに危険なことであるにもかかわらず。しかし私が話した人々はこんな主張もしている。アラウィー人が騙されているかどうかは大した問題では無い、何故なら我々の宗派的恐怖は現実化しているのだからと。ラタキアで私はアラウィー人漫画家のイッサム・ハッサン(Issam Hassan)に会った。彼によれば、反体制派に同情していたアラウィー人の多くは、又逆の方へ戻ってきていると言う。「政府は平和的な抗議運動と戦うことはできないと知っていた。だから彼らを暴力へと追い立てたんだ。」彼は言った。「だけど今では、反乱側の暴力はあらゆる人を怯えさせている。それにメディアを見てみたまえ。アル・ジャジーラとシリア国営テレビは別々の側に立っている。しかし両方とも同じ終末へ突き進んでいるんだ。彼らは憎しみを煽り立てている。」

ダマスカスでのある暖かい火曜日の夜、私はバー808とよばれるクラブで古い友人に会った。そこは、街の流行を追う若者たちの最後の隠れ家で、反体制派に静かな共感をもつ人々に人気のスポットだった。私は人ごみをかき分けて進み、若いシリア人が踊ったり飲んだりいちゃついたりしている脈動する巣穴の中に入った。バーで待っていた友人のハレド(Khaled)は、汗臭い体で抱きついてくるとビールを注文した。彼は小説化でボヘミアン、白髪交じりのもじゃもじゃ頭とけたたましい笑い声の持ち主だ。しかしこの2年で彼はめっきり年を取った。私たちは共通の友人たちの話をした。そのほとんどは現在ベイルートやヨーロッパに散っている。「俺は革命をあきらめることができない。」ハレドは言った。「俺はダマスカスを離れない。」彼は若い女性に腕をまわすと、リタと言うその女性を紹介した。「ハレドはシリアに残っている唯一の楽天家ね。」リタは言った。反体制派について彼女に尋ねると、彼女は言った。「こんなことを言うのは恥ずかしいことだけど、反体制派は意味を失っているわ。今、彼らは単に殺している。殺人以外のなにものでも無い。ジハード戦士たちはカリフ国を口にしている。キリスト教徒は本当に怯えているわ。」そこで彼女はしばし黙った。部屋はアラブのポップミュージックで満たされている。「私は生きている間ずっとこの革命を待っていた、」リタは言った。「でも今は思っているの。たぶんこんなことは起きない方が良かったって。少なくとも、こんなふうにはね。」

反体制派は意味を失っている、それは政府も同じだった。アサドの部族はシリアを常に「鼓動するアラビア主義の心臓」でありパレスチナ大義の防波堤と定義していた。バース党はその精神を具体化する存在だった。そしてシリアのマイノリティーはムスリムが多数派を占める社会でアラブへの忠誠心を証明しようともがいていた。それは国内の気難しいコミュニティーを一つにまとめる接着剤だった。しかしシリアは現在、支配的な汎アラブ機構であり古くからある統一的イデオロギーであるアラブ・リーグから公式に除名されている。危機が勃発するまでリップ・サービスを繰り返してきたアラブ・リーグは今やあけすけに嘲っている。

ダマスカスの富裕な一角にある静かな小道で、ある高名な法律家が、壁に本が並んだ豪華な書斎で開かれる、彼と彼の友人たちの集まりに、私を招待してくれた。その部屋には柔らかい皮のカウチがあり、コーヒー・テーブルの上にはヨーロッパ製チョコレートが置かれていた。16画面あるビデオ・スクリーンは家へ近づく全ての道を監視している。ゲストの1人、シリア正教会(Syriac Orthodox)の司祭、ガブリエル・ダーウード師(Rev Gabriel Daoud)は黒いローブを着てアームチェアにゆったりと腰掛けていた。シリアのマイノリティーの話題が持ち上がった時、ダーウード神父は顔に怒りの表情を浮かべた。「マイノリティー、それは間違った名前ですよ。」彼は言った。「重要なのは人々の質であり量では無い。マイノリティーと聞いたら、小さくて弱いものを思い浮かべるでしょう。しかし私たちはこの国に最初から居た人間なんです。」反体制派と彼らが要求する自由に対して、ダーウード神父は皮肉な笑いを浮かべた。「彼らはフリヤ(hurriya)を求めていない。彼らが求めるのはホウリアート(houriaat)でしょう。」フリヤはアラビア語で自由を意味する言葉だ。ホウリアートはホウリ(houri)の複数形で、黒い瞳の処女を意味している。自爆攻撃者が天国で約束される報酬だ。

