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リー・ハーヴェイ・オズワルドは私の友人だった

ケネディ暗殺犯とされるリー・ハーヴェイ・オズワルドに関する記事をUpします。

記事を書いたのはポール・グレゴリー(Paul Gregory)さんです。元記事はここにあります。

今年11月22日でケネディ大統領暗殺50周年です。

~~ここから~~

リー・ハーヴェイ・オズワルドは私の友人だった

それは日曜日の朝7時だった。私の両親が住むフォート・ワース、モンティチェロ・パーク横の赤レンガ造りの家で、階段下に置いてある電話が鳴った。「グレゴリーさんですね、」父が電話を取ると女性の声が言った。「あなたの助けが必要です。」どなたですか?まだ半分眠っていた父は、テキサス訛りとロシア訛りが混ざった喋り方で訊いた。

電話の相手が言うには、彼女は土地の図書館で父が開いているロシア語教室の生徒だったことがあり、彼女の息子を父は知っているはずだとのことだった。そう言われて直ぐ、私の父、ピート・グレゴリー(Pete Gregory)は、声の主が教室の後ろに座っていた看護婦で、自分のことを「オズワルド」と名乗っていた人物だと判った。その電話が来るまで、父は彼女がリー・ハーヴェイ・オズワルド(Lee Harvey Oswald)の母親だと気づいていなかった。リー・ハーヴェイ・オズワルドは海兵隊員で、ソビエト連邦へ逃亡し、2年半後にロシア人の妻と4ヶ月の娘を連れて合衆国へ帰ってきたばかりの人物だ。父は一年前からリーとその若い家族がフォート・ワースへ定住するのを助けていた。そしてオズワルド一家は私の友人だった。

父はやっと理解した。電話の相手、マルゲリータ・オズワルド(Marguerite Oswald)は、ほとんど英語が出来ない義理の娘、マリーナ(Marina)と話せるようになるため、自分の教室に来ていたに違いない。そして何故自分の助けが必要なのかも明らかだった。2日前、彼女の息子は合衆国大統領を狙撃した。リー・ハーヴェイ・オズワルドがダラスの留置所に座っている間、彼の母と妻と2人の幼い娘は、空港近くにある安ホテル、エグゼクティブ・インに隠れていた。家族はそこへ、ライフ・マガジンのスタッフに連れてこられ、そのまま置き去りにされたのだ。マリーナ・オズワルドはその時、アメリカ中が捜し求める証人だった。彼女は、今すぐ通訳を必要としていた。

ケネディ暗殺の数時間後、両親と私は共に、私たちが知っているリー・オズワルド、家に来たことがあり、夕食を共にしたこともある人間が、大統領殺害犯として非難されている人間と同一人物であると知り、恐怖を感じていた。シークレット・サービスは、1963年11月23日午前3時に、両親の家のドアをノックしている。そして、マルゲリータの電話が切れて丁度45分後に、マイク・ハワード(Mike Howard)という名の捜査官が、父を車に乗せて、フォート・ワース、ダラス・ターンパイクにあるハワード・ジョンソン家へ向かった。そこで彼らはリーの弟、ロバートと会う。家族が選んだ通訳ということで、私の父は今や、オズワルド家の女性たちを、薄汚いホテルから連れ出し、安全な家へ移す計画の一部に成っていた。退避先となる家は、ロバートが妻の実家の農場に確保してある。そこならマリーナは安心して尋問に答えられると思われた。

エグゼクティブ・インのその部屋は、父が想像していたよりも悪い場所だった。すでにやせ細っていたマリーナは、外目にもひどくやつれていた。未だ生後5週間と経っていない下の娘レイチェル(Rachel)へ母乳を与えるのも困難な状況だった。その一方でマルゲリータはひどく怒っていた。彼女は脅されて追い立てられるのはごめんだとまくし立てた。父は何とか彼女をなだめたが、男たちが荷物を車に積んでいる間に連絡が入り、リー・ハーヴェイ・オズワルドが撃たれたと、ハワード捜査官が囁いた。ロバート・オズワルドは直ぐに病院へ向かったが、ハワードと父は、このニュースをマリーナとマルゲリータには伏せて置くことにした。

