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シドニーの監獄時代めぐり

連休なので旅行記をUpします。

記事を書いたのはトニー・ペロテット(Tony Perrottet)さんです。元記事はここにあります。

オーストラリアの歴史と絡めた旅行記です。

~~ここから~~

シドニーの前科者の過去

良く晴れた日には、シドニーの忌まわしい前科者の過去など探さない方が良いかも知れない。

私はこの街の歴史的ウォーターフロントをぶらついていた。そこはロックス(Rocks)と呼ばれる場所で、囚人を強制労働させてミツバチ色の砂岩をくり抜き、元々の土地から一段下がった場所に造った道路だ。しかし、鎖で繋がれたギャング達を残酷に扱って、岩を砕いた場面を想像するのはとても難しかった。その場所は今、良く日に焼けたオージー達がアウトドア・レストランに群がって、新鮮な牡蠣を山盛りにした皿とランチボトルの白ワイン、ソーヴィニョン・ブランを楽しんでいる場所だ。空は青く澄み渡り、ユーカリの香りを含む微風が漂う中では、モダンで甘美なオージーライフは抵抗し難いものに感じられた。何だって私はキャットオーナインテイルズ(cat-o’-nine-tails:九本の縄をつけた鞭)で鞭打たれる囚人とか死刑台の上の死体とかを考えでいるんだろう?まるでマゾヒスティックな行動だ。

今日シドニーは、世界で最も住み易い街ランキングの上位に場所を占めている。その白い砂浜と活気のある港は依然として太平洋の楽園、60年代のカリフォルニアを思わせる場所だ。例えばボンディ・ビーチのような典型的リゾート地では、豪華なバーや、魅惑的アジアン・フージョン・メニューを提供するシックなウォーターフロント・レストランがあり、サーフボートを降りたら直ぐに店内へ入る事が出来る。1788年にジョージア朝の英国が、くず共の掃き溜めとして開いた街にしては大変な変わりようだ。ジョージア朝の当時、それは大胆な社会学的実験だった。オールド・ブライティーのスラム街から750人の軽犯罪者が250人の海兵と共に、後にファースト・フリートとして有名に成る船で送り出された。彼らは8ヵ月の航海を経て、殆ど探検されていない世界の果てへと連れて来られた。そうしてできたのが、ロバート・ヒューズが「破滅の海岸(The Fatal Shore)」で描いた最初の収容所だ。そこでは自然そのものが監獄だった。

私がシドニーの魅惑的な喧騒に埋もれながら思い出していたのは、シドニー大学でオーストラリア史を学んでいた時に聞いた事件の数々だった。その内の1つは船が着いて直ぐの事で、その当時でさえ、この地の無視し難い享楽的明るさを見せ付けるものだった。

1788年2月6日、男の囚人が到着して2週間後、最初の女囚が船から降ろされた。大混乱の始まりだ。女達が男の囚人達と混ざるようになって、寂しい海兵達もラム酒のビンを持ってボートで漕ぎ寄せた。女達も最初はちゃんと服を着ていたそうだ。

軍の看守達がイライラしながらキャンプの中で足止めされている間に、新たな植民地は抑制の無い「乱痴気騒ぎと大混乱」の巷へ落ちぶれ果てたと、船医のアーサー・ボウズ・スミスは書いている。敬虔な船医は恐れに駆られて書いている。暗くなっても熱狂は増すばかりだった。熱帯の雷雲に襲われて薮の中へと追いやられた囚人たちは、そこでまた浮かれ騒いだ。その荒々しい光景は、「あらゆる表現を超えている」とボウズ・スミスは日記の中で毒づいている。「何人かは罵り、何人かは言い争い、他の者は歌っていた。」小説家のトム・キニーリーが「盗人の連邦(A Confederacy of Thieves)」で書いたように、シドニー入植地は「撫でたり突っ込んだりして祝った」のだった。最初の白人のオーストラリア人がその夜、雷雲が鳴る下でもうけられたのは疑う余地が無い。

