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両親は自宅教育のアナーキストだった

自宅教育で育てられた人の体験記をUpします。

記事を書いたのはマーガレット・ヘイデンリー(Margaret Heidenry)さんです。元記事はここにあります。

著者は、現在スクリーンライターをしていらっしゃる方です。

~~ここから~~

両親は自宅教育のアナーキストだった

1972年、週40時間の束縛に疲れた私の父は出版社の仕事を辞めた。その時、両親は30代前半で、7歳を頭とする4人の子供がいた。「だけど僕たちはまだ世界を見て回りたいと思っていたんだ。」父は最近になってそう振り返る。2人はヨーロッパ行きの片道切符を6枚買った。残った生活費は、笑い出したくなるような3000ドルぽっち。若くて理想に燃えた2人は、私たちの教育など道すがら簡単に出来ると考えていた。「人生そのものが移動教室さ。」

それからの4年間、両親は予定航路の無い「存在からの自由」の船旅をしたのだ。私達は、スペインのネルジャ、イギリスのドーセット、中西部の農場、メキシコのサンミゲル・デ・アジェンデを彷徨い歩き、最終的にセントルイスに落ち着いた。父はその間、小説を書き、子供であるメアリー、ジェームズ、ジョン、そして私の教育は母に任された。

殆どの時間、私は教育に関しては、くっ付いて歩いているだけだった。それでも1975年に6ヵ月間過ごしたサンミゲルでの事を明確に覚えている。私は4歳だった。ジャルダン(庭)の外で絵画教室が行われた。私達が互いに笑いあったりお喋りしたりしている間、母は一度も叱りつけず、題材を選ぶよう静かに諭した。あそこで休んでいるマリアッチ(流しの演奏家)を描かないの?物売りの足元でよだれを垂らしている犬を描いてみない?彼女は色々示唆する。生活の為にガムを売り歩いている同い年くらいの子供を描いてみたら?とかも勧められた。私はたいてい、兄たちの描いているものをコピーしていた。殆どただの自動車だった。

作文や歴史、地理の授業は「体育」の後。「体育」は家族でやるヨガの授業だ。ヨガは父親がテラスで教えてくれた。学校が終わると私達は、埃だらけの石畳の道を、自分たちだけで歩き回った。ある日の午後の散歩で、ジョンとジェームズは22口径の銃弾を3発見つけた。別の日には10代の男の子の一団が私達を、「グリンゴーズ(白人だ)!」と言いながら追い掛け回した。

こういった遠隔地の移動教室の為の資金のやり繰りは、幾つかの戦略に集約される。まずは創造性(父は、病気の叔父さんを療養所から退院させて、家賃を払ってもらう為にメキシコまで連れてきた)。わずかな金で用を足す事(私達はクリスマス・イヴの押し迫った時間に乾ききったクリスマス・ツリーが2ドルに値下げされてから買った。)そしてただ乗り(全く国際色の無いセントルイスにどうして来たのかと言うと、優しい叔母さんが空き家を提供してくれたからだ)。私達家族の冒険において、両親は一貫性の無さにおいて一貫していた。標準的な教育を受ける幕間も存在したが、殆どの時間、後に母が雑誌に書いたように、「いつの時も、子供たちは共に旅し、定型的な学校教育とは似ても似つかない教育を受けていました。」

1975年10月19日に出版されたニューヨークタイムズ・マガジンの記事、「家が或るところが学校(Home Is Where the School Is)」は、その当時まだ少なかった自宅教育を選択した人々の存在を知らせる、全国紙初めての記事だった。私の母が説明したカリキュラムは以下のようなものだ。

日程

9:30:読書(Reading)
10:00:数学
10:30:科学
11:00:ヨガ(両親と一緒)
ティー・ブレイク(両親と一緒)
11:30:絵画
12:30:昼食
1:30:作文(月曜と火曜:今週の劇、水曜:手紙文、木曜と金曜:物語の表現)
2:30:歴史と地理
3:00:ヨガ
6:30:スペイン語

