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ドリーム・ボート

ボート・ピープルに関する記事をUpします。

記事を書いたのはリューク・モーゲルソン(Luke Mogelson)さんです。元記事はここにあります。

インドネシアからオーストラリアのクリスマス島へボートで渡ろうとする人々に同行した記事です。

~~ここから~~

ドリーム・ボート

ンドネシアの首都ジャカルタからジャワ島南部の海岸まで、いつもなら車で2時間半かかる。そのルートを毎月のように、中東や中央アジアからの亡命希望者を満載して走るトラックだと、もう少し時間が掛かる。トラックの荷台から見える景色は、夜空の中に時おり過ぎてゆく高層ビル、高架橋、信号機、それに料金所といったものに限られている。人々が詰め込まれた車の中では、ぼやけた体の輪郭とか揺れ動くタバコの先端とか以外には形の判別は難しい。しかしながら、街灯や明るいネオンサインの前を通り過ぎる時に、つかの間見える顔は、希望で輝いている。やがて、都市の鼓動は収まり、高速道路の喧騒も遠ざかってゆく。風に音を立てる電線は暗闇にたたずむ椰子の木に取って代わられる。鳥が目に付くようになり、海の匂いが漂ってくる。

今年の9月、私はこういったトラックの1つに乗っていた。私の向かい側には最近テヘランで結婚した20代のカップルが座っている。7ヶ月の身重の妻は、赤いブラウスを着てお腹をしっかりと覆っていた。夫はタンクトップを着て、分厚い縁のメガネをかけ、フォークス・ホーク(faux hawk:ソフトモヒカン)の髪型をしている。その髪型のせいで頭の傷が見えていた(イランの警官にやられたんだと彼は言っている)。彼らがジャカルタへ来てもう2ヶ月が経っていた。今回は彼らにとって4回目の出発だ。今までの3回の内2回は、オーストラリアへ向かうボートのところまで行く途中に捕まり、賄賂を払って釈放された。あと1回はボートが出発直後に沈没した。にもかかわらず今回は違うと、彼らは自信を持っている。トラックに乗ったほかの全ての人間も同様、そこには追い詰められた信仰のようなものがある。「今夜こそ、私たちは成功する。」夫はそう私に確約した。2人は子供が生まれるのは「向こうだ」と決心している。

私たちは車に乗っている間に、熱帯の強烈な雨に見舞われた。雨は段々と強くなり、その勢いはまるで滝のようだった。亡命希望者はそれぞれ、小さな鞄に着替えや食料を入れている。雨ガッパを持っている人は、急いで取り出していた。嵐はどんどんと激しさを増してゆき、やがて寒さと惨めさが襲ってきた。初めのうち、都会から密かに抜け出すことにはしゃいでいた子供たちは、今、両親にしがみついている。私の横に胡坐をかいて座っている老人は、頭からビニール袋をかぶり、震えを止められずに、お祈りをつぶやいていた。

朝の3時頃、トラックはブレーキをかけ、轍のついた泥の道をバックで下がってゆく。雨は始まった時と同じように突然やんだ。誰も口をきかない。私たちは到着したことを知っていた。後部ハッチが開いて、私たちは外へ出た。2番目のトラックが後ろに駐車している。そこからも人々が流れ出していた。そこは木々が密集したジャングルの中で、上に広がる枝が月の光をさえぎっていた。数人のインドネシア人が群集を集め、先へ進めと強い口調で囁いた。「ゴー!ゴー!」彼らは英語で命令した。道路は急な坂を下り、歩いてしか通れない狭い道へと続いている。人々が暗闇へと歩いて行くのを追い立てるようにインドネシア人がついて来る。木々を通した先に見える青白いものは、白く輝く砂浜だった。57人の亡命希望者はジャングルの端にかたまった。

私たちは広い湾の中にいた。海に伸びる半島には明かりが点在し、風にさらされる波の上で瞬いている。甲板が無い船外エンジンの2艘のスキッフがアイドリングしながら沖に停泊し、静かに波に揺れている。私たちの後ろでは、トラックの音が次第に遠ざかり、やがて聴こえなくなった。突然インドネシア人たちは人々を海へと押しやり始めた。

「お前たち、行け。行くんだ!」

亡命希望者たちは2列になって、荷物を頭の上へ持ち上げながら、海へと分け入った。冷たい水が腰へ、そして脇の下へと上がってくる。ボートへよじ登るのは一苦労だった。誰か一人でも乗るとスキッフはひどく傾き、転覆するのではないかと思った。

私たちは木造の漁船へ連れて行かれた。スキッフよりはしっかりしていたが、それほど頑丈そうでも無い。だいたい30フィートの長さでオープンデッキ、船首には屋根があるが、運転席は一つで竹製の舵がついている。明らかに旅客を乗せるようには造られていない。キャビンもブリッジも隔壁も、ベンチさえも無いのを見て、私は自分の他にも誰か、はかない希望を抱いている人間がいないかと見回した。もっと大きな船が何処か遠い場所に碇を下ろしていて、この惨めなボートは私たちをそこへ連れてゆくだけだと言う、はかない希望を。

二人のインドネシア人船員が私たちに、デッキの上に集まって船縁の間にうずくまるよう、大げさな身振り指示した。彼らは防水布を私たちの上に広げて、端を舷側に縛りつけた。防水布の下の空気はすえた匂いがした。膝を胸に抱え込んで座った私たちは、エンジンがスタートするのを聴いた。やがてボートは波の間で大きな上下運動を始めた。

たちが目指しているのは、オーストラリアの領海内、インド洋を200マイル渡った先にあるクリスマス島と呼ばれる場所だ。もし天候が穏やかで船が持ち堪えれば、だいたい3日で終わる行程。しかしながら、しばしば天候は移ろいやすく、船が沈むこともある。過去10年間で1000人以上の亡命希望者が溺死したと信じられている。海には適さない船で乗り出し、船体の水漏れで水浸しになる。大波でひっくり返る。岩で砕かれる。生き延びたものは何日も漂うかも知れない。子供たちは両親が溺れるのを見、両親は子供が溺れてしまうのを見てきた。家族全員が死ぬこともある。6月以降、何隻かの船が沈み、100人以上の生命が失われている。

私が最初にインドネシアからオーストラリアへ向かう人々について聞いたのはアフガニスタンでのことだった。現在、私が暮らすアフガニスタンから脱出を図る大勢の市民たちの潮流は、合衆国が指導し、今や終わりつつある戦争が、成功したのかどうかを示すリトマス試験紙だ(オーストラリアに逃げ場所を求める最初の「ボート・ピープル」は1970年代中頃にアメリカ撤退に伴い大洋へと逃げ出したベトナム人だった)。去年は37,000人近くのアフガン人が亡命を申請したが、その数は2001年以降で最大だった。彼らは24,000ドル相当のヨーロッパへの旅券、および最高で40,000ドルかかるカナダへの旅券を喜んで払うことが出来るアウガン人たちだ(合衆国へのビザは通常、お金で買うことは出来ない)。他の人々は密入国業者を使い、イランからトルコを経てギリシャへ向かう、あるいはロシアからベラルーシを経てポーランドへ向かう険しい陸路を行く。

インドネシアからオーストラリアへ向かうルートは最初、9/11以前のアフガニスタンでおもにハザラ(Hazaras)族の間で人気のあるルートだった。ハザラはほとんどがシーア派の少数民族でタリバンから組織的に迫害されていた。タリバン政権が転覆してから、多くの難民が平和が戻ることを期待して国へ戻り、あえて海に命をかけるアフガン人の数はしばらくの間、減少した。しかし2009年後半になって、アフガン人たちはかつての楽観的迷妄から覚め始め、再び逃げ出した。オーストラリへの移民は膨れ上がりはじめる。同じようにこの時期、アフガニスタンからパキスタンの国境沿い地域へと追いやられたハザラ族も又、移住場所を必要としていた。彼らに向けてスンニ派から、宗派対立を原因とした聖戦、殺人、テロが襲いかかってくる。パキスタンの都市ケッタ(Quetta)ではハザラ族の市民が路上で撃たれ、大量に処刑され、ロケットや爆弾で無差別に殺戮された。

