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ツイッター経営は何でもありのバトルロワイヤル

シリコン・バレーでの起業に関する記事をUpします。

記事を書いたのはニック・ビルトン(Nick Bilton)さんです。元記事はここにあります。

ツイッター草創時の内幕を描写した記事です。
原題のAll Is Fair in Love and TwitterはAll Is Fair in Love and War(恋と戦争は何でもあり)からのもじりです。

~~ここから~~

恋とツイッターは何でもあり

サンフランシスコ金融街近くにある広々とした楕円形の草地、サウス・パークの真ん中に古ぼけた遊び場がある。そこに設置された滑り台や梯子やのぼり棒は、皆、どこかしら凹んでいて煤けていて、茶色のつっかえ棒で支えられている。それでもシリコン・バレーの多くの人間にとって、この遊び場は聖なる地だ。伝説に従えば2006年、そよ風の吹くある日に、2人の同僚とブリトーを注文したジャック・ドーシー(Jack Dorsey)が、黒いセーターと緑の丸帽子の格好で滑り台に登りながら、シナイ山に登ったオタクのモーゼみたいに、ユーザーが自分の状況をアップデートしながら今何をしているか他人とシェアするというインターネット・サービスのアイデアを説明した場所だ。「あそこにあるあの遊び場こそ、僕が最初にアイデアを思いついた場所さ。」今やディオールの白いドレス・シャツとあつらえのダーク・ブレザーがユニフォームとなったドーシーは、今年の初めCNBCでそう語っている。

「ツイッターのアイデアですか?」インタビュワーが彼に尋ねた。

「そうさ」ドーシーは答えた。

シリコン・バレーはアイデアに困る場所では無い。あらゆるコーヒー・ショップ、ビア・ガーデン、テクノロジー・カンファレンスにはスタート・アップを設立した人間の大群がいる。彼らは台本を握り締めたスクリーン・ライターみたいに、次の大当たりと自らが信じるアプリとかサイトとかを、見せたくてしかたが無い人間たちだ。それでもだいたいスタート・アップの75%は失敗する。たいていの場合それは、単にアイデアが悪いわけでは無い(中には本当に悪いのもあるが)、むしろ別の問題が大き過ぎたのだ。すこしばかり早すぎたとか、あるいは遅すぎたとか。大金を集めすぎてその重さでつぶれてしまったものさえある。たいていは生き残りの為に必要な資金を集められないでつぶれる。そうで無ければ、会社を実際に経営した経験を持たない設立者たちが、仲たがいしたり、不味い経営をしたりしてつぶれてゆく。

上手くやった人間たちにとっても、成功はしばしば大量の幸運に支えられている。ユー・チューブが17億ドルでグーグルに買収された時、同社は何ダースも存在したビデオ・シェア・サイトの一つでしかなかった。インスタグラムはiTune上で写真を共有する最初のアプリでは無い。それでもフェイスブックは10億ドルを同社に払った。ツイッターは、状況をオンラインでシェアする最初の場所では無かった。しかし同社は確かに最も幸運ではあった。有名人がこのサービスに参加した。そして女王が参加し、その次は大統領が、ニュース組織が、そしてもちろん、ジャスティン・ビーバー(Justin Bieber)が参加した。設立されてから7年後、キャッチーな名前を持った同社は、2000人を雇用し、2億人のアクティブなユーザーを持ち、市場価格は約160億ドルと見積もられている。ツイッターが最初に株式を上場した時、多くの共同設立者、従業員、投資家は、非常にリッチになった。初年度に会社の資金をポケットマネーから出した共同設立者のエヴァン・ウィリアムズ(Evan Williams)は10億ドル以上得たと推計されている。会社のエグゼクティブ・チェアマンで立案者とされているドーシーは数億ドル得ただろう。

しかしシリコン・バレーで幸運というと、より陰険な何ものかを遠まわしに表現している可能性もある。ツイッターは正確にはサウス・パークの遊び場で考案されたものでは無いし、ドーシー単独のアイデアで無いのも確かだ。事実としてドーシーは、サイトがテイク・オフする前、ツイッターに最も大きな影響を与えたと主張しうる共同設立者の一人を追い出している。そして後に自分自身も、静かに会社を追い出された(その時点で彼は密かに、最大の競争相手に移ろうとしていた)。しかしながら、正に幸運なことに、ドーシーはツイッターにまつわる物語をつむぎ出し、その物語に非常な説得力があったために、同社が成熟した会社になる直前に権力を取り戻すことができた。そしておそらく最も幸運だったのは、ツイッターを、ただのぼんやりとしたアイデアから数十億ドルの大企業に変えたのは、いったい何だったのか、今に至るまでほんの数人しか知らなかったという事実だ。

シリコン・バレーにおける創生の物語が持つ重要性は、しばしば大き過ぎる傾向がある。スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)はリード大学をドロップアウトし、世界を旅し、ジョーン・バエズ(Joan Baez)とつき合い、そして革命的コンピュータ会社の設立に参加した。マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)はハーバード大学の寮で、女子の魅力をランク付けしながら、ファイスブックの最初のコードを書いた。シリコン・バレーで、こういった物語は「神話の創造」と呼ばれている。なぜなら、本当の物語をベースとしながらも、こういった話は、テック・カンパニーを設立する時に起こる裏切りとか混乱とかを排除してくれるからだ。そして全ての創生の物語が何かしらの誇張を含んでいる中でも、ツイッターの物語は、珍しいほど多くの誇張された物語がつぎはぎされて出来ている。

2005年、ジャック・ドーシーは、ニューヨーク大学をドロップアウトした29歳で、自分の電話番号を前面にプリントしたTシャツに鼻ピアスという格好を好む人間だった。アルカトラス・ボートツアー会社の為にプログラムを書く仕事を3ヶ月した後、彼はサンフランシスコの小さなアパートに移り住んだ。そして靴小売業を営むキャンパー社の仕事を断られたばかりだった。