今ではオレゴン州ポートランドのプレップ・スクールが提供するコースの様に見えるが、そもそもが母の記事に刺激を受けてできたものだ。母はこのカリキュラムの他に、ウールワースで買った単純な書き取りや数学の自習帳とか、しょっちゅう入れ替わる図書館で借りた本とかを使って埋め合わせをしていた。母には他に方法が無かった。これは学習プランをグーグルでサーチしたり、「My Kids ‘Hearts’ Home Schooling」のバンパーステッカーが買えるようになる何10年も前の話なのだ。70年代、自宅教育はまだ法律違反だった。1993年まで50州すべてで違反だった。母は記事の中で、私達を教育するにあたっての基本的信条を述べている。「子供たち自身のペースで勉強させる事」母は書いている。「子供達には終わらせなければならない宿題はありません。私は教えていたわけでは無いのです。私は子供達が学ぶのを許したのです。」

母の記事が掲載されてから、「ヘイデンリー家の子供達の行く末を案ずる」数多くの手紙が編集部に寄せられた。多くの読者が、私達が「現実世界」に適応出来なくなるとか、「社会的不適合者」や失敗者への道を進んでいると言って心配した。兄弟達と私は、こういった社会的非難の名残を今でも耳にする事がある。子供の頃の事を話して聞かせた多くの人は、私達の非伝統的な育ち方に戸惑うようだ。タイガーマザー(超教育ママ)やヘリコプター・ペアレント(ヘリコプターで学校へ乗り込むような親達)の時代には、両親がやったような実験は、子供の私達にとって苦難以外の何物でも無いように見えるらしい。

母のパットは、アイシッリュ系移民一世のカトリックで、ブロンクスからニューヨークに出て来てハーダー&ハーダーと言う小さな出版社に入り、中西部から出てきた神学生の父、ジャックと出会った。1960年代の中頃だった。両親はヒッピーでは無い。フリー・ラブもしなかった。両親は20代早々に結婚した。出会って6カ月後だった。そして47年後の今も連れ添っている。ドラッグもしなかった。父は1度だけマリファナを吸った事があるが、「変な気分がする」と言って救急病院へ駆け込んだ。

両親が実際に取り入れたのはカウンター・カルチャーな価値観だった。あるいは、父が好んで引用するジェラルド・マンレイ・ホプキンスの言葉、「あらゆるものは、反逆か、独創か、平凡か、奇抜だ(all things counter, original, spare, strange)。」と言う考えだった(父方の祖父はかつて裏庭でトウモロコシを育てていた。その目的は唯一つ、その中で昼寝する事だけだった。)母はいつも次のように言っている。自分の事を「活動家だとか、そういう類の人間だと思ったことは無いわ。私はその時起きていた物事の一部であるだけよ。ありとあらゆる新しい考えが育ってきた実り豊かな土壌の一部ね。」

その当時自宅教育は全く未開拓な領域だった。父が自宅教育に惹かれたのは、自分の16年間の公教育が窒息しそうなものだったからだ。「僕は出来の悪い生徒だった。」父は言う。「学校は選択の余地が無いので我慢していただけさ。」自分の子供たちに同じような運命を甘受させたくなかった父は、母がメアリーを身ごもって直ぐに、子供達を誰も学校へは行かせないと宣言した。「僕たちは教育アナーキストだ」父は言った。

母は奨学金を獲得した優等生で、自分の意見をもう少し秩序立てて構築した。最初母は「サマーヒル:児童養育における過激な方法(Summerhill:A Radical Approach to child Rearing)」を読んだ。進歩派教育理論家、A.S.ニールが1960年に書いた古典だ。ニールは授業の出席が選択制の学校を設立した。生徒が自分で学ぶ意欲を持つ事を信頼する学校だった。「『サマーヒル』は私に大きな影響を与えたわね。」母は振り返る。「それまで私は伝統的な教育に疑問を抱いたことは無かったんだもの。」

母の好奇心は刺激された。母は次に教育者のジョン・ホルトが書いた、「子供はどうやって学ぶか(How Children Learn)」(1967年初版)を取り上げた。ホルトは子供に勉強を強要すると、個性が捻じ曲げられてしまうと断言する。彼は子供が自分の興味に従って、自分のペースで学べるような、刺激のある環境を提供する事を主張した。ホルトはこの教義を「アンスクーリング(unschooling:反学校)」と呼んだ。