2010年、ケッタで行われたシーア派のデモ行進では、自爆テロによって70人以上が殺害された。その凄惨な現場の真上には、オーストラリア政府が掲げた大きな広告版がそびえている。広告版には粗末なインドネシア漁船に乗ったハザラ族亡命希望者の絵があり、その横にはダリ語で書かれたメッセージがある。「アフガン人がオーストラリアへ向かおうとしても、あらゆる不法ルートは閉ざされている。」その広告版は、クリスマス島へ向かう難民の意志をくじこうとする、オーストラリア政府による広範な努力の一つだ。最近アフガニスタンで流されたオーストラリア政府提供の広告では、ハザラ人の俳優が黒い背景の前で目をこすっている。「行かないでください、」悲しげな音楽が流れる中、その男は陰気に懇願している。「私の人生の多くの時間が、あそこで[の抑留に]浪費されました。そして結局難民申請は却下されたんです。」こういった広報活動(および、それが言及している強硬な政策)の他にも、オーストラリアは密入国ネットワークを分断するために、悪名高きパキスタン諜報局と協力し、インドネシアに秘密エージェントを潜入させ、密入国業者の逮捕に繋がる情報に最大180,000ドルの賞金をかけている。そして最も過激な入国阻止政策がこの7月に導入された。時のオーストラリア首相、ケビン・ラッド(Kevin Rudd)が、今後オーストラリアに船でたどり着いた難民はこの地に留まることを許さず、貧困にあえぐパプア・ニューギニアへ移送されると発表したのだ。数週間後、移送政策は拡大され、移送先としてミクロネシアの島国、ナウル共和国も含まれるようになった。

しかしその後も、多くの船が海を渡り、多くの人が溺れている。9月末には一隻の船が出港直後に2つに割れ、レバノンやイランやイラクから来た数十名の亡命希望者が溺死した。オーストラリア政府が難民をパプア・ニューギニアやナウル共和国へ移送すると宣言しているにも関わらず、多くの者が死を賭して海を渡ってゆくのは理屈に合わないこと、あるいは全くの狂気の沙汰に思われることだろう。オーストラリア政府は難民流入が収まらない原因を、密入国業者が流す間違ったプロパガンダのせいだと説明している。しかし多くの亡命希望者が嘘を信じるのは、それが自分で選んだ道だからでもある。彼らがこの道を選んでインド洋に命を賭け、そして次々と死んでゆく事実は、彼らが抱える絶望に対し新たな角度から不穏な光を当てる。この事態は全ての難民が抱える苦悩を言外に言い表しているのだ。どんな苦難が待ち構えていようとも、彼らはそれを耐える。なぜならそれのみが、自分たちが逃げようとしている苦難を打ち破る唯一の方法だからだ。全ての脱出の物語は、彼らの故郷でのもっと悲惨な物語を暗示している。

ーストラリアの官憲が逮捕したがっている密入国業者のサービスを、カブールで受けるのは驚くほど簡単だった。インドネシアまで行ったことがある全てのアフガン人の主張に従えば、私にとっての唯一の問題は、西洋のジャーナリストは船に乗ることを許されないということだけのようだった。政府の諜報員に対するパラノイアは非常に強い。それで、写真家のジョエル・ヴァン・フート(Joel van Houdt)と私は難民を装うことにした。2人とも白人であったので、何らかの言い訳を考えねばならない。私たちはグルジア人だと言うことにした(それ以外の選択肢はロシア語を話せる人間と出くわす危険を考えて却下した)。そして2008年の内戦時に政府に都合の悪い情報を知ってしまい(これは捜索されたときにカメラや録音機を持っていることの言い訳でもある)、密入国業者を探してカブールに逃れ、アフガニスタン滞在中にダリ語を学んだと言う筋立てだ。私のアフガン人の同僚であるハキム(Hakim、彼の本性を隠すために名前は代えてある)は、商売の足場を探している土地の策謀家と言うことにした。これはけっこう良く練られた話で、いかにもありそうな設定だった。

全部の準備が整うと、ハキムがジャカルタに住むアフガン人年長者に電話した。その人物はハッジ・サヒブ(Hajji Sahib)という敬称で知られる男だった。ハッジ・サヒブはインドネシアで良く知られた密入国業者で、彼の携帯番号は、アフガン人の間では、比較的簡単に手に入る。ハキムは、ハッジ・サヒブの下へ送りたい2人のグルジア人、レバン(Levan)とミヘイル(Mikheil)が自分のところにいると説明した。ハッジ・サヒブは私たちの物語を問いただそうともせず、それぞれ4000ドルの金額でジョエルと私をジャカルタからクリスマス島へ送ることに同意した。この金額は、ハキムが仲介者としてこれから多くの仕事を持ってくることを期待して、若干安く付けられたものだった。

数日後、私たちはカブールにある混雑した両替市場、サライ・シャフザダ(Sarai Shafzada)を訪れた。オールド・シティーを曲りくねって流れる汚れた川の川岸の上に青空市場があり、サライ・シャフザダはその向こうに隣接して存在する。その入り口は狭い路地で、パキスタンのルピー、イランのリヤル、アメリカのドル、そしてアフガニスタンのアフガニス(afghanis)の札束を抱えた商人たちで混雑している。路地の向こうは中庭になっていて、外付けの階段が周りの建物のバルコニーに通じている。バルコニーは全ての階で中庭をぐるりと取り巻いていた。あらゆる場所に札束を抱えて値段を交渉する商人がひしめいている。少し名の通った商売人は狭いオフィスを構えていて、両替以外にも色々なサービスを提供していた。そのサービスはハワラ(hawara)として知られている。彼らはムスリム世界全体で使われる送金システムのブローカーだ。誰かカブールの人間がハワラのシステムを使ってパキスタンの親族にお金を送ろうとしたとしよう。彼はその金額に手数料を上乗せしてサライ・シャフザダのブローカーに支払い、代わりにコードを受け取る。受取人はそのコードを使って、ペシャワールのブローカーからお金を受け取る。ペシャワールのブローカーはその金額をサライ・シャフザダのブローカーに貸したことになる(その負債は後日、反対方向の取引によって相殺される)。

アフガニスタンでは多くの人が銀行口座を持っていないが、外国に住む家族がいる人は多い。ハワラ・システムはほとんどの合法的送金を円滑に行ってくれる。しかしながらこのシステムは同時に、非合法の取引にとっても魅力的だ。2011年、合衆国財務省は、アフガニスタン麻薬密輸業者のための数百万ドルのマネー・ロンダリングに関わったとして、サライ・シャフザダの主要な業者の1つをブラック・リストに載せた。タリバンも又、ペルシャ湾岸諸国やパキスタンのパトロンから受け取る寄付金の内、相当な量を、ハワラ・システムを通して受け取っていると考えられている。

難民の密入国は、ほとんど全部がハワラを通して行われる。ハッジ・サヒブの代理人モハンマド(Mohammad)はサライ・シャフザダを見下ろす3階のオフィルを構えていた。私たちがそこへ行くと、机の向こうに座ったモハンマドは、きしんだ音を立てる扇風機の風に飛ばされないようピンで留めたレシートに何か書いていた。机の上に置かれたグラスのお茶は半分飲みかけだった。長い髪をボサボサにし、姿勢が悪く、ニキビを浮かべたモハンマドは、未だ10代だと言っても通りそうだった。他にも若い男が数人、壁沿いのプラスチック製の椅子に座り、携帯電話と電卓で仕事をしている。ハキムがハッジ・シャヒブの仲介者だと自己紹介すると、皆、一瞬視線を上げて彼を見た。若干緊張が走ったように見えた。

モハンマドは即座に、ハッジ・サヒブの正直さ、それに自分自身の正直さを、強く売り込み始めた。彼は私たちに向けて、熱心に自分たちの能力を保証した。「俺たちは大勢の密入国業者を代表している。」モハンマドは自慢した。「オーストラリア行きもヨーロッパ行きもある。毎月何十人もの人々が俺たちに金を支払っている。」彼は黒い台帳を取り上げ、振り回して見せた。「このノートを見てくれ!俺は全ての顧客の詳細な情報を書き留めているんだ。」

私たちは彼に、私たちの偽名と偽りの出自を告げた(「グルジア人なんだ?」私たちは初めてそう訊かれた。もちろんそれが最後ともならなかった)。少しばかり躊躇しながら私は8000ドルを数え上げた。モハンマドは金を受け取ると、ハワラ・コードがペンで書かれた紙片を渡した。レヴァン:105。ミヘイル:106。モハンマドは私たちがクリスマス島に着くまで、ジャカルタの取引先が金を支払うのを止める。これによって、理屈の上では、ハッジ・サヒブが仕事を終えない内に金を取り出すのを阻止できる。これは又、私たちの船が沈んで私たちが溺死しないよう、ハッジ・サビブが注意を払うのを保証している。