安全な場所へ車で移動する間、マリーナは捜査官に、子供の荷物をピックアップするために、テキサス州イルビングに住む友人、ルース・ペイン(Ruth Paine)の家へ寄るよう頼んだ。しかしペイン家の庭には既に記者たちが詰め掛けていた。それで一行は市の警察署長C・J・ウィラスニク(C.J.Wirasnik)の家へ立ち寄った。私の父がロシア語で、夫が死んだことをマリーナへ告げたのはその場所でだった。自分の父親に会ったことがないマリーナは、子供たちも又、父親を知らずに育つなんて耐えられないと言った。抑えきれずに泣きながら、マルゲリータは、ジャッキー・ケネディが夫の死体を見たのと同じように、合衆国市民である私には息子の死体を見る権利があると、叫んだ。それで結局、一行はオズワルドが入ったパークランド・ホスピタルへ向かった。病院の周りには既に、怒り狂った群集が取り巻き始めていた。医師たちはマリーナにオズワルドの死体を見ない方が良いと勧めた。死体は黄色く青ざめていて、顔には傷が残っている。しかしマリーナは見たいとせがみ、夫を死に至らしめた傷を見ることを望んだ。医師はシーツをめくって、ジャック・ルビー(Jack Ruby)が撃った胴体の傷を見せた。

オズワルドの死によって、マリーナの証言はさらにその重要性を増した。シークレット・サービスは直ちに一行を、近くのホテル、シックス・フラグズへ連れて行き、隣り合った423号室と424号室へ全員を入れた。武装した刑事が一人、近辺をパトロールしている間、何本もタバコをふかし、コーヒーを飲んだマリーナは、リーのライフルについて、銃を持って写っている彼の写真について、そして彼の色々な友人たちについて質問を受けた。その当時59歳だった父は熱心に通訳を務めた。その間にもマルゲリータは、息子はアーリントン国立墓地に埋葬されるべきだと主張し、ロバートは、大統領暗殺者と非難される男を受け入れてくれる葬儀の場所を、我慢強く探していた。

翌日、シークレット・サービスはテレビのスイッチをオフにするよう注意していたが、顔を涙で濡らしたマリーナは、再び何本もタバコをふかしてコーヒーを飲みながらも、ジョン・F・ケネディの葬儀を見たいとせがんだ。彼女は長いことファースト・レディに憧れていた。そして大統領が載った記事を雑誌に見つける度に夫に翻訳をせがんでいた。彼女は、捜査員に急かされてローズ・ヒル墓地で執り行われる自分の夫の葬儀に行く直前まで、放送を見ていた。その日の午後、ルター派の聖職者が立ち会わない中、棺を運ぶ人数に記者も何人か参加して葬儀は行われた。マリーナがシックス・フラッグズに戻った後、あわただしい葬儀を恥かしく思った父は、大学の学生たちが送ってよこした電報を幾つか翻訳して彼女を慰めた。「私たちは貴方に、心から御悔みをお伝えします。」メッセージにはそう書いてあった。「私たちは貴方の悲しみを理解し、共有しています。このようなことが私たちの国で起きたことを恥じ入っています。貴方がこのことで私たちを悪く思うことがないよう、請い願います。」

私の父は数日後、その週末に起きた出来事を、サンクスギビングの夕食の場で話してくれた。私はその時、オクラホマ大学の大学院に入学したばかりで、家に戻っていた。私は父を通して、リーとマリーナのオズワルド家の近しい友人だった。そして後にロバート・オズワルドが言っていたように、おそらくは唯一の友人だった。私たちは、1962年6月に彼らがフォート・ワースに来た直後から、その年の11月までの間、友人として過ごした。5ヶ月というのは短過ぎると思えるかも知れないが、これはオズワルドの人生でもかなり重要な時期だった。彼はそれまで同じ場所に長く留まることが無かった。17歳になるまでに20回は引越しをしている。そして彼は高校を中退し海兵隊に入る。ところが除隊する前に彼はモスクワへ逃亡する。そして国外退去に成りそうだったのを自殺未遂で逃れてミンスクに送られる。そこで彼はマリーナに会った。1年半後、合衆国へ帰った彼は、さらに何回か引越しをした。私との間の友情は、おそらく彼にとって最も長いものだっただろう。