タイムズの記事の中で母は、ニールとホルトによって異なった考えを持てるように成ったと説明している。「大きなビルの中に1日中閉じ込められているよりも、子供にとって良い学び方があるのは確かだと思いました。」母は、全ての学校を廃止しろと主張するイヴァン・イリイチ(Ivan Illich)の「脱学校社会(De-Schooling Society)」を読むに至って、自分の「決断が結晶化された」と言う。それで5歳になったメアリーが幼稚園に入る時期になった時、「私は彼女を入園させませんでした。私は彼女にニューヨーク市立の公立学校を見学に連れて行ったのです。そこはまるで監獄のような印象の場所でした。」

自宅教育は70年代にはまだ、赤文字で「犯罪的なずる休み」と大書されるような行いだった。セントルイスで、私の兄弟がホームルームに出ないでいると、ソーシャルワーカーが家にやって来た。その時の事は母が記事に書いている。父と母は政府の職員へ言った。「私達は子供を学校へ送る事を拒否する。もし強要するなら裁判に訴える用意がある。」ソーシャルワーカーは私達がネグレクトされているわけでは無い事を確認すると、家に留まるのを許すよう校長に進言した。

推計によれば、当時自宅教育されていた子供は10,000から15,000の間だと言う。自宅教育に関する最初のニュースレター、ジョン・ホルトが書いた「学校無しで育てる(Growing Without Schooling)」が出版されるのは1977年で、検証可能な運動が起きるのはそれ以後だ。ホルトは自宅教育の「父」と呼ばれているが、母が決断をした時、彼はまだ表立った主張を始めていなかった。実際にホルトはタイムズの記事が出た後、母に接触してきて、自分の講義でこの記事のコピーを配ってよいか聞いてきた。

自宅教育は依然として進歩派の考えと受け取られている。(ジュリアン・アサンジは自宅で教育を受けた。)しかしかつてはボヘミアンの少数派の領域だった自宅教育は、今やむしろ宗教保守派が抱く考えになってきている。今日、教育省の統計によれば、自宅教育されている子供は約200万人おり、自宅教育をしている親の83%は「宗教的または道徳的な教育を施したくて」そうしていると言う。

母が色々な考えを自由主義的方法論へ組み込んでいるのに対し、父のやり方はもっと放任主義的だった。両親とのお茶の時間や、ヨガとスペイン語の時間だけが、父が取り仕切る時間だった。母は次のように言っている。「彼は書くことで忙しく、自分の事に専念していた。自宅教育は次第に私の担当に成っていった。彼は自分の考えを私へ吹き込み、私はそれを実行した。」(家に留まってブログを始め、ジャックスペードのおむつ鞄とかの話を書き始める前は、父が関わった事はそれほど多くは無い。)おそらく自宅教育が要求する犠牲は大きかったと思われる。4人の子供の教育や世話をする以外の生活は無かっただろう。しかし母は私達と一緒にいた時間は楽しかったと言っている。

父は原稿を書き続けた。そして子供の私達が、封筒に入った分厚い原稿へ「アブダカタブラ」の呪文を唱えた後、父はそれを出版社へ郵送した。しかし帰ってきたのは薄い断りの手紙だけだった。或る日の事、父はベトナム退役軍人の反戦オークションから、250ドルの美術品を買って帰ってきた。父の収入はフリーランスの書評から得る貧弱なものでしか無く、この衝動買いのせいで、6人家族の生活費は200ドルになってしまった。母は悲鳴を上げ、泣き叫び、心配した。その時の不安感を「体中に蝶々がもぐりこんだみたい」と表現している。

私達は何とかやって行く事を学んだ。私達は学生歯科医の無料クリニックで歯を抜き、傷物を扱うアウトレットのバーゲンで買い物をした。私達の生活はフード・スタンプに頼るラインぎりぎりだった。鎖骨が折れて嵐の中を救急病院まで行く時、父は私を、時間の一定しないバスで病院まで連れて行った。私達は車を買う金が無かった。私の怪我の痛みを(同時に私の回復時の痛みも)和らげる為に、父はジューシー・フルーツ・ガムを一袋くれて、私はそれを兄弟3人と分けた。それはあまりにも大切なものだったので、私は残った二本を枕の下に入れて寝た。母はヘア・カットへも行かず、夜の外出も控えた。ベトナム退役軍人オークションで250ドルが吹き飛んで、自分で説明するところの「最初のヒステリー」が収まった後、母は言った。「お父さんがあの美術品を買ったのは優しさからだと心の底では判っていたのよ。その優しさがあるから彼を愛していたのだもの。彼はお金をギャンブルや飲酒には使わない。私達2人が支持する大義の為に使うのよ。」