ーストラリアへ向かうほとんどの亡命希望者は、ジャカルタまで飛行機で行く。不規則に広がる首都に着いた翌日、私はハッジ・サヒブを呼び出し、次の日の朝に混雑した交差点にあるセブン・イレブンでピックアップしてもらう手配をした。私とジョエルがセブン・イレブンの外のベンチに座っていると、時間通りにハワイアンを着たインドネシア人が現れた。彼は疑わしそうに私たちを見ると、携帯電話を渡した。

「その男と一緒にタクシーに乗れ、」ハッジ・サヒブが言った。「彼が安全な場所へつれて行く。」

1時間あまり黙って車に乗って行くと、都市の北の端、ジャカルタ湾の海岸のスペースを、ゲーテッド・コミュニティーと、岸辺にゴミを積み上げる乱雑なスラム街とが競っている場所へ着いた。私たちは高々とそびえるタワー型複合住宅の駐車場に車を停めるとエレベーターで23階へ上がった。薄暗い廊下を中ほどまで進むと、男は金属製のセキュリティ・ドアをノックした。バービー人形が描かれた服を着る小さな女の子が私たちを中に入れてくれた。イラン人の男がガラス・テーブルに座って、飲料水ボトルの蓋にタバコの灰を落としている。小さな男の子がマットレスの上に横たわり、テレビでアニメを見ていた。「O.K.?」インドネシア人の男はそう言うと、誰も返事をしないうちに出て行った。

その男、ヨウセフ(Youssef)は、8歳の息子アノウシュ(Anoush)と6歳の娘シャーラ(Shahla)と共に、もう2週間そのアパートで暮らしていた(この物語の中の亡命希望者の名前は、全て安全のために代えられている)。ヨウセフはテヘランでビルの外壁を直す仕事をしていた。ハッジ・サヒブに金を払う為に、彼は全ての持ち物を売り払い、借りていた家も明け渡した。彼は妻を、妻の両親の元に残している。自分と子供たちが合法的にオーストラリアへ移住できたら呼び寄せるつもりだ。「イランには仕事が無い、生きてゆけない、子供たちの将来も無い、」ヨウセフはアノウシュとシャーラへ向けてうなずきながら、私にそう言った。「子供たちがしかるべき地位につけるよう、学校へ行かせてやりたいんだ。」

私たちは3部屋あるアパートの一室でテーブルについて座った。テレビと冷蔵庫が遠く離れた壁沿い、シンクとカウンターの反対側に、2つの炉を持つキャンピング・ストーブと共に据え付けられている。ヨウセフは見たところ、新しい同居人に興奮している様子は全く無かった(部屋には2つしかベッドが無く、その内一つは狭いツインベッドだった)。その一方、アノウシュとサフラは競って私たちを歓迎しようとした。ジョエルと私が「綺麗な髭をもっている」とシャーラがほめてくれると、アノウシュは私たちのためにチキン味のインスタント・ヌードルを用意しようとした。

シャーラが言った。「イランの人は皆、泥棒になってしまうの。」

「オーストラリアでは警官になりたいんだ」アノウシュが宣言した。「泥棒を捕まえてやるんだ。そして言ってやる『ホールド・アップ』って。」

ヨウセフは見たところそれを許可している様子は無い。「2人とも勉強しないとな。」彼は言った。

このタワーの別の階を含むさまざまなアパートには、約30家族あまりの亡命希望者が入っていた。その内何組かはハッジ・サビブのもの、他の者はライバル関係の密入国業者のものだった。驚くべきことに、大多数はアフガン人では無くイラン人だった。ほとんどは都市に住む中流の下の人たちだ。彼らは建設労働者だったり、運転手だったり、売り子だったり、床屋だったりする。ある男はイスラム法学者だと主張している。別の人間は成功したエンジニアだと言う。彼らが故郷を離れた理由は様々だ。彼らは皆、政府とか、窒息しそうな自由とかに不満を持っている。数人は政治的訴追の標的にされそうになったと言っている。彼らは経済状況の悪さを嘆く。2006年にイランの核開発を阻止するために導入され、後にさらに厳しくなった国際社会からの経済制裁によって、自分たちの家族を養う力は損なわれたと、彼らは言う。彼らは子供の将来を悲観する父親たちであったり、イラン国内では子供を持つことを禁止された人たちであったりする。故郷での生活を描写する時に、彼らが最も良く使う言葉はna-aomid、希望が無い(hopeless)だった。

私たちがそのアパートに移り住んでしばらくして、ラシッドという名のイラン人が訪れた。ラシッドは病的な青白い顔をしていた。私は直ぐに、そういった表情を、2ヶ月以上足止めされた亡命希望者と結びつけるようになった。栄養不足と心理的疲労の組み合わせによるものだ。彼は椅子の上に崩れ落ちると膝に肘をつき、頬を手で支えた。彼はまるで重力から体を持ち上げる基本的な元気さも足りていないかのようだった。ジャカルタに来て1ヶ月経った頃、クリスマス島へ向かう船に乗ったと、ラシッドは私に話した。エンジンが直ぐに壊れて、何日も漂流したと言う。船体ポンプの変わりに、ラシッドを含む数名の男たちは、木の羽目板から染み出して船体に侵入してくる水をバケツで汲み出した。やがて水も食料も尽きた。もし波が沖合いの島へ運んでくれなければ、彼らは脱水症状で倒れていただろう。その島で彼らは逮捕され、インドネシア警察に賄賂を渡して釈放してもらわねばならなかった。

「私たちはここへ戻ってきたんだ。」ラシッドは言った。「密入国業者は言ったよ、『心配するな、直ぐに又、連れて行ってやる』って。」

私はジョエルに視線を向けた。カブールにいた時、電話を通してハッジ・サヒブは、直ぐにジャカルタへ来るよう私たちを駆り立てた。次の船はもう出発準備が整っていると言って。

「私たちの密入国業者は、明日にも出発すると言ったんだ。」私は言った。

ラシッドは笑った。「ああ、あいつらはそう言うさ。」

つことは辛い。何もしないでいることは、最も面倒な苦行だ。事実として、密入国業者が、昼でも夜でも、いつ連絡してくるか判らないということは、注意を高く保ったまま、永遠に宙ぶらりんでいることを意味している。それは同時に、あまり遠くへは行けないことも意味する。ほとんどの亡命希望者は、警官を恐れるのに加えて上記の理由のため、決して建物から出ない。一般的に言って、彼らは一日のうち出来うる限り長い時間を寝て過ごす。タバコを吸ったり、おそらくは景色を変えるために、お互いの部屋を交換したりする。もっとも、どの景色もほとんど同じなのだが。ほとんどの者は文無しだ。食事は、このアパートでは結局のところインスタント食品なのだが、1日に1回か2回。たまにパンを食べる。寝る時、ヨウセフとアノウシュとシャーラは、2つあるベッドの内1つを一緒に使っている。もう1つのベッドはジョエルと私が代わり番こに使う。ベッドで無い時は、床に敷いた薄いマットレスで寝る。夜はマットレスの方が寝やすかった。何故ならマットレスは冷蔵庫の前に敷いてあり、汗まみれで目覚めたとき、ちょっとの間、扉を開けて、冷たい空気が味わえるからだ。それにベッドに比べれば蚤が少なかった。

そのビルの中の亡命希望者のほとんどに子供がいたが、一緒に連れてきているのはヨウセフだけだった(他の者はオーストラリアへ言ってから家族と合流するつもりだ)。はたしてアノウシュとシャーラがこの経験をどういうふうに消化しているのか、推し量るのは困難だった。私が見たところでは、2人にとって苦難や奮闘よりも冒険のスリルの方が勝っているように見える。遊び相手が他に誰もいなくても、2人は何か面白いことを見つけるのがとても上手だった。シンクの下から見つけた羽根のハタキは、素晴らしいオモチャだった。ビニールの買い物袋は風船に姿を変えた。インスタント食品にいつもついて来るソースの袋で、テーブルの上に面白い絵を描いていた。探検する場所もたくさんあった。このタワーは、一種、自給自足の小さな都市でもあった。敷地内の中庭に隣接した4つのウィングには店が連なり、人々はフィッシュ・フライを買って、コンクリートの演台の周りの屋外テーブルで食べている。毎晩、皴だらけのインドネシア人が、カラオケでジョン・デンバーやジョニー・キャッシュを歌っている。ムスリムのモスクも、キリスト教の教会も、仏教の寺院もあった。でっかいゴキブリや尻尾のない猫を追いかけることもあった。そしてもっとも喜ばしいことに、ここにはプールがあった。