私の家族は、この悲劇的出来事を過去のものにしようと努めてきた。しかしあの出来事から数十年が過ぎ、私は学問の世界に入り、スタンフォード大学フーバー研究所のリサーチ・フェローになった。そして自分の記憶と歴史的記録を組み合わせて、私なりのオズワルド像を提示したくなったのだ。ほとんどのアメリカ人はオズワルドがケネディを撃ったと信じている。それでもA.P.通信が行った最近の世論調査によれば、一人の男が単独でケネディを殺害したと信じているアメリカ人は4分の1しかいないらしい。「果たしてオズワルドは、」ノーマン・メイラー(Norman Mailer)は書いた、「殺人者の魂を持つほどの極端へと、追いやられてしまったのだろうか?」オズワルドが帰国してからの数ヶ月間を自分で振り返ってみて実感するのは、私はそのような魂が形を成すのを目撃していたと言うことだ。

ほとんどリー・ハーヴェイ・オズワルドに会ったその瞬間から私が感じたのは、彼が自分への世間の評価は間違っていると思っているらしいことだった。彼は出来の良い生徒では無かった。そして海兵隊は彼の才能を見逃した。しかし今や彼の運命は変わろうとしている。ミンスクに住むほとんど唯一のアメリカ人であった彼は、この州都で著名人のような存在だった。オズワルドは、冷戦の最盛期にソビエト連邦で暮らしたアメリカ人としての自分の経験は、とてつもなく貴重なものだと思っていた。そして彼は既に回顧録を書き始めていた。彼は日誌を付けていて、それに「歴史的日記(Historic Diary)」と題名を付けていた。1962年6月14日、彼とマリーナ、そして小さなジューンを乗せた飛行機がラブ・フィールド空港に着陸した時、彼は出迎えた弟のロバートに記者たちはどこだと訊いた。

帰国から一週間半後、彼はフォート・ワースのダウンタウンにあるコンチネンタル・ライフ・ビルディングの15階へ出かけている。その日の朝早く、石油技術者として成功していた私の父は、ロシア語の流暢さを誰かに保証してもらいたがっている若い男から電話を受けていた。内戦時代シベリアに逃げて難を逃れた私の父は、1960年代のテキサスにはロシア語通訳の仕事はあまり無いと告げる代わりに、このロシア語が話せる人物に会うチャンスを喜んだ。彼はその男に会いに来るよう告げた。

だいたい午前11時頃、気温が華氏で90度を超える暑さの中、22歳の細っそりしたオズワルドは現れた。彼はウールのスーツを着て汗まみれだった。父は適当に選んだロシア語の本から文章を翻訳するようオズワルドに求めた。そしてこの若い男の翻訳の見事さに驚いた。彼は秘書に「誰であれ関心のある人物へ向けた」手紙のタイプを頼んだ。そしてリー・ハーヴェイ・オズワルドには通訳の能力があると記した。しかし父は又、ロシアの知識を必要とする仕事には心当たりが無いとも言った。父は、その言葉による失望を和らげようと、オフィスから1ブロック離れたホテル・テキサスの昼食にオズワスドを誘った。ホテル・テキサスの食堂には、取引に明け暮れる石油業界の人間や、銀行家、法律家がごった返し、名物のメルバ・トーストに噛り付ついている。昼食のオーダーを待つ間、父はオズワルドから、彼の妻のことや、現在のロシアの暮らしの話を聞き出そうと試みた。しかしこの若い男は、海兵隊員でフォート・ワースの住人だった人間が如何にしてミンスクに行くことになったのか、ほとんど話さなかった。彼が言ったのは、「ソビエト連邦へ渡ったのは自分の意志です」と言う謎めいた言葉だけだった。分かれるに当たってオズワルドは、何か起きた時のために、彼が妻と一緒に滞在している、弟ロバートの家の電話番号と住所を告げた。

もちろん何も起きやしなかった。しかし、そもそもロシア移民が非常に少ないこの地域で、私の家族が呼ぶところのダラス・ラッシャンズ(Dallas Russians)たちは、自分たちの間で仲間を守ろうと言う意識を共有していた。数日後に父は、オズワルドと彼の妻を訪ねて様子を見てみようと決心した。そして丁度同じくらいの年齢の私が夏休みで家に居たので、父は私を連れてゆくことにした。私たちがダベンポート通りの家に着くと、ロバート・オズワルドが暖かく迎えてくれた。彼は背が高くて良く喋る男だった。彼も又、海兵隊員だった男で、アクメ・ブリック・カンパニーで管理職として働いていた。彼と比べるとリーは控えめな男だった。リーは背が低く痩せ型で、額は目に見えるほど後退していた。喋り方はテキサス訛りではなく南部訛りだった。おそらく若い頃ニュー・オリンズに居た頃の名残だろう。