彼の幸運は、ある朝、サウス・パークの外にあるカフェ・セントロに座っていた時に訪れる。イヤホーンでパンクロックを聴いていた彼が、視線をラップトップから上げると、自分と同じ位の年齢の男を見つけた。当時33歳のエヴァン・ウィリアムズはサンフランシスコのテック・シーンでちょっと知られた存在だった。数年前、彼は自分が共同設立者となったウェブ日記サービス、ブロッガー(Blogger)をグーグルへ数百万ドルで売却している。ブログという言葉そのものも彼が広めたものだ。今、ウィリアムズはブロッガーで得た資金の一部を、ポッドキャストを作る新しい会社、オデオ(Odeo)に投資していた。オデオは彼の友人で隣人のノア・グラース(Noah Glass)と一緒に立ち上げた会社だ。埃くさいロフトにあるオデオの本社は、たまたまそこから角を曲がったところ、サウス・パークから1ブロック離れた場所にあった。ウィリアムズは立ち寄ってコーヒーを注文した。

子供のころドモリで苦しんだ内気なドーシーは、自分を他人に売り込むのが苦手だった。それで彼はコンピュータの中の自分の履歴書を開き、キャンパー・シューズで働く意向を示す記述を全て削除し、ウィリアムズのe-mailアドレスをオンラインで検索して、オデオで雇ってくれないかとメッセージを送った。オデオへの投資で同社のC.E.O.になっていたウィリアムズは、直ぐに彼を面接した。スタンフォードの卒業生から好かれる扇動家で、共に大学をドロップアウトしたウィリアムズにグラースと、鼻ピアスをしたモジョモジャ頭のドーシーは、完璧にフィットする組み合わせのようだった。彼は直ちにフリーランスのエンジニアとして雇われ、全く継ぎ目が判らないほど溶け込んだ。しばしば同社が毎週選ぶ「Getting [expletive] done(一発やってのけた)」賞を勝ち取り、仕事のあと同僚たちと、中でも特に、グラースと一緒に出歩いた。しばしば2人は仕事の後に、街中でバイクを乗り回したり、ライブのミュージック・ショーに行ったり、夜遅くまで、だいたいいつもテクノロジーの話をしながら、飲み歩いた。ドーシーとグラースは直ぐに離れがたい仲になった。

シリコン・バレーで活動する多くの企業人と同じように、グラースも、自分の個人生活と仕事との間に明確な線を引かない人間だった。社交場の集いとオフィス・ミーティングは区別がつかない。そういった会合にはテクノロジー業界で働いたことも無い妻や夫が居て、MySQLデータベースに関するお喋りとかにつき合わされた。こういった境界線の無いやり方はオデオ草創期には機能していた。しかしそれも、アップルがiTuneにポッドキャスト機能を追加すると発表してから怪しくなってきた。オデオの機能は一夜にして余分なガラクタになったのだ。2005年の終わりごろになると、会社の将来に対するウィリアムズとグラースの見解は別れ始めた。決断が遅いことで知られるウィリアムズはオデオ社を畳むべきかどうか推し量っていた。一方でグラースは、会社を何か新しいものに変貌させるべく、従業員からアイデアを吸い上げることに腐心していた。グラースが感じるストレスは、その頃、結婚が破綻しつつあったことで、さらに増しているように見えた。

2006年2月も終わりごろのある夜、午前2時、ドーシーは駐車場に停めたグラースの車の中で、雨がフロントガラスを流れ落ちて行くのを見ていた。二人はウォッカとレッドブルを飲み明かした後で酔いを醒ましていた。しかし話しているのは、いつもの様に、オデオについてだった。ドーシーは何の気なしに自分の考える出口戦略を口走った。「俺はもうテクノロジーの仕事をやめてファッション・デザイナーになろうかと思うんだ。」グラースはドーシーがそう言ったのを覚えている。彼はまたヨットで世界を回りたいとも言っていた。グラースは言い返した。本当はこの仕事から完全に離れたいなんて思って無いだろう。違うか?「他に何か興味を持っているものを言ってみてくれ、」彼は言った。ドーシーは、人々が自分の現況を他人とシェアするウェブサイトのことを話した。どんな音楽を聴いているとか、何処に居るとか言ったことだ。ドーシーの考えでは人々はそれを使って、自分たち自身の単純な細かい話を放送するのだ。例えば「公園に行く」とか「寝てる」とか、そんなことを。

グラースはドーシーの言う現況を共有するアイデアを前にも聞いていが、その時はあまり感心しなかった。そのアイデアは、もう10年も前からあるAOLのインスタント・メッセンジャーで「外出中」メッセージを送るのと比べて、そんなに大きな前進とは思えなかった。それにグラースの見るところ、そのアイデアは他のスタート・アップとあまりにも似ているように思えた。例えばドッジボール(Dodgeball)と呼ばれるサービスがある。そのサービスは携帯電話を使って自分の今いる場所を、簡単な注意書きと共に、共有するものだ。

グラースが後で話してくれたところでは、彼はドーシーの話を聞きながら窓の外を見ていた。そして自分の破綻しつつある結婚生活と、自分が今、どれくらい孤独を感じているかを考えていた。そして彼はひらめいたのだ。この話は、単にどんな音楽を聞いているかとか、どこに居るかとかをシェアすることでは無いんだ、と彼は考えた。これは会話になるんだ。これは、誰かに報告するとかいった話じゃ無い。繋がることなんだ。ここには本当にビジネスチャンスがあるかも知れない。こんなサービスがあったら、確かに使いたいかも知れない。夜アパートで一人で居る時とか、オフィスで一人で居る時とか、車の中で一人でいる時とか、オンラインから漏れ出してくる一定の会話の流れがあれば、孤独を癒されるかも知れない。2人はしばらくの間、ブレーン・ストーミングをした。そしてドーシーが車から出てゆく時、グラースは言った。「明日、エヴや仲間とこれについて話そう。」