2人には水着も余分な着物も無かったが、下着で充分だった。2人とも有り合わせの物を活用する才能に長けていた。シャーラが使い古しの皿拭きを見つけてきてタオルとして使った。アノウシュはキッチン・ナイフを使ってエアコンの後ろからホースを切り出し(どっちにしろエアコンは壊れていた)、シュノーケルに使った。何かを見つけ出す2人の才能はプールでも発揮された。2人は毎日、何かしら見つけてきた。ゴーグルとか石鹸とか浮き輪とか。

ヨウセフは部屋の中を歩き回っていることが多く、結局、ジョエルと私がプールで2人を見守った。アノウシュもシャーラもあまり泳げないのを見て、私たちは不安になった。

一度も船に乗ったことが無いアノウシュに、この旅を不安に思わないか訊いてみたら、彼は舌を鳴らして言った。「怖くなんか無いさ、いつだって笑っていられる。」

2人の父親はそれほど楽天的でも無いようだった。私たちがここに来て直ぐ、ヨウセフが無一文であることが判った。もしジョエルや私が水とか食料とかを買わなければ、彼らは単に無しで済ませていたことだろう。夜中に蚤とか暑さとかで目が覚めると、ヨウセフが窓辺に座って外の炎を眺めていることがよくあった。夜の闇の中に明るい島のように輝き、奇妙な色の煙を上げるその炎は、スラムの住人がゴミを燃やしてできたものだった。全員がストレスを感じていたが、2人の子供を連れ、無一文のヨウセフは、特に追い詰められていた。彼は怒りっぽかった。ちょっとしたことで直ぐにアノウシュや他の亡命希望者に怒りを向けた。多くの者が彼を避けていた。

そしてある日、ヨウセフの家族がお金を送ってきた。その電話がかかって来た時、私はアパートの部屋で彼と一緒に座り、タバコを吸っていた。そのニュースで彼は変貌した。喜びで溢れた笑顔を浮かべたヨウセフは飛び跳ねると歌って踊りだした。

その夜、ジョエルと私は、中庭でラシッドと飲んでいる彼を見つけた。アノウシュとシャーラは、キャンディーの袋を揺らしながら店から店へと走り回っている。ヨウセフは私たちを見つけると、座れと言い、誰にとも無く大声を上げて、もっとビールを持って来いと言った。年配のインドネシア人の一群が近くでドミノをしていて、彼を不愉快そうに見ていた。ヨウセフは気にしなかった。彼はテーブルの上に屈み込み、マジックで落書きをした。

ラシッドは友人の様子に恥かしそうだった。「彼は当惑しているんだ、」ラシッドは言った。「いつ行けるかも判らずに子供と一緒にここで待つのは、きついことさ。」

ヨウセフは陰気な顔でうなずいた。

「私も当惑している。」ラシッドは言った。「気が狂いそうさ。イランに2人の息子がいるんだ。妻にも息子にも、もう1年も会ってない。」

オーストラリアの前に、ギリシャ経由でヨーロッパへ行こうとしたんだ、とラシッドは言う。彼はトルコを経由してアテネまで行ったところで密入国業者に身包みはがされた。イランに帰るよりも、彼はインドネシアへ来ることを選んだ。「毎日のように、奴らは言うんだ。『明日、明日』って、」ラシッドは言う。「でも明日は決して来ない。」

アノウシュとシャーラがやってきてヨウセフにお金をせびった。2人は小銭が欲しかった。ヨウセフは何枚か札を抜き取ると2人の方向へ放った。数枚が地面に落ちた。

「ビール!」ヨウセフは近くを通る女性に叫んだ。そして彼は決まり悪そうにラシッドを見て付け加えた。「頼む!ありがとう!」

てのボート・ピープルを、パプア・ニューギニアかナウル共和国へ送るというオーストラリアの決定は、全員の不安を増やしただけだった。そのニュースを真剣に受け止めることを自分自身に許している者は1人もいないが(もしそうしたら、あきらめて家へ帰ると言う、有り得ない選択肢しか残らなくなる)、かといって決定的に否定することも出来なかった。「そいつは人々を怖がらせて来させないための嘘さ。」ヨウセフは私がその話題を振ると言った。別の男は、私が考えを訊こうとしたら、興奮して言った。「あいつらに、どうやってそんなことが出来る、」彼は主張した。「皆、危険を犯しているんだ。自分たちの命を自由に出来ないって?あいつらにそんなことは出来ん。」3番目の亡命希望者は肩をすくめて、その政策を否定した。「これは政治的ゲームさ、」彼は私にそう言った。

色々な意味で彼は正しい。オーストラリアの政治においてボート・ピープルがどれほどの議論を呼ぶ問題であるかは、強調し過ぎることは無い。アメリカ人の視点から見ても、移民問題が持つ激しさは、極めて馴染み深いものだ。しかしオーストラリアを独特にしているのは、ポート・ピープル問題が国家的議論に占める大きさと、実際の問題の大きさの間にある格差だ。過去4年間、ほとんどのヨーロッパの国は、人口比率において、オーストラリアよりも多くの亡命希望者を受け入れている。その中の幾つかの国、例えばスエーデンとかリヒテンシュタインとかは、7倍も受け入れている。その一方、この10年間、歴代オーストラリア政府は、相も変わらずボート・ピープル問題に捉われ、この問題を中心的議題にし続けている。

2001年夏、ノルウェーの輸送船、MVタンパは、433名の亡命希望者を救助した。そのほとんどはアフガン人で標準的な漁船に乗っていた。彼らをインドネシアへ帰す代わりに、タンパの船長、アルネ・リンナン(Arne Rinnan)は、クリスマス島へ行きたいと言う彼らの要求に従った。オーストラリアは船が領海に入るのを拒み、それに続く膠着状態は、リンナンとノルウェーを国連に訴えると、オーストラリアが脅す事態にまで進んだ。再選運動中で、ほとんどの世論調査で対立候補に遅れをとっていた保守派の首相ジョン・ハワード(John Howard)は宣言した。「この船とその乗員に対し、オーストラリア上陸を許可しないという決定を、我々は極めて強硬に維持する。」自船上の亡命希望者の待遇が悪化してゆくのを恐れたリンナンが、最終的に島に向かって進み始めると、ハワードはオーストラリア官憲をタンパに乗船させて船の進入を停めた。袋小路は、ニュージーランドとナウルが亡命希望者の受け入れに同意してやっと解決した。ハワードの行動は有権者には広く人気があり、2ヵ月後に彼は再選された。

いつの日にかオーストラリアに定住する可能性を残しながら、手続きが処理されている間、ボート・ピープルを第3国へ出国させてしまう、という政策は国家の公式の戦略として実質的に採用されてしまっている。一般的にパシフィック・ソリューション(Pacific Solution)として知られるこの政策の下、クリスマス島へ上陸しようと試みた亡命希望者は、海軍によって阻止され、ナウルやパプア・ニューギニアの収容所へ送られる(両方ともオーストラリアの援助に強く依存している国だ)。パシフィック・ソリューションは、難民や人権活動家から非難されている。収容所の厳しい環境や、書類が審査される間、収容所で過ごさねばならない亡命希望者の、時によって数年はかかる長々とした待ち時間を、人々は批判する。収容所ではうつ病を含む精神疾患が蔓延している。自傷事件は頻繁に起きる。2003年にナウルの収容者は一週間のハンガーストライクをして抗議した。その間、数名の者は唇を縫い合わせていた。今年の9月、タンパ号の船長アルネ・リンナンはインタビューに答えて、彼が助けたアフガニスタン難民が最近、ナウルから手紙を送ってきたと話した。リンナンによれば、その男はこういったと言う。「私がインド洋で、彼らを拾い上げるのでは無く、そのまま死なせてしまえばよかったと言うのです。」

2007年に労働党が議会の支配力を取り戻し、新しい首相ケビン・ラッドはパシフィック・ソリューションを廃棄した。彼が任命した移民相はこの政策を「人道的でも公平でも無い」と言っている。国連をはじめ、ほとんど全ての難民に関わる機関はこの行動を賞賛した。しかしラッドは2010年に労働党党首の座を失い、後継者のジュリア・ジラード(Julia Gillard)は沖合いで難民を阻止する戦略を復活させた。2013年、党首に復帰したラッドは、明らかに過去の教訓から学んでいて、ジラードの政策を維持した。7月の再選運動の中で、ボート・ピープルがオーストラリアへ定住する可能性をラッドが否定したのは、こういった流れを受けてのものだった。「この決定が非常に強硬なものだということを私は理解している。」彼は国民に向けた演説でそう認めた。彼はそれを、有権者に理解してもらうのを切望しているように見えた。