リーとロバートは私たちをマリーナに紹介してくれた。彼女はほとんど虚弱に見えるほど痩せていて、自然な美しさを湛えていた(ミンスクに居た時、リーは何人もいた求婚者の一人だった)。彼女はめったに笑わなかった。ソビエトの歯科医の典型的な犠牲者で、自分の歯を恥じていた。リーは妻にロシア語で、ロシア語を話せる仲間を2人、特別に招待したんだと説明した。それで私の父、ピートが、会話を先導し、合衆国への航海の様子、ミンスクでの暮らし、ソビエト連邦で若者として過ごすのはどんな感じなのか、彼女に質問した。マリーナは、時々写真を見せながら、ほとんどの質問に答えた。彼女は静かに話していた。

その約一週間後、父と私は、家から車で10分ほど離れた場所にある、リーとマリーナ・オズワルドの新居へ出かけた。そこはモンゴメリー・ワード(アメリカの通信販売業者)のビルのそばにある1ベッドルームの狭苦しい2階建て共同住宅だった。庭にはテキサスの夏の日に焼かれて黄色くなった硬い芝が生えている。玄関にはコンクリートで一段上がったところに小さなポーチがついていた。私の父はマリーナを気にかけていた。彼女は才能ある若い女性で、既に大きな困難を克服してきている。彼女は、戦争で引き裂かれ、無名の墓が散らばるサンクト・ペテルブルグ(その当時は未だレニングラード)で育っていた。父は彼女を助けたかった。父はマリーナに、もし良かったら私にロシア語のレッスンを授けてくれないかと頼んだ。値段を決める前に、もう彼女は週2回のレッスンをすることに同意していた。彼女は仲間が出来ることが嬉しそうだった。

次の火曜日、午後6時ごろ、マリーナは私を最初のレッスンに招いた。オズワルド家の居間は異常なくらい何も無い部屋だった。擦り切れたソファーと椅子があり、使い古したコーヒーテーブルには、これ見よがしに、ジョン・F・ケネディがマン・オブ・ザ・イヤーとして表紙に載ったタイム・マガジンが置いてあった(興味深いことに、私が訪ねる度に同じ場所においてあったそのタイムは、オズワルドが合衆国に着く丁度5ヶ月前の1月5日号だった)。私たちがその部屋に20分から30分、居心地悪そうに座っていると、リーがドアを開け放って入ってきた。彼はいつものシンプルなスラックスに格子縞の開襟シャツという格好で、袖を肘のところまで捲り上げ、フォート・ワースの公共図書館から借りた重そうな本を何冊か抱えていた。会話は流れるようにタイムの表紙に移った。マリーナは、大統領は良い男に見えると言い、ファースト・レディは、写真で見た限りではとてもグラマーに見えると言った。彼女は又、ファースト・レディはとても良い母親に見えるとも言った。リーはいつもの簡潔な調子で同意していた。

最初のレッスンが終わりに近づく頃、私たちは今後のレッスンの進め方を決めた。私がオズワルド家の2人を車に乗せて街を見て回り、地表の目印を指して、たどたどしいロシア語で説明すると、彼女がそれを直すというやり方だ。こうすれば私は自分のロシア語を向上できるし、彼女は街を知ることができる。しかし又、私たちは知っていた。これはオズワルド夫妻が雑用を片付けるのに都合の良い方法だと。その時点で、運転免許を持っていないリーには、私がこの若夫婦の役に立ちたいと思っているのが判っていると、私は思っていた。私が彼らの家を出ようとする時、彼は急いで寝室に戻ると使い古したポケットサイズの英露辞典を持って戻ってきた。ミンスクに居た頃、彼が使っていたものだった。「これ、持って行けよ」リーが私に言った。後になって私は気がついた。オズワルドがマリーナの前でそれをやったのは、私には辞書が必要だが自分にはいらないところを見せるためだったのだと。