翌朝、2007年2月27日、ドーシーとグラースはオデオのカンファレンス・ルームに入り、このアイデアについて、ウィリアムズと、そしてオデオの同僚でブロッガー時代からのウィリアムズの友人であるビズ・ストーン(Biz Stone)と話した。ウィリアムズとオデオのエグゼクティブたちは、「グループス(groups)」と呼ばれる似たようなアイデアに、もう数週間取り組んでいた。そのアイデアでは、人々は友人たちとオーディオ・クリップみたいなものを通して会話する。しかし昨晩話したアイデア、友人たちと繋がるために状況をアップデートするというアイデアの方が良さそうだった。グラースは直ぐにこのプロジェクトの指揮を執り、このサイトがどのように動くか、ガイドラインや特徴を並べ挙げた。彼は幾つか不可欠な要素を付け加えた。例えば、いつアップデートがシェアされたかを示すタイム・スタンプとかだ。ストーンはデザインを考え始める。ドーシーはもう1人のプログラマー、フロリアン・ウェーバー(Florian Weber)とコーディングを始めた。ウィリアムズは、流れの中で過去のメッセージが見えるように、ブログのようなテンプレートを要求した。

直ぐに、どんな名前にするかという問題が持ち上がった。ウィリアムズは冗談めかして、このプロジェクトを「フレンド・ストーカー」と呼ぶことを提案したが、気味が悪いので即座に却下された。グラースは命名問題に集中することにした。紙の辞書を、ほとんど一語々々繰りながら、適切な名前を探した。ある日の午後、アパートで一人いた時、携帯電話へ手を伸ばしてサイレント・モードに変えると、携帯電話はバイブレーションした。彼は「Vibrate」という単語を思い浮かべたが、直ぐに打ち消した。しかしその単語から「twitch(痙攣)」と言う単語が浮かんだ。彼はそれも捨てた。しかし辞書の「Tw」で始める部分を捜し始めた。twist、twit、twitcher、twitchy、そしてそれは、そこにあった。彼は言葉の意味を、声を出して読み上げた。「ある種の鳥が上げる明るいさえずり声」。これだ、彼は思った。「動揺や興奮、身震い」。その言葉がツイッター(Twitter)だった。

数週間後、何回かの会議やスピンオフ・アイデアのプレゼンテーションを経て、ウィリアムズはグラースとドーシーのコンセプトをさらに先へ進める決断をした。「我々の新しいプロジェクトの中で、私が最も力強さを感じているのはツイッターだ」ウィリアムズは、グラースやその他のオデオ・エグゼクティブへ送ったe-mailにそう書いた。「たぶん、もっと話し合わなければいけないし、私の考えも変えるかも知れない。でもこの時点で決断する必要があると思う。今現在私はツイッターに強く惹かれている。」この時点でまだオデオのジュニア・メンバーだったドーシーは会議やe-mailに含まれて居ない。しかし彼は直ぐに、新たなツイッター・チームの重要なエンジニアになった。そして2006年、ドーシーは最初のツイートを送り、直ぐにストーンとグラースにフォローされる(最終的にドーシーは、ツイートを、携帯電話のテキストメッセージの最大文字数である160文字に制限することを決断し、それは後に、さらに少ない140文字になった)。

新しいサービスが進化してゆくなかで、すでにオデオの中で沸騰していたウィリアムズとグラースの権力争いがツイッターに移ってきていた。離婚で傷つき、自分の新しいアイデアを守ることに汲々としていたグラースは、次第に猜疑心を募らせるようになっていく。下っ端の従業員が間違えて、有名なテック企業家をサービスに入れてしまった時、グラースは長々とした叱責を始めた。「こいつは俺たちの敵なんだ。」彼はスタッフの前で怒鳴った。「俺たちには戦闘地図が必要だ。あいつらは攻撃してくるぞ。」彼は又、ドーシーを脇につれて行き、ウィリアムズが自分を追い出そうとする恐れがあると、告白している。

グラースも知らなかったのは、彼を追い出そうとしていたのはドーシーだったことだ。その理由はおそらく、ドーシーが自分の立場の弱さを感じ取っていたため、そして又、グラースは状況アップデーターのアイデアがドーシー一人のものでは無いことを知っている唯一の人間であったためだろう。理由はどうあれ、ドーシーはちょっと前にウィリアムズと会って、グラースを追い出さなければ自分がやめると脅していた。ウィリアムズにとって、この決断は容易だった。ドーシーは今やツイッターのリード・エンジニアであり、一方、グラースが抱える個人的問題は彼の判断に影響を及ぼしていた(一時期、会社の一部分は、完全にグラースのIBMラップトップの中に存在していた)。オデオの取締役会にかけた後、2006年7月26日午後6時頃、ウィリアムズはグラースを誘ってサウス・パークへ出かけた。緑色のベンチに座ったウィリアムズは古い友人に最後通告をした。退職までの猶予期間として6ヶ月、そしてオデオ株式売却可能期間として6ヶ月を与える。受けなければ彼は公式に解雇される。この決断は自分一人で決めたとウィリアムズは言った。

その夜、気落ちしたグラースはドーシーと近くのクラブへ行き、真夜中過ぎまで飲んだ。バーで次の飲み物を注文しに立ち上がった時、グラースはその日の苦々しい出来事を告白した。ドーシーは絶句した振りをしてウィリアムズを罵った。お開きにした時、グラースは友人を抱きしめてから歩いて家へ帰った。2週間後、彼は自分が設立者の一人だった2つの会社から追い出される。ドーシーは直ちにツイッターのチーフ・エグゼクティブになった。