ラッドのライバルで保守派のトニー・アボット(Tony Abbott)はこの決定を覆さないだろう。アボットの選挙運動を特徴付けるシュプレヒコールの一つは「Stop the boats!(ボートを停めろ)」だ(もう1つは、炭酸ガス排出違約金に向けて叫ばれる「Axe the tax!(税金に大鉈を)」というものだ)。ボート・ピープルの流入を「国家的危機だ」と宣言するアボットは、ラッドよりもさらに厳しいスキームを提案していて、それを「Operation Sovereign Borders(絶対境界作戦)」と呼んでいる。幾つかある予防措置の中でも、軍事的な意味を持つこの施策は、海軍軍艦を配置し、亡命希望者がオーストラリア海岸に着く前に、海に追い返すことを求めている。

選挙の投票は、ヨウセフとラシッドが中庭で酔っ払っていた夜から、一週間もしない内に行われるはずだった。どっちの候補が勝ったとしても確かなことが1つある。ヨウセフもラシッドも、アノウシュもシャーラも、彼らが向かっていると信じる土地にたどり着けないということだ。ラシッドが、どこかオーストラリア郊外の静かな土地で、妻や息子と一緒に暮らすことは無いだろう。ヨウセフは、自分の子供たちがそれなりの地位を占めるのを見ることはできない。アノウシュはオーストラリアの警官にはなれない。シャーラが非宗教的な西洋式教育の恩恵を受けることは無い。その代わりに彼らが、危険な航海を経て、何ヶ月も、おそらくは何年もの間、隔離された収容所に入れられた後に見ることになるのは、70%が居住不可能な遺棄された露天掘り鉱山の不毛な残骸(ナウル)か、殺人と性暴力の多さで有名な貧窮し犯罪が蔓延る島国(パプア・ニューギニア)への移住だ。

自分を故国から完全に切り離し、他の国へ行こうとしている人間に、いったいどうやってそんな話ができるというのだ?そんなことは不可能だ。彼らは決して信じない。

ジョエルと私は、湾に沿って歩いていた。海岸には数十人のスラムの住人が集まり、艀に乗ったシャベルカーが浅瀬の泥をすくい上げ海岸へ捨てるのを見ていた。ヨウセフが私の携帯電話を呼び出し、直ぐタワーに戻るように叫んだのはその時だった。私たちは出発しようとしていた。アパートに戻ると、2人の若いイラン人女性、ファラー(Farah)とリマ(Rima)が大きなバックパックを持ってテーブルに座っていた。ヨウセフは、船酔いに聞くといわれるナツメヤシとレモンを、急いでカンバス地のメッセンジャー・バッグに詰め込んでいる。彼が、アノウシュとシャーラがプールで見つけた浮き輪も詰め込んでいることに私は気がついた。

アヨウブ(Ayoub)と言う名のイラン人が現れて、私たちの車が待っていると言った。ヨウセフと女性たちの、彼に向けたへりくだった様子と、私たちのパニック振りに比べて際立ったその堂々とした様子から、この男は密入国業者だと私は推測した。軍隊式に短く刈り込んだ髪にカイゼル髭を生やしたこの男は、ノースリーブ・シャツを着て、鍛え込まれた印象的な左の三角筋に英語で「Life is hard」と刺青をしていた。

私たちは、ずんぐりしたインドネシア人が運転する、窓が着色された新車に乗り込んだ。そのインドネシア人は小指の爪を長く伸ばし、先を針のように尖らせていた。彼は2分おきにゲップをして、フレーバーのついたタバコをひっきり無しに吸っている。アノウシュとシャーラは浮かれていた。高速道路に入ると、2人は船や海の話を止められなかった。女性たちは直ぐに2人を可愛がり始めた。ファラーはアノウシュを膝に座らせ、リマはシャーラのぼさぼさ髪を編んであげた。子供たちはそういった愛撫を、無我夢中の感謝と餓えた様子でもって、まるで滋養物のように受けていた。ジャカルタへ来てからこの2人は、自分たちの母親だけで無く、そもそも母親というものに会えなかったと言うことを、私は思い返した。

私たちは道すがら、3回ガソリンスタンドに止まり、他のドライバーと連絡を取った。数時間後、都市から離れる頃になると、私たちは6台の同じような車の先頭に立っていた。全てが亡命希望者を乗せていた。それは少し目立つ行列に思えた。そして、木が密集した山の、狭いワインディングロードに入る頃には、はっきりと目立つ行列になっていた。店とか村とかを過ぎるとき、人々が行列を見に外へ出てきている。それは夜の8時か9時くらいだったと思う。ドライバーが誰かから電話を受け、スピードを上げると森の中へ入るわき道に逸れた。他の車もついて来た。車を停めるとライトとエンジンを停め、ドライバーは私たちを振り返って言った。「シー!警察だ」

彼は車を出ると、仲間たちと相談した。そして戻ってくると急ぎ出した。向こう見ずにブラインドのカーブをスピードを上げて進みながら、私たちは来た道を戻って山を降り始めた。あるきついカーブを曲がると、黒いS.U.V.が道をふさいでいた。サイレンが鳴り、青い光が閃いている。私たちは急停止した。平服を着て黒い野球帽を被った警官がドライバーの横に来た。開いた窓から覗き込んだ彼は、子供と女性がいることを記録した。そして少し躊躇した後、後ろに下がってドライバーの顔の真ん中をひっぱたいた。

S.U.V.を後ろに従えながら、私たちは、わき道に枝分かれする地点まで戻った。他の5台はそこに居た。数台の警察車両と4輪駆動のトラックに囲まれている。群衆が集まってきていた。私たちには何が起こったのか良く判らなかった。何人かの警官がライセンス・プレートと亡命希望者の写真を撮っている。その他のものは、愛想良さそうにドライバーと冗談を言い合っている。全ての人が携帯でどこかに電話していた。ある時、私たちの運転手が窓から頭を突っ込んで、親指と人差し指をすり合わせた。「金、金」と彼は言った。しかし次の瞬間、直ぐに彼は引っ込んだ。

最終的に、私たちは警察車両を先頭に、トラックを後ろに従えながら、道を先に進んだ。ドライバーに説明を求めるのは無駄なようだった。彼は赤くなった頬をさすりながら、ブツブツ独り言を言って自己憐憫に浸っている。リマが、やっとアヨウブを呼び出すと、彼は心配するなと言った。ハッジ・サヒブが全て上手くやる。

私たちはサカブミ(Sakabumi)の警察署へ連れて行かれた。そこではメガネをかけて軍服を着、ベレー帽を被った年かさの人間が取り仕切っているようだった。再び全てのドライバーが外に出された。写真を撮られ、電話がかけられた。数時間後、同じように前後を挟まれながら、私たちは再び移動を開始した。どのくらい乗ったのか定かでないし、何処で止まったのかもはっきりしない。唯一覚えているのは、他には何も無い道沿いに建つ、2軒のシャッターが下りた店だ。興味深いことに、ちょうど私がリア・ウィンドウから見ていた時、1台を残して全ての警察車両が向きを変え、サカブミへ戻って行った。

唯一残った若い警官は、日に焼けた制服を着て、金網のフェンスに寄りかかるとタバコを吸い始めた。明らかに私たちに興味を持っていない。直ぐに亡命希望者たちが車から出てきた。10代のアフガン人グループが急いで歩み去るのを、警官が顔色も変えずに眺めているのを見た後、全ての人が、通りかかるトラックとか通勤途中の車を呼び止めて、乗り込み始めた。大型の通勤バスが現れると、警官はそれに止まるようサインを送った。未だ逃げていない残りの私たちは、バスに乗り込んだ。

私はバグダッドから来たイラク人家族と前のほうに座った。ヒジャブを被った若い女性とその夫、義理の父と3人の子供からなる家族だった。

「私たちは何処へ行くんでしょう?」イラク人女性が英語で聞いた。

「判りません。」私は答えた。

誰かが運転手に聞いた。

「ボゴール(Bogor)」彼は答えた。

「ボゴールって何処ですか?」イラク人女性が訊く。

「判りません。」私は答えた。

それはその路線の終点だった。バスが止まると30人ほどの、イラン人、イラク人、アフガン人の亡命希望者がバスから降りた。誰一人どうしたら良いか、はっきりとは判らない。もう夜明けが近かったが、ボゴールの店は全て閉まっていた。私たちは全員、ハイウェイへ向けて歩いた。バックパックやビニール袋に詰めた食料と衣服を持つ種々雑多の疲れた人間たちだ。皆、タクシーを呼び止め始めた。ヨウセフと子供たち、リマにファラー、そしてジョエルと私は、通勤途中のミニバンを捕まえて20ドルでタワーへ戻るように交渉した。タワーに着いた時はもう日が昇っていた。アパートは相変わらず汚れていて、臭く、暑かった。ヨウセフはヌードルを食べようと、ポットに水をくんで火を点けた。