レッスンがある夕方は、たいてい6時半ごろに着くよう私は出かける。リーが溶接工の仕事から家に帰ってくる時間だ。私の黄色いビュイックに皆で乗り込むと、デパートとかモンゴメリー・ワードとかへ出かける。そして10時ごろに彼らを家へ送り届ける。それはオズワルド家にとって質素な時代だった。でも彼らは希望を失ってはいなかった。フォート・ワースの植物園へ行った時、オズワルドは楽観的な雰囲気を漂わせていた。彼は美しい妻と愛らしい娘と共にアメリカへ帰り、これからはもっと勉強する機会にも恵まれ、大学の学位だって取れるかも知れない。出版社は彼の回顧録の価値を確かに理解しているし、それを踏み台として、自分が信じる社会主義の大義をさらに進めることができそうだ。マリーナはきっと、自分がどんな男か理解してくれることだろう。

しかしながら時間が経つにつれ、彼には、自分の特別さを妻に納得させるのが、次第に難しくなっていった。夏の初め、リーはテキサス・クリスチャン大学(Texas Christian University:T.C.U.)のカタログや講義スケジュールを家に持ち帰った。そして私たちは、リーが大学の事務局と話せるように、T.C.U.のキャンパスへ車で行くことにした。彼は、私の記憶では特別な時に着る服装、ダークなスラックスと白いシャツを着て出かけた。しかしキャンパスに着くと、私とマリーナに遠くで待つように彼は仕草で示し、デスクの女性となにやら囁き合った。2人はしばらくの間話し合っていたが、私たちのところへ戻ってきたリーは気難しい表情をしたまま黙っていた(その時点で、まだ私は彼が高校を卒業していないことを知らなかった)。別の夜、安売りデパートのレオナルドを歩いていたオズワルド夫妻は、食品売り場の前で、最後の選択をする直前まで熱心に囁き合った。そして、お金を管理しているリーは、特に肉について、値切り始めた(彼はしばしば、微笑みを浮かべてユーモアを交えながら、値段の交渉をする)。私たちの買い物はだいたい一袋に納まる分量だった。それでオズワルド家は一週間食いつなぐのだ。

こういった買い物の時、マリーナが他の母親たちを見て、その人たちがたくさん買い込んで良い服を着て自分で車を運転する人までいるのを気にしているのが、私には直ぐ判った。同時に彼女は又、夫の過激な考えにうんざりしているようだった。リーがカストロのキューバについてレクチャーしていた時、ずっと共産主義政権で生きてきたマリーナが割り込んで言った。ソビエト連邦がキューバを支えるために貴重なリソースを消費するなんて馬鹿げていると。結局のところ、ミンスクにはほんの僅かなものしか無いのに、高価な砂糖以外に仲間の市民に与えるものを持たない遠方の国家に、何故お金を浪費しなければならないの?と彼女は言う。リーはいつも政治に関する分厚い本を持ち歩き、「共産党宣言(The Communist Manifesto)」とか「資本論(Das Kapital)」といった言葉を口に出すのを好んだ。しかし私には、オズワルドが実際には共産主義を、労働者よ団結せよ、と言うマルクスのアピール以外には大して理解していないのは、直ぐ判った。

オズワルド家の諍いの根底には、マリーナが英語を学ぶのをリーが許さないことがあるように見えた。マリーナが英語を学ぶと、自分のロシア語の流暢さが失われると彼は主張した。しかしより重要なのは、それが彼女に対して支配を行使する手段であるからのように見えた。8月にレクサル・ドラッグストアに行った時のことだ、そこの薬剤士が、ミンスクの病院の薬局で働いたことがあるマリーナに、もし言葉がもっと良く喋れるようになったら雇いたいと言った時、リーは目に見えて怒った。その仕事は最終的に彼女をして、一家の稼ぎ頭にするだろう。その手の怒りは後で、その月の内に又顔を出す。ある夕方、私たちが2階建てアパートを出ようとしていた時のことだ。マリーナが玄関の段差を後ろに踏み外し、頭を乾いた硬い地面にぶつけてジューンを落としてしまったことがあった。その時の音があまりにも大きかったので、私は彼女が怪我をしたのではないかと心配した。ところがリーは、彼女の不注意さを大声でなじったのだ。その間、彼女は赤ん坊を抱きしめて、地面の上で丸まっていた。ジューンに怪我が無いと判った後も、彼はその夜、マリーナに一言も口をきかなかった。