その創立の乱痴気騒ぎは、翌日に秩序が回復されるまでの僅かの間の祭典だった。囚人たちは奴隷と同様の労働に駆り出された。刑罰植民地の施設として、道路や農場、政府の建物を造る為、野生の土地を切り開いたのだ。それに続く数十年間、生活環境は、荒涼とした状態から地獄と同然の状態の間で揺れ動いた。この失われた世界で、囚人達は看守に残忍な扱いを受け、囚人たち同士でも傷つけあったりした。囚人はほんの僅かの食料を盗んでも縛り首になった。ちょっとした違反でもキャットオーテイルズの情け容赦の無い鞭打ちを受けた。

しかしその間に、自由な入植者達もやって来た。土地の使用許可と無料の労働力に惹かれて来たのだ。釈放された囚人たちも(彼らは通常7年の判決を受けていた)この生まれたばかりの国の住人となった。多くのものは豊かに成り、尊敬を集める地主と成った。シドニーへ向けた囚人船は1842年には取り止めと成り、オーストラリアの他の場所への囚人船も1868年には止んだ。その時までに大体16万8千人の囚人がやって来ていた。

最初の入植者達の痕跡がほとんどシドニーに残っていないとしても仕方が無いだろう。過去200年の間に市の中心部は、マンハッタンのダウンタウンと同様、完全に形を変えている。1970年代にシドニー郊外で育った私も同じような考えの持ち主だ。私にとって、残酷な国の歴史の中で、現実に手に触れられる物は、家族に伝わる記念品だけだった。「大きな矢印」が描かれた鉄の玉と鎖だ。その印は囚人社会を象徴するマークだった。それは余りにも良い保存状況なので、幼い私にも偽物に思えた。

今日シドニーは、過去を思い起こさせる廃墟や遺品の展示に、以前よりは努力するようになった。2010年夏、オーストラリアの囚人に関連する11の場所、刑務所の廃墟や以前政府が使っていた建物、およびハイウェーなどが、ユネスコの世界遺産に登録された。その内4つはシドニー市街地や近郊にある。それらは、その当時の他の遺跡の直ぐ近くだ。多くの場所は発見された時、なんの手も加えられていない状態だった。そういったこともあって、私はこの荒涼とした監獄時代に注目し、ジョージア朝時代の街を思い描いて見ようと思った。それは未だ、バーベキューでシュリンプ(海老)を焼いている人々が誰も生まれていなかった時代の出来事だ。(実はオーストラリア人はその海老をプラウンと呼ぶのだけど、それは又別の話だ。)その旅は、市中心部の有名な場所から始まり、遠く離れた無名の土地、今まで聞いたことの無い2つの場所へと私を導いてくれた。

その旅は、自分の周りを捜し回って歩かねば成らない旅だった。例えば、1788年の上陸の場所、酔っ払ったお祭り騒ぎの場所は、円形波止場(Circular Quay)にあるモダンなフェリー乗り場の直ぐ西に立っている小さな記念碑でしか無い。今日見られる海岸線は過去2世紀の間に約100ヤード海側へ移動している。しかしファースト・フリートが来た時にそこがどういう風に見えたか想像するのは驚くほど容易だ。その部分の海岸線は国立公園として保存されているから。

私は港の北側へと向かった。海岸に沿った6マイルくらいのハイキングコースがスピット橋からマンリー(Manly)の砂浜まで続いているのだ。スピット橋はモスマン(Mosman)郊外とシーフォース(Seaforth)を結ぶ橋だ。シドニーのビジネス中心街にあるオペラハウスからタクシーでわずか25分の場所にある。その道は連続した砂岩の突端を登り、赤いガムの木に縁取られた汚れのない砂浜へと出る。途中1時間ほどかけて通ったキャッスル・ロック・ビーチは、どちらを向いても何の文明の痕跡も捉えることができない場所だ。しばしば沖合いを通りすぎる船を無視すればの話だが。かつてその場所では、そのほとんどが英国のスラム街から来た軽犯罪者である囚人たちが、奇妙な植物を見て唖然としながら、エオラ・アボリジニの言う「ウェーラ!、ウェーラ!(あっちへ行け:Go away)」と言う声を聞いていたことだろう。エオラ・アボリジニは約4万年の間この島の自然の恵みを元に生き延びてきた。カンガルーを狩ったり、野生の植物を食べたり、魚を捕ったりしながら。その一方で英国人はジャガイモのような作物を持ち込んで育てようとして失敗し、ほとんど飢え死にしそうだった。