スタート・アップの設立者が自らを「企業家(entrepreneurs)」と名乗るのは、シリコン・バレーにおける最も奇妙な習慣の一つだ。会社を作れそうなアイデアを思いついた人々は、むしろたいていの場合、ビジネスの進め方とか利益の出し方を理解していない。それ故に、アイデアを持った企業家と、資金を提供するベンチャー・キャピタリストの関係は悪くなりがちだ。インスタグラムの共同設立者、ケビン・シストロム(Kevin Systrom)は、当初からの出資者の一つであるベンチャー・キャピタル会社、アンドリーセン・ホロウィッツが競争相手を支援した時、侮辱されたと感じた。タンブラー(Tumblr)社では、設立者のデイビッド・カープ(David Karp)が同社を黒字にしようともがいている間、彼に我慢ならなくなったベンチャー・キャピタリストが、ヤフーにサイトが売れる前に彼を追放しようと話し合っていた。しかし最終的には、たいていの場合、お金が傷を癒す。シリコン・バレーは、人類史上もっとも大きな成金物語の幾つかを見てきた。全米ベンチャー・キャピタル協会(National Venture Capital Association)によれば、スタート・アップはベンチャー・キャピタルから、単年度で200億ドル以上調達している。

2007年になると、シリコン・バレーのベンチャー・キャピタルは、消費者とか革新的企業とかから、ソーシャル・ネットワークに興味の対象を移した。マイスペース(MySpace)とかフレンドスター(Friendster)とかは10代後半の若者たちがお喋りする世界だった。そしてその数年前に始まったフェイスブックは、既に大学の寮の中で急速に広がりつつあった。ソーシャル・フォト・サイトのフリッカー(Flickr)はヤフーに約4000万ドルで買収された。そしてツイッターの140字しかないマイクロ・ブロッギング・サービスが外部の人間から嘲笑されてはいたが、その時まで自分の資金を会社に提供していたウィリアムズは、ブロッガーでの成功によって確固とした敬意を得ていた。グラースが追い出された1年後、ウィリアムズは数人の投資家から総額500万ドルのベンチャー資金を集めた。出資者の中には、ユニオン・スクエア・ベンチャー社の強力な役員であるフレッド・ウィルソンも含まれていた。

ベンチャー・キャピタルは投資の見返りとして、利益とはいかないまでも、何らかの将来性を約束する言葉を欲している。それでウィリアムズは、ドーシーを少しはマシな経営者へと急いで育てあげる必要性を感じた。彼のハッカー的性格は、エンジニアとして身を立てるには役に立った。しかしその性格は、オデオで同僚だったプログラマーたちを指揮する上では邪魔だった。しばしばドーシーは経験の浅さを曝け出した。ヤフーのエグゼクティブ、ブラッドレー・ホロウィッツ(Bradley Horowitz)とサイトの買収可能性について会議している時、ドーシーは終わりごろまでほとんど一言も話さなかった。そして彼は、ツイッターの見通しについて余り印象的とはいえない説明をした。ヤフーは、ここよりはマシな競争相手を現在構築中なんだとか言いながら、おざなりの低額オファーをしただけだった。

ウィリアムズはドーシーに、ツイッターのゴールを定める全社的e-mailを送るよう頼んだ。その時、彼が作った最初の下書きの題名は「私がツイッターに求める三つのこと(ゴール)」となっていて、各ゴールは場違いな「私」という文字で始まっていた。ドーシーはしばしば、自分が支配者であるかのように振舞い、自分の行動がより大きな計画の一部であると見せかけようとした。しかし従業員は、彼がよくフラストレーションに駆られながらサウス・パークをうろついているのを目撃している。彼は又、絵画クラスと、ホット・ヨガのセッションと、近くのファッションスクールで授業を受けるために午後6時に退社する習慣を持っていた(彼はAライン・スカートの作り方と、最終的にはジーンズの作り方を学びたかった)。かつてはまるで存在しなかった彼の社交生活は、ベンチャー・キャピタルの人間が、サン・フランシスコ・ジャイアンツの野球の試合に彼を招待したり、街のあちこちで開かれるパーティーへ彼を招待したりするにつれ、次第に騒々しいものになっていった。一向にプロトタイプからアップグレードしないツイッターは、ドーシーの見るところ深刻な設備の問題を抱えていて、頻繁にダウンを繰り返し、一度止まると何時間も再開しなかった。

ある夏の日の午後、ウィリアムズは上の階のカンファレンス・ルームで会いたいとドーシーに告げた。そこは口の悪いツイッターの人間たちが、オデオ・ハイツと呼んでいる部屋だ。二人はドアを開けて部屋に入り、椅子を引き出して向かい合って座り、今まで何回もしてきたように握手した。「君は、ドレスメーカにも成れるし、ツイッター社のC.E.O.にも成れるだろう。」ウィリアムズはドーシーに言った。「しかし、両方同時に成ることは出来ないんだ。」

ウィリアムズが不満を並べ立てる間、ドーシーは静かに怒っていた。しかしドーシーの経営スタイルに対する二人の諍いは、より深い見解の相違を際立たせるものだった。ドーシーは、ツイッターの主な目的は、人々が自分のことを話し、今の状況をアップデートするサービスを提供することだと、その時点でまだ信じていた。ウィリアムズは、人々のエゴにアピールするだけでは、ツイッターの寿命は短いと危ぶんでいた。人々が、地震とか交通事故とか、その年の出来事にどういうふうに反応するか観察した彼は、今や異なる結論に到達している。それはグラースが当初から考えていた線により近いものだった。ツイッターは、人々が、身の回りで起きた出来事を話し、ニュースや情報を共有するサービスだ。ウィリアムズがこのコンセプトを説明したのは、正にこの時だった。ついに彼は言い始めた。ツイッターは「今何が起きているか」を知らせるためにあるのだと。かつてはツイッターをけなしていた人間も含めて業界の多くの人間たちが、今やツイッターのポテンシャルを理解し始めている。