日後、ジョエルと私が、階下の店へ行く途中、今まで見たことの無い若い中東の男が近づいてきた。「一緒に来い。」彼は言った。

私たちは彼について中庭に行った。中庭ではアヨウブがテーブルについて山盛りの昼食に取り組んでいた。

「カバンとアパートのキーを持って来い。」アヨウブは私に言った。そして、鳥の骨を皿に落とすと、大きな音を立てて指についた脂を舐め取った。親指から小指まで一本ずつだ。

アパートに登ってこのニュースをヨウセフに言うと、彼はただうなずいただけだった。その反応は予想と違った。「アヨウブが来ている、」私は言った。「出発するんだ。」

「あいつは俺たちも一緒だと言ったか?」ヨウセフは訊いた。「それともお前たちだけか?」

私には理解できなかった。「俺たちは一緒に行くんだ。もちろん。」

ヨウセフは納得してない様子で荷造りもしなかった。数分後、ハッジ・サヒブが電話してきた。私はホールに歩み出た。

「今、イラン人家族と一緒か?」彼は言った。

「そうだ、ほとんど準備できている。」

「アヨウブはもう出発した。お前はタクシーで別の場所へ行かねばならない。イラン人家族はそこに置いて行くんだ。彼らは来られない。あいつ等の金に問題があるんだ。」

アパートに戻ると、ヨウセフはストーブの側にいた。彼はシャーラにシャワーを浴びさせていた。アノウシュはアニメを見ている。

「何が起きているんだ?」私は言った。

ヨウセフは首を振った。ジョエルと私が、自分たちだけで行かねばならないと言っても、彼からは何の抗議も非難も無かった。それがどんなに惨めでも、ヨウセフはこの事態と折り合っているようだった。そして私は、彼がこれを予期していたことも感じた。彼はタバコに火をつけ、マットレスに横たわった。シャーラは未だシャワーを浴びている。アノウシュが事態を理解しているのは、私にも判った。彼の目は、テレビのアニメに釘付けになっていた。

たちは、ジャカルタの反対側にある、ずっと良いビルにタクシーで到着した。20代前半の痩せたイラン人がロビーで私たちを待っていて最上階に連れて行ってくれた。アパートの中では、ファラーとリマが、3人のイラン人男性とコヒー・テーブルの周りに座っていた。テーブルの上には何台もの携帯電話が列になって置いてある。女性たちは暖かく私たちを迎えると、シーヤ(Siya)と言う1人の男を「ボス」だと言って紹介してくれた。筋肉質でシャツを着ず、胸に繊細な鳥の翼の刺青を入れたシーヤは、忙しそうに雑誌のページを折りたたんでゴムで止め、長い柄のナイフの鞘にしようとしていた。

ナイフを気にしている私を見てファラーはいった。「護身用よ。」

シーヤは私たちに、携帯電話をテーブルの上に置くように言った。そしてもう携帯を使うことは許されないと告げた。

「ここへ来るように言ったのは誰だ?」彼は訊いた。

「ハッジ・シャヒブ。」私は答えた。

「誰がハッジ・シャヒブに紹介してくれたんだ?」

「カブールのハキムさ。」

「カブールのハキムかい?」シーヤは、いかにも知っているかのようにうなずいた。「O.K.グッド。」

しばらくすると、中年の男性とその息子が私たちに加わった。シーヤは2人をそれぞれ、それこそ1分以上抱きしめた。父親はアミール(Amir)と言い、イラクとの国境沿いで店を開いていたと言う。息子のサミ(Sami)は9歳で、メガネをかけた小太りの男の子だった。2人は私がジャカルタで会ったなかでは、もっとも愛想の良い人たちだ。アミールはシーヤより年上だったが、その柔和な性格ゆえに、従属的な立場へと自分で自分を追いやってしまう人間のようだ。誰であっても他人を不愉快にすることを嫌うアミールは、2人の間の奇妙な力関係に従って、踵を鳴らしてボスに敬礼をした(その返礼としてボスは、おどけた教官の口真似で、スクワットだの腕立て伏せだのを号令した)。後でシーヤが武器を調べさせてくれと言った時、アミールはポケットから薄っぺらなステーキ・ナイフを取り出して見せた。

真夜中近くになって、シーヤが電話を受けた。彼は皆に携帯電話を返し、私たちはエレベーターで地下駐車場へ向かった。そこには又別の、窓を着色した新車の車列が待っていた。全ての車両は既に満員だった。数マイル進んでハイウェイを降りたところで、ドライバーたちがトラックの後ろに一列に車を停めて、出てくるように言ったとき、私たちは皆、ホッとした。

海岸へ行く途中の激しい雨を通り過ぎ、胸までの深さの水に分け入ってスキッフに乗ったので、全員がずぶぬれだった。2人のインドネシア人船員が、私たちの頭の上に被せた防水布をめくり上げた時、未だ外は暗かった。ぼんやりした影に過ぎなかった岸は、さらにもうろうとなっていた。インドネシア人はライフ・ベストを配った。布とわずかな発泡スチロールで出来たバカバカしい気休めだった。一番幼い子供たちはどう見ても4~5歳より下だった。その中にはピンクのポンチョを着た女の子もいた。その子達は親と一緒に艫の方のオープンデッキに行くよう言われた。その理由は、後方に行けば行くほど、船が波に突っ込んだときの揺れが少ないからだと言う。

太陽が昇ってから、やっと私たちはお互いの姿をはっきりと見えるようになった。私たちのタワーから来た数名の中にラシッドもいた。全部で9名の子供がいて、女性も1ダース以上いる。クンドゥーズ州から来たアフガン人男性の他は皆イラン人だった。ほとんどの年配者は、屋根がある舳先にいるか、舷側の手すりに寄りかかっていた。残りはオープンデッキのどこでも、居られるところに居た。海は波が高く、船が波の頂点から底に下がる度に、あるいは波にぶつかる度に、大量の水が私たちに振りかかってきた。

最初に気持ちが悪くなったのはシーヤだった。まだ朝が早い内に、彼は吐き始めた。彼は正に生まれながらのリーダーだった。他の全員が彼に続いた。午後も遅くなると、完全に陸地は見えなくなった。波はますます高くなり、水平線を覆い隠すほどになっていた。何人かは手すりかぶさって外に吐いている。何人かはビニール袋に吐いている。ビニール袋が直ぐに足りなくなるのは明らかだった。そのまま捨ててしまうのではなく、一杯になったら中身を捨てて、濯いで使いまわすしかなかった。

船の速度は遅かった。インドネシア人は交代で舵を取り、船体にたまった水を手でかい出した。1人は年長で無口、そしていつもしかめ面をしている。もう1人はまだ10代に見えた。若い方は2人分の笑顔をたたえて、誰かれかまわず「兄弟」と呼んでいた。とてつもない音を立てるエンジンは、とてつもなく少ない馬力しか出さなかった。この船の他の部分と同じように、エンジンもこれほどの重量をこのような波の高い時に運ぶようには出来ていないようだった。私たちはだいたい、4~5ノット、時速6マイル以下の速さで進んだ。時として、南東の強い貿易風に逆らって進むのは、この船には無理なのではないかとさえ思えた。風は白波を立て、私たち全員に飛沫を浴びせた。波の方向によっては、男たちに右舷へ集まるよう、インドネシア人が指示を出した。それで傾きを抑えようというのだ。それは私たち全員を不安にした。

波がまだ大きい内に太陽は没し、暖かさも一緒に持っていってしまった。一日中立っていた人間たちが、今度は寝る場所を求め始める。デッキは今や、手足が絡み合った閉所恐怖症を起こさせる場所と化した。体を休めて手足を伸ばすことができた者はほとんどいない。誰かが血の巡りを良くするために手足の位置を変えると、その動きが周りの人間にさざ波のように伝わり、新たな安定がもたらされるまでその波は続いた。

再び防水布が広げられたが、全員をカバーする大きさは無かった。端にいる人間が、防水布をつかんだ手を離せば、反対側の誰かが必ず引っ張って持っていってしまう。いずれにしても、その防水布は使い古しで穴だらけだった。水がその折り目や皴に従って落ちて行き、途中の滴をさらって流れてゆく。