ダーウードは2人のキリスト教僧正の誘拐について辛そうに話した。2人の運命はまだ判っていない。「彼らはシリア人としての国籍はもっているかもしれない。しかし精神性は持っていない。」ダーウードは反乱側に対して言った。「私たちは自分たちの非宗教性に誇りを持っている。私たちはあんな野蛮人どもとは違う。」私がアラブのナショナリズムの話題を取り上げると、部屋にいるゲストの1人は顔をひきつらせた。「私たちはメソポタミア人だ。アラブ人では無い。」彼は言った。「アラブ人になりたいとも思わない。」

私はシリアのあらゆる場所でこの手の話を聞いた。ラタキアでは、合衆国で過ごしたことがある若いアラウィー人女性が、むき出しの人種差別的言葉で反政府運動について話した。「抗議運動は最初は良かったのです。しかし少しすると参加しているのは無教養な人ばかりになった。」彼女は言った。「まるで1967年にデトロイトで起きた暴動みたいに。彼らは失敗者のような人々、悪い人間たちです。合衆国の黒人のように。」こういった人々が言う「野蛮人(barbarians)」は、地方の貧困層であり、ほとんどがスンニ派であり、反政府活動のバックボーンを形成する人々、おそらくはシリア人口の半分を形成する人たちだ。

シリアの建国神話は分裂しつつある、しかし、どのように地図を引き直せば安定するのか、見極めるのは難しい。まだそうなってはいないが、戦局が不利になったら、アサドは海岸付近の山岳地帯へ引き下がるだろうという推測がある。その地方はダマスカスに比べれば比較的穏やかで静かだ。そして自足的でもある。しかしながらその地方の人口は戦争勃発以来、シリアの他の場所からの難民流入によって倍になっていると言う。幾人かは故郷の村へ帰ってきたアラウィー人だ。しかし数万人のスンニ派もやはり、海岸沿いのアレッポや他の戦争で引き裂かれた場所から逃れてきているのだ。街のホテルは、重いスーツケースを引っ張る中流層の人々で満員だ。より貧しい避難民は巨大なスポーツセンターでキャンプしている。彼らは混雑したテントの中、し尿の匂いと共に暮らしている。土地の情報省高官は私に荒っぽく警告した。「注意するんだな。あいつらの多くは自由シリア軍の人間だ。やつらそう言ってはいないが、我々には判っている。」かりにアラウィスタン国家(state of Alawistan)がいつの日か形成されるとしても、国内には反乱軍となるかも知れない者たちが数多く散らばっている。

バッシャール・アル=アサドの父親、ハフェツ(Hafez)は畑仕事を助けながら、山の中の2部屋しかない石造りの家で育った。大統領になってから彼は、自分の出自の話を好んで人に話した。1980年代シリアの社会主義経済がまだ黎明期にあった時、彼はある演説で話した。「仲間の農夫たちよ、今日以後、君たちの手の上には、もはやいかなる手も存在しない...君たちこそが生産者だ。君たちこそが権力者なのだ。」ハフェツの子供たちは宮殿で育ち、シリアの貧困層を理解することも気にかけることも無かった。2000年代初頭のバッシャールの経済改革はダマスカスに新しいレストランやナイトクラブをもたらした。しかし地方は貧困の中に深く沈んだ。2010年後半に私はシリアの農業ベルトを車で通ったことがあるが、5年に及ぶ旱魃と政府の無策による損害に驚かされた。多くの農夫は荒れ果てた農地を捨て、都市郊外のスラムへ移り住み、革命の発火剤として申し分ない存在へと変わっていった。

しかしシリア反乱軍の洗練さに欠ける顔には、また別の理由、より残酷な理由も存在する。ある夜、ダマスカスで私は33歳のコンピュータ・プログラマー、アミール(Amir)と言う名の男に会った。彼は非暴力抗議運動に当初から参加していた。「僕たちは抗議運動を3つの基本方針で始めたんだ。非暴力、外国の介入の拒否、そして非宗派対立だ。」夜の涼しい空気の中を歩きながら、アミールは英語でそう言った。「政府は抗議運動を狙い打ちにした。この3つ全部を放棄するまでね。」