会談はぎごちない終わり方をした。しかし今やツイッターは余りにも多くの注目を集めていたので、ドーシーもウィリアムズも、仮に一緒にではなくても、隣り合って仕事を続ける以外に選択肢は無かった。しばしば二人は、両方ともがチーフ・エグゼクティブとして行動した。2008年6月、同社が新しい資金募集を始めるとき、投資家たちは、会社のチェアマンであるウィリアムズと、チーフ・エグゼクティブのドーシーから、時には数分しか違わないタイミングで別々に電話を受けて困惑した。最終的にウィリアムズは、主要出資者としてスパーク・キャピタルを選んだ。同社は1800万ドル出資する。直ぐに同社の権威ある役員、ビジャン・サベット(Bijan Sabet)が取締役会に参加した。

当初、サベットと、やはり取締役会メンバーでベンチャー・キャピタリストのフレッド・ウィルソンは、ドーシーの決断に懸念を抱いていた。彼はテキストメッセージを通してツイッターを使うことを人々に勧めていて、そのために同社は6桁近い出費を毎月強いられていた。ドーシーは又、自分のラップトップで出費を計算していて、それはしばしば間違っていた。その上さらに、幾つか重要なコンポーネントのバックアップも存在していないことが明らかになった。もしサイトがダウンしたら、重要なデータが失われる可能性があった。ウィリアムズとドーシーは毎週、夕食しながら会合をするようになり、問題を話し合った。しかしある時点からドーシーは自衛的になった。「君はC.E.O.に成りたいのか?」彼は突然言った。ウィリアムズはその質問を避けようとした。しかしとうとう答えた。「ああそうだ。俺はC.E.O.に成りたい。俺には会社を経営した経験がある。それこそツイッターに今必要なものだ。」

ドーシーは急いで家へ帰り、辞任のプランを考えようとした。しかしツイッターの取締役会は辞任の代わりに、ウェブサイトが抱える問題を解決する期間として3ヶ月の猶予期間を与えた。しかしながら、事態はあまり変わらなかった。請求書は積みあがり、サイトはダウンを続けた。ドーシーの記憶では、3ヶ月が終わる前に、ウィリアムズとサベットが彼をクリフ・ホテルの朝食へ招き、彼の代わりにウィリアムズをC.E.O.に据えると告げた。ドーシーは、手のついてないヨーグルトとグラノーラのボウルを前に座り、株式と200,000ドルの離職手当て、面目を保つための「静かなる」チェアマンの椅子をオファーされた。業界の人間は誰一人、彼が解雇されたとは判らないだろう(いずれにしろ、投資家たちは、設立者の一人を別の一人と戦わせたとは見られたくなかった)。しかしドーシーは会社の決定事項に投票権を持っていない。彼は実質的に追い出されたのだ。

彼の退出は、特別慌しい時期に行われた。何週間もの間、フェイスブックは静かに、この巣立ったばかりの会社の買収可能性を探っていた。それに対しドーシーは興味を示していたがウィリアムズは違った。追い出された後、ドーシーはザッカーバーグに電話し、密かにこのニュースを伝えた。ドーシーが驚いたことには、ザッカーバーグは解雇を防ぐ方法は無いかと訊いてきた。ザッカーバーグはおそらくは買収交渉を救いたかったのだろう。しかしドーシーは、そんな方法はもう無いと確約した。それでザッカーバーグはツイッター買収プランをドーシー雇用プランに切り替えた。ドーシーは、フェイスブックのプロダクト部門を統括するクリス・コックスと、サンフランシスコのフィルツ・カフェで会うことになった。話し合いは直ぐに真面目なものになったが、彼らはドーシーのために特別何かの役職を考えてはいなかった。ザッカーバーグはドーシーが、特別な役割を決めずに単にフェイスブックに加わることを期待していて、役職は後で考えれば良いと思っていた。

ザッカーバーグのオファーを測りながら、ドーシーはその結末を想像し始める。フェイスブックへ飛び込むのは、確かにウィリアムズには痛手になるだろう。外部の投資家のツイッターへの信頼を揺らがせるのも言うまでも無い。しかし辱めを受けたツイッターは、実際何が起きていたかをリークさせるだろう。もっとも大きな懸念は、特別な役職も無くフェイスブックに入るのが、どういうふうに見られるかだ。それは降格と思われないだろうか?「何か私に適切な役割が見つけられるかどうか、もう少し話し合って見ようじゃないか」彼はザッカーバーグにそう言った。「自分でも考えて見るよ。」どっちにしろ、彼には、他にもっと大きな計画があった。

シリコン・バレーではコネに優る価値は無い。ベンチャー・キャピタルとのコネがあれば企業家は、例えばザッカーバーグみたいに、一日当たり数万人のユーザー数と共に会社が成長してゆくのを見ていることができる。テクノロジー系ブロガーの世界や、報道機関にコネがあれば、巣立ったばかりのスタート・アップを数十億ドル規模のビジネス界に浸透させる助けになるだろう。しかしこういったコネは、しばしば物語を持っているかどうかに依存している。正しい創生の物語を持つ企業家にならなければいけない。そして、セントルイスに居た頃はドモリで苦しむ内気な子供だったドーシーは、実は自分を売り込むのが巧みであることが証明されるのだった。