朝になると全員の様子が変わっていた。土気色になり、目つきが悪くなり、やせ衰えている。アミールとサミはお互いにもたれ合いながらグッタリして、膨らんだビニール袋をやり取りしている。フォークス・ホークの髪型の男は胎児のように体を丸めている。彼はその後、ずっとその格好でいた。妊娠している彼の妻は舳先のほうで足を組んで座っている。顔色が青白く震えていた。リマはシーヤの腕を、まるで命綱であるかのようにつかんでいる。皆、目を堅く閉じているが、気持ちが悪すぎて眠れないようだった。

新たな問題が持ち上がっていた。トイレが無いのだ。つかまるレールが無いことを考えると、外に体を張り出すのは危険すぎた。男たちは船体の上から小便をし、女たちはパンツの中にした。

インドネシア人たちは蓋付のプラスチック・カップに入った水を一箱、持ってきていたが、それを飲み込める人はほとんどいなかった。シーヤは歌い続け、吐き続けていた。子供が2人泣き始めていたが、誰も気にしていなかった。午後になると2頭のイルカが現れ、一時間ほど周りで遊んで行った。イルカがボートの下へ潜り、勢い良く空中に飛び跳ねると、大人も子供も、全員の心を明るくした。アミールとサミでさえもが、呆然とした状態から気力を回復した。成人男性数名が明るく楽天的になり、深い水を泳ぐイルカのグレーの姿を最初に見つけようと競った。

その夜、私たちの中の数名は、エンジン・ルームの上で寝ようと試みた。船体の中の狭いスペースを、寄り広いスペースと交換したのだ。それは惨めな選択だった。10分おきくらいにバケツ一杯の冷たい水が襲い掛かり、息もつけなくなる。あるいはもうもうたる煙と火花を出す垂直で熱い2本のパイプに押し付けられる。そこでは、お互いにしがみついて横になり、満天の星や蛍光色に光る航跡を眺める以外、することが無い。

最初の光が訪れると共に、寝不足と脱水症状と船酔いと不潔さに悩まされながらも、亡命希望者たちは元気を取り戻した。インドネシア人の話によれば、夜までにオーストラリア領海に入れると言う。依然として陸地は見えないが、頭上を旋回する鳥は、我々が近づいているサインとして全員に受け止められていた。海もまた静かになっていた。もう波がデッキの上に覆いかぶさることは無い。最初の内、これは大いなる安心をもたらした。初めて私たちは日の光で体を乾かすことができた。しかしながら、太陽が高くなるにつれ、その力は過去2日間とは比べ物にならない強さであることが判った。そして直ぐに、目に付くところには焦げ付く光を防ぐ一片の雲も無い中、あれほど呪っていた冷たい白波を、全員が欲するようになっていた。

防水布が再び広げられた。太陽の光を遮ると同時に、防水布は暑さも捕まえてしまう。2人の人間が新鮮な空気を求めて、今やほとんどからになった水のカップの箱を切り、ボール紙で日よけを作った。艫の方の父親の1人で、カタール航空の安眠マスクをつけて顔を守っている人間が、糸を見つけてきて、スカーフや布を繋ぎ合わせて日除けを作った。船で唯一屋根がある舳先の方は、吐いたものや小便で目眩がするほど臭かった。出航したばかりの頃、場所取りに殺到した1ダースほどのイラン人は、誰一人、自分が占めている場所を離れようとしなかったが、今、彼らは困り始めていた。オープンデッキの仲間たちと彼らの間で諍いが始まりつつあった。防水布は、屋根がある舳先への入り口を塞ぎ、臭く湿った空気を閉じ込めているように見える。

「お願いです、」一人の女性が嘆願した。「この中では息が出来ません。」

しかしながら、デッキにいる人々には、比較的恵まれた環境を楽しんできた人々の安寧のために、直接太陽の光に晒されるのを耐えようとする気持ちはさらさら無かった。

今現在のこの暑さは、今までの苦難に耐えてきた全ての人々の意志をくじこうとしているようだった。妊娠した女性の様子は危険の一歩手前だった。彼女は赤くなり、汗まみれで、荒い息をしている。しかし何もあげられるものが無い。サミは泣いている。アミールは仰向けに横たわっている。彼の目は強張り、うな垂れている。水を少し飲ませようとしたら、彼は私のくるぶしを弱々しくつかんだ。

「助けてください。」彼は言った。「助けを呼んでください。」

その決断はシーヤに託されているようだった。船には衛星電話が1つあった。シーヤの話では、領海に入ったらオーストラリアの官憲を呼び出す計画だと言う。海軍が私たちを岸まで連れて行ってくれるはずだ。過去においては、亡命希望者の船は、全ての行程を踏破していた。しかし上陸は危険な行動でもある、(2010年には船が崖にぶつかって50人が溺死した)、今、標準的なやり方は、クリスマス島に着く前に救助を求める方法だった。しかしながら、オーストラリアの救助隊が救難信号に答えるのは、いま我々がいる場所よりもっと北側であることが多かった。シーヤはもっと確実な場所まで行きたかった。私の考えでは、最終的に救援を呼び出すことを彼に決断させたのは、アミールの哀れな嘆願だったと思う。

ある程度、英語を喋れるイラン人、ジャカルタにいた時、私にエンジニアだと言っていた人物が選ばれて話すことになった。インドネシア人は携帯式GPS装置を持っていた。しかしながら、彼らも、亡命希望者の誰も、どうやってそれを使うのか判らない。結局のところ誰かがiPhoneを提供し、エンジニアが位置情報を読み上げた。

救助を待つ間にイラン人たちはパスポートを破り始めた。「彼らがあなたを国外退去できないようにするのよ。」サラーが私にそう言った。しかしながら明らかに、この営みは、何か象徴的な重みを持っているようだった。亡命希望者たちは、単に捨ててしまうのでは無く、1ページずつ入念に切り取ると丸めて風に飛ばしている。ハサミが手渡しで回されていた。イランの紋章がついた暗紅色のカバーが小さな断片に切られてゆく。この仕事は熱心に、ゆっくりと完了した。一人の男だけが躊躇している。近くによって見て、その男が捨てようとしているのが息子のパスポートであることが判った。ハサミを受け取った彼は、最初のページに載った写真を注意深く切り取ると、財布のなかにしまった。

直ぐに水平線上に船が現れた。政府の飛行機が頭上で音を立て、降下してくると又上昇して行く。亡命希望者たちはシャツを振り、喜びの声を上げた。若い方のインドネシア人がエンジン・ルームの上で踊り始めた。私たちがやり遂げたことに彼は驚いているようだった。何人かの男がポケットを空にして、持っている現金を全部彼にあげた。インドネシア人は笑みを浮かべて言った。「ありがとう、兄弟!」

軍艦から2艘のスキッフが離れて、モーター音を響かせて私たちの方へ向かってくる。それぞれのスキッフに、灰色の軍服を着てヘルメットをかぶり、太ももに拳銃を携帯した6人のオーストラリア人が乗っていた。インドネシア人はエンジンを止めた(三日間ずっと動いていたエンジンが止まってみると、その静かさに戸惑わされた)。スキッフは私たちの両舷にとまった。

オーストラリア人水兵は新兵のように思われた。その1人が何かマニュアルのようなものを持っている。彼はそこに書かれたものを、大きな声で読み上げた。「誰か、英語がしゃべれる人がいますか?」

連絡をしたエンジニアが前へ出た。

「船内に医者の助けを必要とする者がいますか?」

エンジニアがそれを通訳すると、ほとんど全ての人間が手を上げた。妊婦が手を借りて立ち上がり、前へ出てきた。彼女の頭は深くうなだれている。ほとんど立っているのがやっとのように見えた。

オーストラリア人はマニュアルを引きながらさらに幾つか質問をした。インドネシア語でインドネシア人船員にも聞いていたが、彼は黙って首を振り、答えるのを拒否した。その間に彼の仲間の水兵は亡命希望者に、新しいライフ・ジャケット、5ガロン缶入りの飲料水2本、冷凍トルティーヤと蜂蜜入りのビンと苺ジャムのチューブが入った袋を幾つか渡した。「我々は船に戻ります。」水兵の一人がエンジニアに言った。「あなた方はエンジンを再起動して、前進を続けてください。我々は後からついて行きます。」

その情報は驚きを持って迎えられた。再度妊娠した女性が皆に連れられて前へ出てきた。「少なくとも彼女だけでも連れて行っていただけませんか?」エンジニアが訊いた。水兵たちは、恥ずかしそうな視線を交わした。明らかに、出来ることなら彼らはそうしたかった。