私のロシア語レッスンが始まって2ヶ月が過ぎた頃、両親を含むロシア移民のサークルは、私の新しい友人に興味を示し始めた。それで1962年8月25日、私たちは自宅で開く小さなパーティーにオズワルド夫妻を招待した。身なりの良い独身男性で、新たなロシア語移民に対して一人だけの社会保障省を自任しているジョージ・ブーエ(George Bouhe)は、特にマリーナに会いたがった。なんといっても2人は共に、今はサンクト・ペテルグルグとよばれている街で育ったのだから。しかし自ら選択した国の、真の愛国者を自認する彼は、合衆国を出てソビエト連邦へ渡った彼女の夫に不安を抱いていた。

私がオズワルド夫妻を伴って到着すると直ぐに、マリーナとブーエは居間へ移った。彼は色々な時代のサンクト・ペテルグルグの地図を持参してきていた。2人はそれを床に広げると、色々なランド・マークを指差して話し始めた。ブーエは、マリーナが教養のあるロシア語を話し、祖母が上流の女学校を出ていることに感銘を受けた。マリーナが又、祖母がとても信仰心が厚かったことを話すと、ダラスでロシア正教の集会を開いているブーエは特に喜んだ。ほんのわずかな時間だったが、ブーエはこの若い御夫人のために、何でもしようと決心していた。たとえそれが、むっつりと隅っこに引っ込んでテーブルによばれるのを待っている彼女の夫を助けることになっても。

夕食が運ばれてくると、ブーエは、ミンスクの暮らしをリーとマリーナに聞きながら、場の雰囲気を盛り上げようと努めた。しかし、その夕べに彼の同伴者として来ていたアンナ・メラー(Anna Meller)という名のロシア人女性が、私たち全員が密かに訊きたいと思っていた質問を、こらえ切れずに口に出した。何故リーはソビエト連邦へ逃走したの?その夜、彼にしては最高に行儀良く振る舞い、スポーツ・ジャケットまで着て来ていたリーは、突如興奮し防御的になった。彼は声を高めた、しかし出て来たのは、お決まりのスローガンだった。彼が逃走したのは資本主義が恐ろしいシステムだからだとか、労働者を搾取し貧しいものは何も得られないとか、そう言った話だ。しかしメラーは、簡単には彼を逃がさなかった。ソビエト連邦は生きるのに辛い場所だ、彼女は続けた、何で貴方は、こんなに素晴らしくて寛大な国を離れたの?リーは守勢になりながら答えた。確かに党に忠誠な者たちでも、もう共産主義を信じているとは思えない。でもだからと言って、それでアメリカが偉大な場所であることにはならない。

その夜、時間が過ぎると共に、ブーエとメラーは、マリーナがアメリカで生きてゆくなら英語を学ぶ必要があると主張し始めた。事実、メラーは、多くのロシア移民に英語のレッスンを紹介していると言う。彼は同じように、マリーナにも紹介できる。リーの声は再び高くなった。マリーナに英語を学ぶのを許してしまったら、自分のロシア語が影響を受ける。ロシア語の流暢さを維持するのは自分にとってとても大事なことなのだ。アンナ・メラーは、彼の身勝手さに、怒りを抑えるのに苦労していた。夕食会は突然終わりを迎えた。

夏が終わりに近づき、ノーマンに帰ってオクラホマ大学の最終学年を始める前に、私は最後のレッスンのためにオズワルド家を訪れた。授業料について一度も合意していなかったので、父と私は、マリーナに35ドル払うことに決めた。その当時としては結構な大金だった(リーは一時、自分の収入からマリーナに週2ドルしか払わなかった)。しかし彼女は直ぐに断った。友人同士は金のやり取りをしないのだ、と彼女は言った。しかし私は強要して受け取らせた。彼女はこんな大金は持ったことが無いと言い、モンゴメリー・ワードに直行するつもりだと言った。彼女はお礼の印として、共産党ユース・リーグ時代の思い出の品をくれた。レーニンのピンバッジだった。レーニンは、意志の強さと思慮深さを示す、頬の突き出た表情をしていた。私は喜んで彼女の贈り物を受け取った。そしてブーエとメラーが、古着とかベビーベッドとか、幾つか家財道具を提供していることに気がついた(ちょっと前には赤ん坊のジューンは、スーツケースの上に敷いた毛布で寝ていた)。私はマリーナに、ブーエの勧めに従って英語を学び始めたかどうか訊いた。彼女は肩をすくめた。その内、時間を見つけてやるつもりだ、と彼女は言った。