私は彼に、まだ反乱を続けているのか訊いた。「監獄に2日間入れられたよ。」彼は言った。「拷問は受けなかった。誰にも酷いことも言われなかった。でもあれは僕にとって、」彼は言葉に詰まった。そして私の方を向いて言った。「ダンテがどういう風に地獄に連れて行かれて、そして戻るのを許されたか知っているだろう?あの監房は10メーター四方で152人が詰め込まれていた。地下2階にあった。通気口が無いんだ。いつも窒息しそうに感じた。彼らは公表してないシステムを持っている。最初の週はずっと立たされるんだ。昼も夜もね。そして数日間は壁に寄りかかれる。その次は座れる。立っている間は寝るのが怖いんだ。何故ならもう目覚めないような気がするから。何人かは数時間いただけなんだが、何日も何週間も入れられた人間もいた。僕には想像もできないやり方で拷問されている人間たちもいた。食べ物はパンが少しと、あとは水だけだった。でもそんなことはどうでも良かった。約30秒間、1日に1回だけバスルームに入れる。でも信じて欲しい、そんなことは気にもしなくなるんだ。何故ってあそこには文字通り死を宣告する人間たちがいるんだから。」彼は話を止めた。しばらく立ち止まった後、何故捕まったのか、私は彼に訊いた。

「葬式の通夜でロウソクを点したのさ。」彼は言った。

いったいこれは、こういう風にならなけらばいけなかったのだろうか?丁度10年前、現在政府と戦っている多くのシリア人は、バッシャール・アル=アサドを救世主のように見ていた。暴力沙汰から自分たちを遠ざけてくれる穏やかな人間だと。彼は一度として大統領になろうと思ったことは無い。彼の兄、バシル(Basil)が明らかな後継者だった。首が長くてぎごちない静かな男であるバッシャールが、ロンドンの眼科医学校から呼び戻されて後継者に指名されたのは、バシルが自動車事故で死んだ1994年のことだった。2000年に大統領になってからも彼は謎だった。シリアを別のコースへ導きたいと思っているらしい男、でも実際にはそんなことはしていない男。

この4月、私はバッシャールの古くからの友人の1人、マナフ・トラス(Manaf Tlass)と会い、この対立についてバッシャールの立場から見た話をしてくれないかと尋ねた。父親が30年間シリア国防相を勤めたトラスは、昨年7月に亡命するまでシリア共和国防衛軍の将軍だった。彼は子供のときからバッシャールを知っていて、何年もの間、彼の取り巻きの1人だった。私たちはある暖かい午後にパリのカフェで会った。時々ダンディーを気取るトラスは、青いシルクのシャツを着て、胸の真ん中までボタンをはずし、アビエイター・サングラスをかけていた。

トラスの話では、危機が勃発したその日、「バッシャールは私を呼び出して言った。『君ならどうする?』ってね。」2011年3月中頃のその日、南部の都市ダラーア(Dara’a)では、アサドの従兄弟である土地の保安長官が、壁に反政府の落書きを書きなぐった一群の若者の投獄と拷問を命令したことで騒乱が起きていた。トラスが私に話したところでは、彼はアサドに、自分でダラーアを訪れるべきだと言ったらしい。そして土地の保安長官の逮捕を命令すべきだと。他の者たち、その中にはトルコやカタールの指導者も含まれていたが、彼らもやはり同じような忠告をしたと言う。

トラスが言うには、彼はアサドに、危機を力では無く交渉で乗り切るべきだと主張し続けたと言う。そしてアサドの許可の下に、騒乱が勃発した街で市民グループと話し合ったと言う。時としてその数は300人にも達した。彼は人々の不満を聞き、土地の警察の腐敗だとか、水や電気の不足とか、その他の問題の可能な解決策をリストに書き留めた。彼は信頼できそうな土地の指導者を特定し、リストとその名前をバッシャールの側近へ送った。そしてその度に、土地の指導者は即座に逮捕されたと言う。

最終的に彼はマハルーフ(Makhlouf)家のメンバーと対決することになったと言った。マハルーフ家はアサドの一番近い従兄弟たちで、現在アサドに最も近い助言者だと言われている者たちだ。「非常に大きな意見の相違があった。」トラスは言った。「彼らは問題を安全保障の考えで扱おうとした。古いやり方さ。」彼はアサドに直接話そうとした。しかし彼の旧友は2週間の間、彼を遠ざけた。最後にやっと会えたとき、アサドはもはやトラスの助言に興味を持っていないことを明らかにした。「バッシャールは最初からこれが大きな危機だと言うことを知っていたのさ。」トラスは言った。「彼はこういった人々に対して、直感に従って行動することを決断していたんだ。」