ツイッター社内で権力を奪われた後、ドーシーは、自分とウィリアムズは役割を交換したんだとメディアに売り込むキャンペーンに乗り出した。彼は又、ツイッターの設立について、より精巧な物語を語り始めた。何ダースものインタビューを通じて、ドーシーは、グラースの関与を、会社の創生記から消し始めた。彼はツイッターにおける自分の役割を「発明者」に変えた。そしてあまり長く経たずに、ウィリアムズやストーンも、自分の話から排除し始めた。彼はあるイベントで、バーバラ・ウォルターズ(Barbara Walters)に、ツイッターは自分が設立したと主張した。翌日の「The View」で彼女は、ストーンやウィリアムズ相手にその点を問いただしている。ドーシーは、ロサンゼルス・タイムズに対し、「あらゆる意味において、ツイッターは私のライフ・ワークです」と言っている。彼は又、グラースが同社の重要人物だったことを伏せている。「私たちはこの感覚を捕まえたかったんです。友人のポケットの中でバイブレーションを起こしているっていう、物理的なセンセーションをです。」彼は新聞にそう語った。

ドーシーの物語は年月と共に変化している。彼はヴァニティー・フェアに対し、ツイッターのアイデアは1984年から持っていたと言っている。彼が8歳だった頃だ。「60ミニッツ」はドーシーがツイッターを設立したのは「列車や地図に魅せられていて」都市がどのように機能するかに興味を持っていたからだというレポートを流した。後に彼は、このアイデアを最初に発表したのはサウス・パークの遊び場で、その時アイデアは既に明確だったと説明するようになる。全体を通してドーシーは、自分をスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)のイメージに重ね合わせるようになった。ジョブズが言っていたように、自分のことを「編集者(editor)」と呼ぶようになり、いつも同じ服を着るようになる。全部ボタンを留めたディオールの白いシャツにブルージーンと黒のジャケットだ。

ウィリアムズは一度ならず、この時点でスクエア(Square)というモバイル決算会社でも働いていたドーシーを、静かなる取締役の椅子から取り除こうかと考えた(ビズ・ストーンはドーシーの振る舞いを「ジャックはペテン師になった」と言っている)。しかしウィリアムズは、もし完全に削除されたらドーシーが何をしでかすかと言う不安と同時に、公衆からの悪い反応も恐れていた。どちらもツイッターの成長曲線に損失を与える可能性がある。ウィリアムズの指揮の下、サイン・アップ数とかビジター数とか、ツイッター関連の数字は、2倍、3倍、4倍に成長を続けている。2007年には1日のツイート数は5,000件だった。そのわずか2年後、ツイート数は3500万件になっている。連続して発生していたサイトのダウンは最終的に治まってきていた(ダウンは不都合なときに限って起きた。例えば、ロシア大統領ドミトリ・メドヴェージェフ(Dmitri Medvedev)がオフィスに現れて、最初のツイートを送るなどという時だ)。

ツイッターが次第に形を成し始めたこの時期まで、CクラスやBクラスの著名人は参加していたが、このサービスがハリウッドと永続的なつながりを持つのは2009年にアシュトン・カッチャー(Ashton Kutcher)が参加してからだ。直ぐにジャスティン・ビーバーが入り、ヨルダンのラニア(Rania)女王が入り、最終的にはベネズエラのヒューゴー・チャベス(Hugo Chavez)からダライ・ラマ(Dalai Lama)まで、数多くの世界の指導者が参加した。この時点でウィリアムズは、買収の予備交渉を次々と断るようになる。アル・ゴア(Al Gore)は、サンフランシスコに自分が持つセント・レギスのスイートで、大量のワインやパトロン・テキーラを飲みながら、ストーンやウィリアムズと語り明かした。マイクロソフトのチーフ・エグゼクティブ、スティーブ・バルマー(Steve Ballmer)は、ビル・ゲイツの自宅で開かれた内輪の夕食会でウィリアムズに接近した。

その同じ頃、ウィリアムズは、ツイッターへ入ることを熱望していたベンチャー・キャピタリストのピーター・フェントン(Peter Fenton)を、同社の取締役会に招いた(彼の2100万ドルの投資で、同社の価値は約2億5000万ドルになった)。出資者になる前、フェントンは、他の多くのシリコン・バレーの人間と同様に、同社の顔であるドーシーは毎日の業務に関わっていると信じていた。それでも2009年初頭のある取締役会で、フェントンはウィリアムズとトーセイの間にある緊張感を感じ取る。後でフェントンはドーシーに電話し、彼のアパートの近くで会えないかと訊く。

レストランでドーシーはフェントンに話した。ウィリアムズが自分から権力とコントロールを奪ってしまったのだと。そして彼は会社の最近の方向性について長々と不満を並べた。ウィリアムズはC.E.O.になって直ぐ、自分がC.E.O.時代に結んだテキストメッセージのパートナーシップを次々と打ち切ったとドーシーは言う(彼はその契約が会社に毎月数十万ドルの出費を強いていたことは話さなかった)。フェントンは、今やテック・シーンの寵児であるドーシーが侮辱されたと信じた。ドーシーが自分の側から見た出来事を話し終わると、フェントンは机を叩いて言った。「君が会社に戻らなければ、僕の気は治まらない。」