2ヵ月後、ノーマンの学生寮の郵便受けをのぞき込んだ私は、1枚の葉書を取り出した。その葉書は2日前にダラスのエルズベス(Elsbeth)通り602から投函されたもので手書きだった。「親愛なるポール!」葉書には書いてあった。「私たちはダラスに引っ越しました、素敵なアパートが見つかったんです、そして私はとても良い場所で仕事を見つけました、時間があったら直ぐにも見に来てください、(原文はwe would like you too [sic] come and see us:tooがミススペル)」最後に書かれたサインはロシア語だった。私はオズワルド家が上手くやっていることを知ってホッとした。そしてスペルや句読点の間違いから、マリーナが書いた手紙だと思った。彼女は英語のこつが判りかけてきているらしい。私は彼女に返事を書き、礼儀正しく句読点などについて指摘しながら、自分の近況を報告した。マリーナはいつも、私とのロシア語会話で、より正しい文法を指摘して私から感銘を得ることに熱心だった。私は彼女も、こういった指摘を喜ぶと思ったのだ。

しかしそれから1週間半後、サンクスギビングで両親の家へ帰った私が、家に唯一ある階段下の電話で、フォート・ワースのロバート・オズワルド家からかけてきたマリーナに答えた時、彼女は直ぐに言った。「その手紙、私は書いて無い。リーが書いたのよ。」彼女の声の調子は、全てを物語っていた。リーは私の返答に、深く誇りを傷つけられ、屈辱を感じていた。マリーナは又、今自分は不幸だと言った。彼女は家庭内暴力をほのめかし、弟の家のサンクスギビングに出るよう、リーが彼女に求めた後、彼が落ち着けるよう、なるべく一人にするようにしていると説明した。今のところ彼は自分に良い態度を示しているが、それがいつまで続くか判らない、と彼女は言った。私は行った方が良いだろうか?私が行けば、良かった時代を思い出してくれるのではないか?

丁度ゲストが帰り始めた時間に、私はロバートの家に着いた。そしてリーとマリーナとジューンを私たちの家へ連れて帰った。私たちは両親に挨拶をすると、台所へ行ってターキー・サンドイッチを作り始めた。私はなるべく会話をくだけたものにしようと努力した。でもマリーナは、リーが口を閉ざして横に座っているのに、彼への不満を口にし始めた。彼は、自分のロシア人の友人たちに良くしてくれない、と彼女は言った。そして自分を家の中に閉じ込めようとする。買い物まで自分だけでするのだ。私は、彼の私に対する敵意を感じながら、居心地の悪さを感じていた。知識人を自認し「歴史的日記」を書く人物が、英語を学び始めた誰かと同じ程度にしか句読点を正しく付けられないと示唆した私に対する敵意だ。1時間かそこら経って、私は、ダラスへ帰る彼らを、ダウンタウンのバス停まで送った。マリーナはバスの乗車口からサヨナラをした。その日は1962年11月22日で、私はそれ以来、2人に会っていない。

ケネディ暗殺の後の日曜日、私がノーマンの小さなアパートに座っていると、シークレット・サービスの捜査員と土地の警察署長がやってきて、尋問のためにI-35を20マイル南下したオクラホマ・シティーに連れて行かれた。車の中で私は、どういうふうにオズワルドと出会ったか、フォート・ワースをドライブして回った夕べのこと、ダラス・ラッシャンズのこと、どのようにして、ただの大学生が、暗殺者と一緒に捕まるはめになったのか、などを話始めた。ダウンタウンにあるビルの飾り気の無い会議室に通されると、捜査員は直ぐに、その時最も重要だった質問、そしてこの50年間、問われ続けている質問に入った。君はオズワルドが一人で行動していたと思うか、それとももっと大きな陰謀の一部だったと思うか?私は彼らへ簡潔に答えた。もし自分が何か陰謀を企てていたとしても、オズワルドは最も仲間に入れたく無い人間だと。彼はあまりにも扱い難く信頼出来ない。

それからの年月、世論調査結果がどのようであろうとも、私に同意する人間は多い。以前は秘密とされていて、後に公開されたロシア側資料でも、K.G.B.はオズワルドを引き込みたいと思っていなかった。キューバの秘密情報員たちとか、1~2名のK.G.B.エージェント、それにマフィアのボスとかC.I.A.のオフィサー(たぶんニクソンの「配管工(plumbers)」チームを含む人間たち)が、どういうわけか、その日のオズワルドの行動と関わっているらしい、しかしこういった陰謀論がどういうふうに機能したのかを理解するのは難しい。オズワルドは結局のところ、信頼できないことで有名なダラスの公共交通システムを使って、テキサス教科書倉庫に逃げ込んだ。