5月のある日の早朝、私はアリアー・アリと彼女の弟と共に、彼らの祖先の町、アラウィー山岳地帯の後背地にあるドュレイキッシュ(Duraykish)へ車で向かった。道は海岸からヘアピン・カーブに沿って登って行く。やがて段々状に切り開かれた山々と果樹園からなる緑豊かで壮麗な眺望に出た。私たちは途中で止まって、町の戦死者を祭る新しいモニュメントを見た。堂々とした25フィートの大理石の石碑には何百と言う名前が刻まれていた。私たちは、アリアーの祖父にちなんで名づけられた山腹の狭い道の底に車を止め、家族の家へ歩いて登った。その家は100年は経っている古い石造りの家でセラミックのタイルで覆われていた。タイルは長い年月で幾つか剥がれ落ちている。アリアーの伯父、アメール・アリ(Amer Ali)が立って私たちを出迎えた。短く刈った灰色の髪をして厳しい顔つきをした50代の男性だった。彼は私たちを2階の、天井が高くて広い部屋へ案内した。その部屋には2箇所の開いた壁から太陽の光が降り注いでいる。十数人の人々が中で待っていた。

アメール・アリは、親族や配偶者を戦争で失ったという物語を喋らせるために彼らを集めていた。私は1人1人から話を聞いた。その人たちは、兵士、建設作業員、警察官といった労働者階級の人たちだった。私が判る限りにおいては全てがアラウィー人だった。幾人かはおそらくシャビハ民兵だったろう。もっとも誰一人としてその名は口にしなかったが。その内の1人、アディブ・スレイマン(Adib Sulayman)という名の中年の建設作業員は、自分の携帯電話を取り出し、息子のヤミン(Yamin)が反乱軍に連れさられた後に受け取ったメッセージを見せた。「我々は神の意志を実行し、お前の息子を殺した。もしお前がまだバッシャールと共に戦うなら、我々はお前の家へ行き、お前を切り刻むだろう。2度と我々と戦うな。」

頭を2度撃たれて、記憶の一部と聞く力の半分を失った20歳の男性は、傷が癒えたら即座に前線に戻ると言った。彼の父親は私を見つめて言った。「息子が殉教者となったら、私は息子を誇りに思うでしょう。私はもう50代ですが、私だって自分の命を捧げる準備は出来ています。奴らはこの危機の中、我々が弱くなっていると思っているかも知れないが、我々はなお強いのです。」

昼食の後、アリアーの伯父は家の周りを案内してくれた。壁にはアリの剣(Sword of Ali)がかけてある。刀身に詩が刻まれたアラウィー人の重要なシンボルだ。古い農機具も置いてあった。蛇を捕まえる杖とか、狩猟用ナイフ、1世紀くらい昔のカービン銃。いわばアラウィーの民の目に見える歴史だ。古代フェニキア人のアンフォーラ(両取っ手付きカメ)やヒズボッラの指導者ハッサン・ナスラッラ(Hassan Nasrallah)の額に入った写真もあった。

その後、アメール・アリは私を屋上へ連れて行ってくれた。そこから私たちは、彼の家族が数百年暮らしてきた町を眺めた。山々は午後の太陽の黄金の光を受けて輝いている。そこからは、石のアーチが上に掛かった古代の泉や、彼の先祖の1人が240年前に建てたモスクを見ることができる。アリアーはテラスの上で私の横に立ち、誇りで胸を一杯にしながら町を見下ろしていた。私は彼女に、シリア政府が繰り返す惨劇を西洋の人権グループが報道し続けていることを知って、どのように感じるか訊いた。その内の幾つかは、おそらく今、私たちが話したばかりのような人々によって行われているのだ。アリアーは視線を下げた。「ええ、ここでは惨劇が行われています。」彼女は言った。「惨劇が行われていることは決して否定できません。しかし私たちは自分自身に問わねばなりません。『もしバッシャールが失脚したらどうなるか?』ということを。それこそ勝利しか選択肢は無いと私が信じる理由です。もしバッシャールが失脚したらシリアは終わりです。そしたら、ここにいる私たちは皆、ニカブ(niqab)をかぶって暮らすか、」ニカブは保守的ムスリム社会で着られる全身を覆うヴェールだ。「それか死ぬか、どっちかです。」

そこから降りる前、アリアーの伯父は私に、屋根の中央、望楼の真下に据え付けられた、錆びた白い3脚を見せてくれた。「これは天体望遠鏡のためのものなのさ。星を見るためにね。」彼は言った。彼は雲ひとつ無い夕方の空を見上げた。そして山沿いに視線を下げ、シリア平野へ向けて山が切れる場所を見つめた。「でも我々はこれに狙撃銃を備え付けて、この場所から自分たち守ることも出来るんだ。」

~~ここまで~~

次回更新は7月13日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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