まだ陸地は見えなかった。そしてスキッフが母艦に帰った後、彼らもまた見えなくなった。相変わらず照り付けている太陽は言わずもがな、空っぽの果てしない大洋に戻ることは、酷く意気消沈させるものだった。事態をさらに悪くしていたのは、私たちには通信手段が無くなっていたことだ。最初に船と飛行機が見えたとき、全ての亡命希望者は、シーヤの例に倣って携帯電話を船の外に捨ててしまったのだ。皆が喜び合っている間に、どういうわけか、衛星電話とG.P.S.システムも又、海に消えてしまっていた。

もはやオーストラリア人水兵が行っていた「前進を続ける」しかやることが無かった。最初に現れた船ともう一度連絡が取れたのは、4~5時間後、2隻目の小さめのパトロール船が現れた頃だった。再び2隻のフキッフと水兵が我々に会うためにやって来た。今回彼らは直ぐに乗船してきて人々を脇に寄せ、全員を前に集めた。指揮を執っている将校は、この船を支配下に置くことを宣言した。

ジョエルのカメラに将校が気がついて、私たちは2人とも艫の方に連れて行かれた。その時点で自分たちがジャーナリストであることを明かした。体が大きくモジャモジャ髭のオーストラリア人が舵を取る間、将校は予め用意された質問を船員に問いただしている。船員は2人ともそれを読むことも断ることもできないでいた(もし再犯者では無く、誰も死んでいなければ、亡命希望者を運んだ2人のインドネシア人漁師は訴追されない)。将校は私とジョエルに対しては礼儀正しかった。天気が良くて幸運でした、と彼は言った。もし数日早く出ていれば船は転覆していただろうと言う。

初に陸地が見えた時に感じた喜びは独特だった。太陽は既に傾いていて、目に見える陸地の影は、ほとんど、ただの光と影による悪戯と見間違えそうだった。次第に陸地が大きくなってゆくその様子は、自分たちの進み具合を計る固定された目標であり、それによって私たちは、船が如何にゆっくりとしか進めないかを実感した。クリスマス島に着いた時はもう夜もふけていた。オーストラリア人は、私たちの船を、緑に覆われた険しい崖の間の狭い入り江にあるシェルターへと導いた。係留が終わった後、今夜はここに留まり、翌日下船することを将校は告げた。今や、前よりも小さく舳先にかたまっている亡命希望者たちの不満をエンジニアが代弁すると、将校は答えた。「今、あなた方は安全ではないですか?もう命の危険は無いでしょう?」彼は我慢の限界にきているように見えた。そして艫の方に広がっている防水布に気がついて、怒った様子でイラン人たちを叱責した。「今、あなたがたは、素晴らしい国にいるんですよ。」

夜中、しとしとと雨が降り続けた。翌日、私たちは係留場所から艀にのって、ぐるりと回った桟橋へ運ばれた。桟橋には大勢の税関職員、移民局員、連邦警察官、島の収容所を運営する民間会社の従業員、が待ち構えていた。ジョエルと私はオーストラリア人に歓迎され、水やコーヒーを与えられ、驚くほど豪華なホテルへ連れて行かれた。他の全ての人は拘留された。その日の午後、街を歩いていると、私たちの小さな船が海へ引っ張られてゆくのが見えた。そこにいた将校が説明してくれた。あの船は沖で焼き捨てられるのだと。

家族連れと年少者は、比較的居心地の良い施設に入れられ、アウトドアのサッカー場やリクリエーション・エリアへの出入りも出来た。独身男性は、最高警備体制の監獄と大して変わらない場所へ入れられた。どちらの亡命希望者も現在の場所に長く留まることは無い。私が島に滞在中、ほとんど毎晩のように、飛行機一杯の難民が、パプア・ニューギニアとナウル共和国へ送られていた。私たちの船に乗っていた人間のうち、全てでは無いが、ほとんどの人は、現時点までに2つの島国のうちどちらかへ送られているだろう。もしパプア・ニューギニアの収容所へ送られていれば、彼らは拡大を続けるテント・シティーで暮らすことになる。もしナウルの収容所に送られていたら、収容所の建物は7月に亡命希望者が起こした暴動で焼き落とされているので、やはりおそらく、代わりにつくられたテント・シティーで暮らすことになるだろう。

パプア・ニューギニアとナウルの政府には、難民の要求を処理する能力が無く、オーストラリア政府関係者がトレーニングを施しているとはいえ、亡命希望者の申請が処理されるまでには、長く待たされることになるだろう。何人かは待ちきれないに違いない。既に何ダースものイラン人が、パプア・ニューギニアの施設の状況を見た後で、故国に送り返してもらうことを希望している。施設で耐えることを選択したとしても、亡命を成功できる人間はほとんどいない。さらに問題なのは、アフガニスタンやスリランカと異なり、イランとオーストラリアの間には、申請が拒否された亡命希望者たちの強制帰国を可能とする合意が出来ていない。この意味するところは、ナウルおよびパプア・ニューギニアで亡命を拒否され、自発的にイランへ帰国することを拒否した人間は、一種の煉獄に囚われるということだ。この煉獄の中の人は、これらの島国に定住することも出来ず、オーストラリア本土に送られることも出来ず、故郷に送り返されることも無い。ほかに解決方法も無く、これらの人々はクリスマ島に送り返され、無期限に収監されることになる。

たちがオーストラリアに着いたのは、トニー・アボットが総理大臣に選ばれた1日後だった。アボットは、自らの政策、Operation Sovereign Borders(絶対境界作戦)を守り、亡命希望者を海で補足した時、可能な限りインドネシアへ送り返すよう海軍に指示を出した。そのような事態は今までのところ、9月末に2件起きている。2隻の船一杯の亡命希望者が、沖合いでインドネシア官憲に引き渡された。2回目の引渡しは、レバノン人亡命希望者を満載した船がジャワ島スカブミ近辺の海岸から100ヤードと離れていない場所で2つに分裂した事件が起きたその同じ日に行われている。スカブミは、私とジョエルがそこの警察署に、ほんの僅かな間だが訪れたことがあるインドネシアの町だ。ほとんどが子供の20体以上の死体が海岸に流れ着いた。その他の多くの者は行方も知れない。

オーストラリアの放送局がインタビューしたレバノン人コミュニティー・リーダーの話によれば、死者のほとんどはシリアとの国境近くの小さな村から来た人々だと言う。何とか生きて岸に泳ぎ着いた1人の亡命希望者は、義理の姉と義理の兄、彼らの子供3人、妻と自分の子供8人を失った。コミュニティー・リーダーの話では、シリア国境付近から逃げてきて密入国業者に金を払いインドネシアに来ようとしているレバノン人は、他にも大勢いると言う。

アフガニスタンに帰ってから、私はオーストラリアへ行こうとしている数名の男と会った。その内の1人、カイス・カーン(Qais Khan)は2005年にカブールで小さな自動車部品ショップを開いた男だ。カイスの話では、アフガン人が定常的に地方から大都市へと出て来ていた数年間、商売はとても上手くいったと言う。しかしながら2010年以降、首都に隣接する地方の治安状況が悪化するにつれ、経済が行き詰まり、多くの小売業者が破綻した。去年カイスも店を畳んだという。今、彼は妻と2人の子供を養うために奮闘している。

2ヶ月前、カイスの友人15名が、サライ・シャフザダで密入国業者に金を払い、インドネシアへ向かったという。その中には議員の運転手を務めるカイスの隣人もいた。彼はタリバンから殺害を脅迫する手紙を3通受け取って逃げ出すことにした。カイスは今、友人が成功したかどうか知らせを待っているのだと言う。もし成功したのなら、自分も行こうと。

「もし成功しなかったらどうするんだ?」私は訊いた。「もし彼らが、パプア・ニューギニアとかナウル共和国に送られていたら?」

カイスは一瞬考えた、そして、いずれにしても行くことになるだろう、と認めた。事実彼は、既に密入国業者に払う金のローンを組んでしまっている。「少なくともあそこにはチャンスがある、」彼は言った。「少なくとも、可能性がある。」

私は彼に、間違っていると言う責任を感じた。「お前はオーストラリアには行けない、」私は言った。

カイスは私の忠告を聞く気が無いようだった。私の言葉は全く彼の心を捉えなかった。「オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ、」彼は言った。「そういったところは、こことは違う。チャンスがあるんだ。」

~~ここまで~~

次回更新は12月14日ごろになると思います。
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英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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