ウィリアムズが会社の急成長を上手くマネージできて無いことにフェントンが不満を抱いていたことも、ドーシーに味方した。ツイッターは、数々の上級職の中でも、新たなチーフ・テクノロジー・オフィサー、チーフ・オペレーティング・オフィサー、チーフ・ファイナンシャル・オフィサーを必要としていたが、ウィリアムズは決断を下せないでいる。彼はしばしば、友人たちの中から人選をする傾向があった。彼をないがしろにしたり、その遅い決断を急がせたりしない人々だ。それでフェントンはアドバイザーとしてビル・キャンベル(Bill Campbell)を連れてくることを提案した。口の悪いことで有名な元インテュイット(Intuit)C.E.O.かつコロンビア大学フットボール・チームのヘッド・コーチ、そして、ジョブズとか、グーグルのエリック・シュミット(Eric Schmidt)とか、数々のトップ・エグゼクティブのメンターである人物だ。ウィリアムズが、「C.E.O.として会社に害をなす最悪のヘマは何だろう?」と訊いたとき、キャンベルは答えた。「友人を雇うことさ!」そして彼は、どうして友人と仕事を混ぜ合わせてはいけないか10分に及ぶ長広舌を続けた。ウィリアムズはその間、ノートパッドにメモを取っていた。2人は握手し、毎週定期的に会うことにした。

最初の会合はフェントンを勇気付けるものだった。しかしウィリアムズはその助言を無視する。彼は自分の成功を、ある程度までの幸運とハードワークのおかげと思っている。そして知人たちに、その恩恵の分け前にあずかれる機会を与えたいと思っていた。彼はツイッターの台所用品の購買に妹を雇い、新しいオフィスのデザインをさせるために妻のサラ(Sara)を雇い、そしてグーグルからたくさんの友人たちを雇った。その中には、最近自分のスタート・アップを1億ドルで売却したディック・コストロ(Dick Costolo)も居た。2009年にパーティーで偶然会った時、ウィリアムズは彼にツイッターのチーフ・オペレーティング・オフィサーになるよう頼んだ。即席でコメディアンをしたことがあるコストロは、最初のツイッターを打つ。「明日からフルタイムでツイッターのC.O.O.になる」彼は書いた。「タスク#1:C.E.O.をおとしめろ。権力を固めるんだ。」

ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)が書いたスティーブ・ジョブズの伝記の中には、時としてジョブズがどういうふうにアイデアを思いつくかについて、アップルのデザイン部門長、ジョナサン・アイヴ(Jonathan Ive)が思い出を語っている。「彼は私のアイデアをざっと見て言うのさ、『あまり良く無いな。良く出来たアイデアとは言えない。こっちの方が私は好きだ。』」アイヴはアイザックソンにそう語っている。「そして後で、」製品のプレゼンテーションに「私が聴衆として座っていた時、彼はまるでそれが自分のアイデアであるかのように説明するのさ。」ジョブズは確かに人々の生活を変えるようなイノベーションを幾つもしている。しかしアイヴの指摘は、ジョブズが良く理解していたシリコン・バレーにおける大きな真実を語っている。全てがそうでは無いが、アイデアが一人の頭からのみ生まれることは稀だ。しかしながら、人々から先覚者と見られている人間は、全てのアイデアを生み出したと思われてしまう傾向にある。ドーシーはそういった事情を生まれながらに理解していたようだ。

2010年まで、ツイッターは急速に成長し、その成功の功績はウィリアムズとストーンに帰せられていた。しかし同時に、ツイッターの数人のシニア・エグゼクティブはウィリアムズの経営スタイルに不満を募らせていた。ドーシーはそういった人々と、スクエア社の自分のオフィスとか、ブルー・ボトル・カフェで会合を始める。さらにはテンダーローイン近くにあるミント・プラザの自分のロフトでも合うようになり、取締役会で不満を表明するように煽った。ドーシーと取締役会はやがて、ウィリアムズを追い出し、ドーシーをツイッターの日常業務へ戻す決断をする。彼はスクエアとツイッター両方のC.E.O.にはなれない。しかし公衆から同社の設立者と認められている中での復帰は、それだけで充分な報酬だった。

この時点で、多くのツイッター出資者たちは、ドーシーが過去2年間にメディアで発言していたことを信じていた。もっと重要なのは、出資者たちが、公衆も同じように信じていることを知っていることだった。実務をコストロがマネージする間、彼は公共へ向けたツイッターの顔として機能するであろう。取締役会はコストロがマイクロソフトやグーグルと結んだ2500万ドルの契約に満足しており、彼はツイッター従業員との関係も良好だった。全ての出資者の間で協定が成立した。9月末にコストロは暫定C.E.O.に選ばれたと告げられる。ウィリアムズは退出させられ、ドーシーは復帰する。

その直ぐ後、ウィリアムズはツイッターの自分のオフィスの入り口で、キャンベルが歩き回っているのを見た。「椅子に座りたまえ」彼は言った。「とても言いにくいことを言わなければならない。私たちの話し合いは厳しいものになるだろう。」ウィリアムズはソファへ腰を落とした。何を聞くことになるか確信が無かった。「取締役会は君がチェアマンへ昇格することを望んでいる。」キャンベルは言った。ウィリアムズは本心から困惑しているように見えた。「真面目に言ってるのか?」彼は訊いた。キャンベルは、そうだと答えた。取締役会は、君にもっと素早い行動を期待していた、と彼は話し続けた。君の不決断は、組織的な渋滞を生み出しており、ツイッターほどのマグニチュードを持つスタート・アップにおいては災厄となる可能性がある。取締役会は投資のリターンを欲している。ツイッターに居た人間から、しばしば解雇の宣告者として知られるキャンベルは、ウィリアムズに告げた。君はコストロと交替させられると。

キャンベルがオフィスを去ってから、唖然としたウィリアムズは、電話を取り上げてダイアルした。ビジャン・サベットはすまなそうな口ぶりで、自分は君をプロダクト助言的な役割に留め置きたかったと強調した。しかしながら社内の複数の人間の証言によれば、フレッド・ウィルソンは、ウィリアムズは常に恐るべきC.E.O.だったと言ったらしい。「私は君を設立者だと思ったことは無い。」彼は言った。「ジャックがツイッターを設立したんだ。」(ウィルソンはそう言ったことを否定している。)