自宅教育も又、2人が信じる大義だった。だから財政的に困難でも2人は続けた。母にとって、私達が創造的な何かを作り出す事は特別重要だった。母は毎日1時間美術に充てた。殆どの公立学校で「余分」と見做されている科目だ。母は書いている。「この科目こそ子供が自分のイマジネーションを自由に彷徨わせる事が出来る科目なのです。」私達があの頃を振り返る時、美術と旅行が最も心に残っているのは驚く事では無い。家族がメキシコで暮らした頃を特別好きなジョンは「グアナファトまでミイラを見に行った3等バスの旅」とか「ベジャス・アルテスで受けたブリキ細工のクラス」を覚えている。ジェームズはお茶の時間とか、厚くて暖かいセーターを着て出かけた中世イギリスの遺跡を覚えている。「子供にとって遺跡の城へ行く事がどんな事なのか判るだろう?」ジェームズは言う。「イングランドは最高の実地見学の場所だったよ。」私の姉の最も鮮やかな記憶もやはりイングランドだった。「あの瞬間の事は何時でも思い出せるわ。何故ってそれほど美しかったんだもの。羊が草を食んでいる野原に座って、古い石造りの教会をスケッチしたのよ。外で鐘が鳴っている間、中では教区の人たちが歌を歌っていたわ。」

しかしこういった遠隔地の実地見学には欠点もあった。10日かけてメキシコへ言った自動車の旅をメアリーは鮮やかに覚えている。エアコンの無い中古のステーション・ワゴンに7人がすし詰め状態で乗り込んで行った。「私達はモーテルの部屋で、ホット・プレートで温められたハインズのベイクトビーンズみたいだったわ。」彼女は思い返す。そして頻繁に動き回るのは寂しい事でもある。私達はお互いしか仲間が居なかった。メアリーは何時も本を読んでいて、私の記憶の中の彼女の顔はナンシー・ドルーのミステリー本に隠されている。ジョンとジェームズは18ヵ月しか離れてなく、何時も2人で一緒だった。一番小さい妹の私は、友達のいない時間の殆どを孤独に過ごした。

4人兄弟で何回も読み返した「ナルニア国物語」に触発されて、度々訪れる孤独感や場違い感を私達は冒険の対価なのだと想像する事にした。しかしながらナルニアと異なり、移動教室が比較的退屈なセントルイスへ落ち着いた時、私達はあまり魔法っぽくない探検で自らを慰めた。ジェームズの好きな活動は、寄付されたビーカーや顕微鏡を使って子供百科事典を見ながら行う自由な科学実験だった。メアリーは、「一人で本を読んだりママレードを作ったり」するのを好んだ。ジョンと私は今でも、アルフレッド・ノイズの1000語の詩「ハイウェイマン」を諳んじる事が出来る。私達が覚えた詩の中でも最長のものだ。

1976年頃になると私達の「奇抜」な年月は次第に「平凡」なものへと変わっていった。父と母は(ジョン・ホルトの助けで)隔月で文章を書くようになり、アートハウス・シネマをオープンした。しかし依然として2人とも定職には就いていない。両親は州の義務教育法を避けていたが、最早現金の必要性からは逃れられそうも無かった。(最近の全国的な調査では、自宅教育を実施している家族の平均的収入は75,000ドルから79,999ドルの間となっている。)自宅教育に捧げた6年間の月日の後で、両親はフルタイムの勤め口を探し始めた。そして、母自身は後になってから気が付いたのだが、その当時、週7日24時間母であり教師である事に疲れていた。それは子供達をどうするか考えねばならない事を意味していた。