何人かの囚人は茂みを通って逃げ出そうとした。中国まで歩いて行けると考えていたらしい。そのほとんどは惨めに死んだか倒れそうになって帰ってきた。彼らは「ひどく汚れて痩せこけていた」とファースト・フリートの法務官デイビッド・コリンズは書いている。「死体は鳥の餌と成った。」1882年にヴァン・ディーメンズ・ランド(タスマニアのこと)で起きた有名な事件では、7人の囚人が基地から脱走し、飢えから人肉食までして、1人だけが生き残った。

シドニーの明るい中心部へ戻ってみて直ぐに気がついたのは、最も薄気味の悪い歴史遺産でさえ、今や恥ずかしくなるほど心地よい食事の機会を提供してくれることだ。ある日私は、フェリーを使ってフォート・デニソンへ渡った。港の真ん中にある岩の上に建てられた荒涼とした砦、かつてはピンチガット(Pinchgut)として知られていた場所だ。その名前は囚人たちが経験した悲惨な飢えから取られている。囚人たちはちょっとした違反でも鎖につながれてその場所に送り込まれ、わずかな食料割り当てに耐えねばならなかった。その悪名は1796年さらに悪く成る。フランシス・モーガンと言う名の囚人がそこで縛り首に成ったのだ。彼の死体は吊るされたまま、新入りへの警告として絞首台に放置され、腐るにまかされた。1841年以降、その島は植民地を守る要塞として作り変えられた。

今日では、オペラハウスやハーバー・ブリッヂを望んだ、絵葉書にも完璧な眺望ゆえに、フォート・デニゾン・カフェが建設され、風をさえぎる透明プラスチックに守られて食事が出来る。私はテンプラ・フィッシュ・アンド・チップスをかじりながら、かつての苦悩の場所から見られる幾つかの歴史的ホラー・スポットの美しい眺望を眺めていた。その中には、かすかに見えるゴートアイランドも含まれている。その場所は1835年、ボーニー・アンダーソンと言う囚人が、1200回の鞭打ちの後、2年間も裸で鎖に繋がれた場所だ。そこは荒くれものの入植者が手漕ぎボートで近づいて、肉のかけらを囚人へ投げて与える遊び場となってしまった。

この港には何ダースもの小さな島が点在していて、全てが囚人と関連している。かつては最も恐ろしい島だったコカトゥーアイランドさえ今は宿泊することが出来る。鮫がうようよしている深い海に囲まれた約14エーカーの島は1839年からこの国のアルカトラズ刑務所だった。違反常習者の為の、監獄内監獄だ。500人までの囚人が風通しの悪い小屋に毎晩押し込められた。1つのベッドに3人で寝ることもしばしばだった。夜ともなると鉄格子の向こうには、空気を求めてあえいでいる囚人たちが見えた。監獄は1869年に閉鎖された。その後その場所には造船所が建てられ、その造船所は20世紀初頭まで南半球最大のものだった。

1992年から無人と成った島は、徐々にアウトドア産業の博物館に姿を変えつつある。巨大な倉庫やトンネル、クレーン、広々とした土地を使って、しばしば大掛かりな美術品が作られたりしている。最近、島でキャンプをすることが許されるようになり、幾つかの歴史的住居、例えば造船所の管理人が住んでいた建物などが貸し出されるように成った。事情通のシドニー市民も、街の中心にある保養地として訪れるように成っている。「囚人地区(convict precinct)」と呼ばれる監獄の一帯は2010年世界遺産へ登録されており、私も二晩この島に泊まってみた。H20と言う名の水上タクシー会社が2人の友人と私を島へ連れて行ってくれた。船は富豪たちが屋敷を並べる眺めの良い海岸を通って進む。私達はコカトゥー・ドックから鉄製の階段を上って崖の上に登り、エドワード朝時代の魅力的な木造家屋に着いた。家には4つのベッドルームとバルコニーがあり、バルコニーからはハーバー・ブリッジが見えた。