歴史が、かくも小さな人間によって変えられてしまうとは、当惑させられることであるかも知れない。しかしあれから何年も経ってみて、これはオズワルドのゴールの一部だったと、私は実感している。私は彼が、自分が特別な人間だと、特に疑い深い妻に向けて、正に証明しようとするその瞬間に、彼の人生に関わった。しかしあの数ヶ月間で、彼の主張は急速に信頼性を失った。マリーナは後に通訳を通してウォーレン委員会で証言している。「彼の空想、彼の夢想は、全く根拠がありませんでした。自分が飛びぬけた人物だ、という彼の主張も同じでした。」おそらく彼は、歴史に名を残すために最後に残された近道を選んだのだ。1963年4月10日、オズワルドはテレスコープ付ライフルで、ダラスのエドウィン・ウォーカー(Edwin Walker)少将宅へ銃弾を撃ち込んでいる。少将は戦争で名を馳せた保守派の英雄で、銃弾は彼の頭をかすめた。オズワルドは妻に、その暗殺未遂について話したが、ケネディが暗殺されるまで、彼女は官憲にその話をしなかった。

7ヵ月後、はるかに大きなターゲットが、正に彼が働くそのビルの横を通ることになった。プリシラ・ジョンソン・マクミラン(Priscilla Johnson McMillan)が、その著書「マリーナとリー(Marina and Lee)」で書いているように、オズワルドの仕事場の下を通る大統領のルートは、自分の運命が与えた貴重なチャンスだと、彼に確信させたのだろう。「過去に経験した全てのフラストレーションは今、彼をこの最後の舞台へと導いた。」ロバート・オズワルドは回顧録で書いている。「子供時代に始まり、学校を通して続き、海兵隊でも感じた失意と絶望。ロシアで新しい人生を始めるという夢の喪失、合衆国に帰ってからの退屈な仕事、その仕事ではマリーナを適切に支えることも、男と認めさせることも出来なかった。彼の23年間のほとんどを占める失敗のパターンが、1963年4月の暴力的暴発と、11月の最終的悲劇へと、彼を導いた。」

ロバート・オズワルドはこの9月に、マリーナとはしばらく話していないと、私に言った。彼の家に電話をかけた時、彼は、50年間質問に答え続けた人間の持つ用心深い口調で答えた。彼は私の父を好もしく思い返した(「ピート・グレゴリーは優しい人でした」彼は言った)、しかし、自分の経験を話すのを、礼儀正しく拒絶した。シークレット・サービスのマイク・ハワード捜査官は、1981年にリー・ハーヴェイ・オズワルドの遺体発掘捜査をして以来、マリーナとは話していないと言った。しかし彼は、マルゲリータ・オズワルドが半狂乱になってシックス・フラグズのスイートを歩き回っていたのを、はっきりと覚えていると言った。彼女が枕の下に銃剣を隠していたのも覚えていると言う。

ケネディ暗殺から2年後、マリーナは電子技師のケネス・ポーター(Kenneth Porter)と結婚する。彼はマリーナをメディアからしっかりと守った。2人には息子がいて、今、ダラスから遠くないテキサス中央部の町に住んでいる。この夏、ケネディ暗殺50周年が近づく中で、私はマリーナに個人的な手紙を送り、あの数ヶ月間の回想を書いて同封した。そしてこの秋、電話をかけてフォローアップをした。彼女の夫は、マリーナが手紙を受け取ったことを確約した。しかし彼女は私の回想は読んで無く、話したく無いと言っていると答えた。彼らの息子、マーク・ポーター(Mark Porter)は、母親が1962年にフォート・ワースへ到着したところから始まる私の話を聞いているが、インタビューに答えるのは拒絶した。

50年経った今、私はマリーナ・オズワルド・ポーターに聞きたかった。何故タイム誌はずっとあそこに置いてあったのか。ダラスで私の手紙をリーが受け取った時、何があったのか。そして何故、彼女はあの悲劇が起きた場所の近くに住み続けているのか。そしてなによりも、私は古い友人と話がしたかった。50年は長い年月だ。

~~ここまで~~

次回更新は11月30日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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