私達の通常学校教育への変更は、セントルイスが人種別の学校システム問題に取り組む時期と偶然にも一致していた。市は強制バス通学法(人種比率を強制的に一定にする法律)を避け、幾つかのマグネット校を開く事にした。市全体からあらゆる人種の子を惹きつける特別科目を持つ学校を作ったのだ。両親にとって(おそらくは好都合な事に)これらの学校は2人が求める進歩的雰囲気を提供できる場所であるかのように見えた。両親は直ぐさま私達を入学させる手続きを取った。ジェームズと私は、数学と科学に特化した学校へ入る事になった。メアリーとジョンは舞台芸術の学校だった。私達は何の学業証明書も持っていなかったが直ぐに入学を許可された。これらの新しくも勇敢な学校群は白人の入学者を必要としていたのだ。

学校の最初の日の前、どんな事になるのか心配しながら夜更かしする代わりに、私達は「最新の冒険」を楽しみにしていた。ジョンは振り返る。「メキシコやイングランドへ引っ越した時と同じ感じだった。」その気分はジェームズも共有していた。「僕も自信満々だったよ。自分たちがやって来た事はとてもクールだと思っていたからね。」

9月初めのある朝、両親は私達をそれぞれの学校の前へ連れて行った。2人とも建物の中には入らなかった。2人は私達を先生に紹介しなかったし、私達がどの学年に入るのかさえ言わなかった。ジョンはその時の事をこういう風に覚えている。「幸運な事にメアリーと僕は推測できたのさ。僕は10歳だから一番下の学年(5年生)。メアリーは11歳だからその次(6年生)ってね。」一番若くてたったの5歳だった私は、ジェームズと引き離されたとたんに泣き出した。私は自分たちが別々のクラスに入るなんて聞かされていなかったのだ。何で私達だけにして、行ってしまったのか後で母に聞いたら、母は弁解した。「何をするべきかみんな判ってるって思ってたのよ。」

ヨガとか(両親との)お茶の時間とかから、体育館や混雑した食堂とかへ移る事は、私達のシステムにとって衝撃だった。そして置いてけぼりになった事が最悪なのでは無かった。むしろ募金広告のポスターに出ていそうな服装こそが問題だった。「メキシコの編みサンダルとお祭り柄の農民服を着て、自分の恰好はグレイトだと思ってたのよね。」メアリーは言う。「だけど6年生の他の子はみんなレッド・ツエッペリンのTシャツとジーンズなのよ。自分にはジーンズが必要だと理解できないほどナイーブでは無かったわ。それも直ぐ必要だとね。」

1列に並んだり徒党を組んだりする公立学校の全てのシステムは、私達のカウンターカルチャー的生き方の反対だった。「僕は数学のクラスにいたんだ。」ジョンは振り返る。「机に座りながら考えていたんだ。これから毎日この同じ場所に座り続けなければいけないんだろうかってね。先生は子供たちに10進数について厳しく質問していた。だけど全然理解できないんだ。僕にはただの点にしか見えないんだよ!そしたら先生が9の段の掛け算を暗唱しなさいって僕に言うのさ。僕は完璧に無邪気に『知りません』って言ったのさ。先生は動きを止め僕をじっと見てから言ったんだ。『少年よ、君とは楽しめそうだ。』ってね。」私達はゆっくりと、「スター・ウォーズ」のセリフが言えなかったり(私達はハリウッド映画を見たことが無かった)ふわふわの髪の毛でなかったりする事の意味を理解し始めた。私達は変わり者だったのだ。

1978年にNPRが、自宅教育の経験について母にインタビューした。それは複数の州にまたがる教師のストライキで家に引きこもった子供達をどうしたら良いのか、何千もの両親が迷っている時だった。クッキー・ロバートは「貴方がこれをどうやって毎日続けられたのかに私は興味がありますね。」と聞いた後、私達の社会性の問題について何回も母に質問した。独立心を得て大人社会の現実に準備する為にも、子供達は同年代の中で過ごす事に伴う厳しい体験をするべきでは無いのでしょうか?