ウィリアムズはコストロに電話した。彼は土砂降りの雨の中を空港から自宅へ車で戻る途中だった。コストロはツイッター取締役会に、自分が追い出したように見えないよう、ウィリアムズの退出を巧みにやって欲しいと要望していた。今、彼は、友人であり上司でもある人間の退出に直面して、忠誠心とビジネス上の利益との板ばさみになっていた。ツイッター社においては、非常に馴染みのある状況だ。濡れた道を運転しながら、コストロはウィリアムズに言った。自分は取締役会に、ウィリアムズの同意無しにこの職にはつかないと話したと。しかしもう、そんな話は遅すぎた。ツイッター取締役会の決定、およびドーシーの助力によって、彼はすでにC.E.O.を、おとしめてしまったのだ。2010年10月4日、ウィリアムズはオフィスから歩き出て、ツイッターのスタッフに自分の辞任を告げた。数ブロック離れた場所ではドーシーが、スクエアのオフィスの中を歩き回りながら復帰の準備をしていた。

ウィリアムズが出て行った後、コストロは、しばしばツイッターのダウンの原因となっていたプログラム・コードと設備の問題を消し去った。彼は又、会社が利益を上げる方法を強力に捜し求めた。400人以上の従業員からなる巨大なセールスチームを組織し、ツイッター上の色々な広告オプションを売り込んだ。最近、ツイッターはテレビ・ネットワークと緊密な関係を築き、テレビのライブ・イベント中にツイッターを使うよう人々へ売り込み、テレビ広告とツイッター・ハッシュタグの統合を進めた。そして夏も終わる頃に、ツイッターは静かに上場の準備を始めた。

先月、I.P.O.のニュースが流れる1日前、ノア・グラースはミッション地区を歩いていた。追放された後、うつ病に罹っていたグラースは友人たちの前から消えた。今、彼は、地震時の避難場所として立てられたビル内のアパートで、ガールフレンドと幼い娘、そして犬のエウィー(Ewee)と共に暮らしている。娘を腰に抱え、エウィーを後ろに従えながら、ドロレス・パークへ向かって歩いていた彼は、角を曲がったところで、古い友人のエヴァン・ウィリアムズと出くわした。最初の驚きが去った後、40代初めの二人の男は熱心に話し始めた。昔は隣同士だったこと、そして非常に親しい友人となったこと、そして共同設立者となったこと。全てはほんの数ブロック離れた場所で起きたのだ。二人は礼儀正しく、又コーヒーを飲みながら話そう、と言って別れた。

シリコン・バレーでは、ほとんどの会社が自分たちのツイッター物語を持っている。共同設立者で、常に友人である人物、そして会社の大きなアイデアの背後にいる人物が、もう一人の人間に追い出される。よりハングリーな共同設立者に。ロナルド・ウェイン(Ronald Wayne)は、3人目の共同設立者であるにもかかわらず、アップルの設立物語からはじき出された。一時期、チャド・ハーレイ(Chad Hurley)とスティーブ・チェン(Stee Chen)は、後にグーグルに20億ドルで売れたビデオ共有サービスの唯一の発明者とされていた。第3の男、ジョード・カリム(Jawed Karim)も又、ユー・チューブに居たにもかかわらずだ。最新のテック界の寵児、スナップチャット(Snapchat)は、早期に会社から追い出されたレギー・ブラウン(Reggie Brown)に訴えられている。そしてもちろん、マーク・ザッカーバーグが居る。彼の現在の苦境、および、ファイスブックに対する所有権の主張は、何件かの訴訟を引き起こし、彼の詐欺の嫌疑を扱った1本の長編映画を生み出した。

しかしファイスブックと違い、ツイッターは正に共同作業の産物だ。失敗したポッドキャスト会社から、丁度良いタイミングでアイデアが出てきた。ドーシーは元となるアイデアを出してはいるが、オデオで働いていた人々の共同作業が無ければ、彼のアイデアは単なるアイデアで終わっていただろう。最初の概念が、友人たちを結びつけることに適用できるとしたグラースの直感は重要だった。そして彼が考え出した名前も又、疑問の余地無く成功を助けたのだ。ウィリアムズとストーンが、ブロッガーから得た教訓を元に開発に影響を与えていなければ、サイトがテイク・オフすることは無かったろう。これを会社にするためには、ウィリアムズの資金が必要であり、その他、ウィルソンやサベットやフェントン、その他多くの投資家の資金が必要だった。もちろん、これを活発なビジネスにしたコストロの功績や、これを地球上最大のソーシャル・ネットワークの一つにするのを助けた2000人の従業員の功績は言うまでも無い。こういったことは、シリコン・バレーの全ての会社で同じだろうが、その創生の物語において語られることは無い。ツイッターが上場したとき、ドーシーは4億ドルから5億ドル得ただろう。一方でグラースは、スクエア社のドーシーの秘書と同じくらいの収入で暮らしている。

ツイッター社草創の頃のある従業員は言っている。こんな会社だったにも関わらずこの会社は成功したと。そしてその言葉は幾つかの意味で正しい。ここ数年間で見るとツイッターが大きく育ってゆくことは明白なように見える。しかし、多くのツイッター従業員が個人的に私に告白してくれたように、ごく最近までは同社が、次のマイスペースとかフレンドスターとか、偉大なるアイデアが悪いマネージメントのおかげで大きな失敗で終わった例にならないで済むかどうかは明らかで無かったのだ。多くの人にとってこの不安は、この会社が正に会社として感じられるようになってから初めて変わり始めた。ドーシーがこの変化に対し、どれくらいの責任を負っているのかは明らかで無い。以前ツイッター従業員だったある人間が言った。「ジャック・ドーシーが作り出した最も偉大な製品はジャック・ドーシーさ。」

~~ここまで~~

次回更新は11月2日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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