暗くなってから、私はたいまつの光を頼りに廃墟の囚人たちに会いに出かけた。その場所は家の玄関から100ヤードほどしか離れてない場所だった。刑務所のバラック、守衛小屋、大食堂がほとんど当時のまま残されている。多くの窓にはまだ鉄格子がはまっていた。

2009年に考古学者がここで2つの独房を見つけている。それらは今では補強されていて訪問者が安全に入れるようになっていた。入り口にあった安全に関する注意書きを無視して、私は堀のような穴を飛び越え、暗い内側に入った。そこは19世紀の中ごろ、恐れをなした更正者の1人が、適切にも「生きるものの墓場」と表現した場所だ。そこで過ごす6ヶ月の刑期が何を意味するのかは、広く知れ渡っていた。光と人間との接触を奪われた囚人達は狂気の淵へと追い込まれた。

次の朝、私はワライカワセミの鳴く声で目を覚ました。私は、高い天井と木目の床の部屋に居た。窓にはレースのカーテンが掛かっていてワライカワセミが鳴いた庭には太陽の光が降り注いでいる。風に揺れるユーカリ越しに輝く海が望めた。恐るべき過去はあり得ない事に思えた。

騒がしい街の中心部には全ての囚人愛好家が見るべきアトラクションがある。ハイド・パーク・バラックだ。その調和の取れたデザインは、更正した犯罪者、フランシス・グリーンウェイの仕事だ。(彼は偽造犯として有罪に成った人間の内、紙幣に顔を載せた唯一の人物だ。古いオーストラリア10ドル紙幣に彼の顔が載っている。)この建物は1819年に男性囚人を収容する為に立てられ、後に孤児院、そして裁判所として使われた。建て替えの度に大量のガラクタを残し、それらは考古学者の金の鉱脈となっている。今日この橙色のレンガの大伽藍は博物館と成っていて、キャットオーナインテイルズや鉄の足枷が展示されている。庭の向かい側には、なくてはならないエレガントなカフェもついている。私が訪問した時、キュレイターのジェニー・ホワイトは、かつてシドニーで発見された中で唯一の、新品同様の囚人服を保管庫から取り出した。その服は荒いキャラコのチュニックで、薄いブルーのストライプがついていた。お尻の所にお馴染みの「幅広の矢印」が染め付けてある。その服は1979年の改装の時、彼がエアーコンディショナーのダクトを敷設しようとした際、床下の配管の間から見つけたものだ。彼は余りにも興奮したので、その服を着て、囚人の真似を装いながら建設現場を走り回った。

こういった偶然の発見は今でもシドニーでは起きている。最初の囚人が建てた埠頭の遺跡が見つかったのは2010年、現代美術館のガレージの下からだった。1994年にはロックスで建設作業員が、1790年代に遡る30軒の囚人時代の家の基礎を発見した。それは稀にしか見つからない物だ。その場所からは現在までに75万点の家財道具が発掘されている。2009年、発掘現場がよく見られるように4階建てのユースホステル、シドニー・ハーバー・ホテルが近辺に建てられた。近代都市と考古学をいかに協調させるかを示す新しい方法だろう。

最も人気のあるランドマークでさえ驚くような場所がある。ロックスの裏側、ミラーズ・ポイントの静かな裏通りで私は、シドニーで最も古い2つのパブを訪れた。両方とも頑丈な砂岩のブロックを使って囚人が建てたものだ。1軒はロード・ネルソン(1841)、もう1軒はハロー・オブ・ウォーターロー(1843)。私は不良学生時代に2番目のパブのオーナー、イワン・デルソンに地下のセラーを見せてもらった事がある。そこには囚人時代、台所があって、天井は荒打ちの漆喰でできていて、独房までがあった。彼の信じるところでは、独房は囚人を閉じ込めるのに使われたのだと言う。そこには又、石の排水口があり、パブに伝わる伝承では、ドックへ繋がるトンネルとして、新入り乗組員を船に連れ込むのに使われたと言う。彼らは、可哀想な犠牲者を薬で眠らせたんだとイワンは言った。彼はまるでそれが自分の記憶であるかように嬉しそうに笑っていた。「ここから波止場へそいつらを密かに運び出すのさ。」

しかしながら、最も印象深い遺跡はシドニー北西の郊外に残っているグレート・ノース・ロードだ。その道は全部、いわゆるアイロン・ギャング達によって作られたものだ。アイロン・ギャング達は常習犯の集団で、狭苦しい木の皮の小屋で寝かされ、飢餓的な食料割り当てで生き延びながら、162マイルの長いハイウェーを掘った人々だ。全てが完成するまでに1826年から1836年までかかった。その間、どれ程の囚人が死んだかは判らない。今日でも、5マイルの区間が手を付けずに当時のまま残されていて公園となっている。市中心部から車で90分の所にあり、現在では豊かなオーストラリアの茂みを通る歴史的散歩道だ。

砂岩の断崖が多いこの大地は今日でも荒々しい景観を保っているが、オーストラリア人の言う「釈放」の国を少しばかり感じさせてもくれる場所だ。私は、ホークスベリー河を、乗客の少ないフェリーで越えた。それはこの静かで辺鄙な土地へ行く唯一の選択肢だった。そして穏やかな村、セント・アルバンスに立ち寄った。そこの寂しげなパブのオーナーは、目をぎらつかせながらスコーンと紅茶をくれた。まるで私が数十年で始めての訪問者であるかのようだった。道端の目立たない門がグレート・ノース・ロードの残余部分への入り口だ。私はそこから険しい丘を登るハイキングを始めた。トカゲが日の光の下、目の前を横切っていった。

私はハイウェーで1人だった。ハイウェーは手付かずの茂みを通り、ホークスベリーの素晴らしい眺めを提供してくれた。ここから囚人達が立ち去ったのは、まるで昨日の事のようだった。私は道に面した岩の上に、昔からあったらしい落書きを幾つか見つけた。矢印とイニシャル「JB」。そして見事に造られた石の壁と側溝、まるでジョージア王朝風のアッピア街道のようだった。あちこちに奇妙な鉄の破片が落ちている。それらは昔からのものかも知れないし、そうで無いかもしれない。ハイキングコースのハイライトは、首吊りの洞窟(Hangman’s Cave)と呼ばれる30分は続くだろう奇妙な石の列だった。砂岩の厚い板が道の上に張り出した場所には、所々丸い穴が開いている。伝説では悪漢がここで行政官に裁かれ、有罪だった場合、木から吊るされて穴に落とされたのだと言う。近年の歴史学者はそれを裏付ける文献を発見していない。しかしそれがただの作り話かどうか誰にも判らない。

たぶん、事実と伝説のブレンドが常に囚人物語の一部なのであろう。シドニーに戻ってから、私は家族の遺産の重たい鉄球と鎖を、ハイド・パーク・バラックスへもっていった。それが本物かどうか鑑定してもらう為だ。キュレイターは詳細に眺めた後、あり得ない話では無いと言った。しかしながらもっと可能性が高いのは、これが歴史上の先駆的観光業時代のものだと言う話だ。オーストラリアの最後の囚人コロニーが閉鎖された1860年代後半、ヴィクトリア朝時代の旅行業者は、オーストラリア歴史のおどろおどろしい話を好んで取り上げた。そしてタスマニアの囚人コロニーに居る「古い囚人達」が鉄球と鎖をお土産品として作ったのだと言う。

この可能性はキュレイターを興奮させたようだ。まるで私の遺産が本物であるかのように興奮していた。私は観光産業史の本物のかけらを持っているわけだ。鉄球と鎖は今、ニューヨークで扉止めとして誇り高き位置におさまっている。

~~ここまで~~

次回更新は7月20日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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