「単に社会性を得るだけの為に子供達が学校の悪い環境を経験するべきかどうか、私には判りません。」母はそう答えた。それは気高い意見だと思う。しかし残念ながら悪い環境こそが私達に用意されていたものだった。特にジョンとジェームズにとってはそうだった。「僕は本当に無邪気だった。学校に通い始めて数日たった時、1人の子が僕を強く押して、僕は机から転げ落ちたんだ。」ジョンは回顧する。「全く理解できなかった。何でこの子は僕と戦いたがるんだろう?家ではジェームズと僕は、莢に収まった2粒の豆みたいだったからね。」

私のいた学校の校庭でジェームズは簡単に苛められていた。最初の週で彼が覚えているのは、「年上の子供が僕の尻をひどく蹴ってきた事さ。上級生は笑っていた。1人の女の子が後で教えてくれたけど、「kick me」の悪戯書きを背中に貼られてたんだ。僕は今までそういう事は聞いたことが無かった。苛めとか悪戯とかね。」ジェームズは又、小学校の殆どの間、バスの後ろの方へ連れて行かれて「ひっきりなしに殴られていた」。「あ~神様、本当に酷かった。」ジェームズは一度も両親には言わなかった。彼はただ「耐えたんだ」。クッキー・ロバートは正しいのだろうか?ジェームズは正しいと思っている。「僕は子供同士で遊んだ事が無かった。」彼は言う。「僕たち4人兄弟はお互いに脅かす事は無かった。だから僕はどうしたら身を守れるか学ばなかったんだ。」

私達が学校へ行ってしまうと、母は自分の存在意義を失ってしまうのではないかと心配していた。しかし母はセントルイス・マガジンの編集者という新しい仕事で成功し始めた。存在意義を失ったのは私達の方だった。メアリーは自分が自宅教育を受けていたとは誰にも言わなく成った。「6年生にもなれば他の子は違うって判っていたわ。特にその当時はね。子供なら皆、周りと違っていたいとは思わないわ。周りに馴染みたいと思うものなのよ。」メアリーは急速に周りと馴染み、幾つかのルール、例えば「紙の一番上に自分の名前を書く」とか言ったルールは好きに成りさえした。ジョンはやり返すまで苛められた。自分を苛めていたやつを教室で罰した。ジェームズは他の子のやる事を真似て周囲に馴染み始めた。「カメレオンみたいな行動さ。人気者に成った事は無いけど、友達を作れたよ。」

成績に関して言えば、私たち4人はバラバラだった。熱烈な読書家のメアリーは大した努力もせずに良い成績を上げていた。「それに私は何か解らない事があったら、手を挙げて質問するのを怖がったりしなかったもの。」ジョンは「君とは楽しめそうだ先生」の翼の下へ逃げ込んだ。先生はジョンが追いつくまで1対1で数学を教えてくれた。ジェームズは科学とか歴史とかの科目は優秀だったが、リーディングで苦しんだ。「本当にイライラさせられた。」ジェームズは思い返す。「僕には克服できなかったんだ。」しかしながら母のタイムズの記事によれば、「ジェームズにリーディングの学習をさせた経験で私が最も驚かされたのは、それが全く苦痛では無かったことです。」これって「めったに子供を悪く言わない」と言う母のポリシーの拡大版だろうか?

ジェームズは今では、両親がリーディングを自分の優先事項にしていて欲しかったと思っている。「そうしてくれれば人生はずっと容易だったと思う。」彼は思い返す。「苦労する事は楽しく無いからね。学校で上手くやれない事にはイライラさせられた。」私は彼が6年生の時、劇の授業の事で泣いていたのを鮮やかに覚えている。「何故って僕が大声で読んでいる時、」ジェームズは言う。「単純な言葉でつまづいてしまうからさ。」しかし彼は助けを求める事が出来た。8年生(中学2年)の時、ジェームズは自分の悲惨なスペリングについて心配のあまり、先生にどうすれば良いか相談した。先生は3年生のスペリングブックを渡して1ページ目から始めるように言った。

こういった学習上の欠陥は、母の自発的学習に対する情熱に帰する事が出来るかも知れない。母が書いたものによると、最初の内は「正確に予定通り進むように注意していた」と言う。しかし母は直ぐに緩んだ。「何か興味深い事が持ち上がると授業は即座にキャンセルされました。アート・ハウス映画館をどうやって作ろうかなんて事がそうです。」彼女は言っている。「それこそ何カ月も授業をしないで取り組みました。」確かに「嘆きの天使(The Blue Angel)」を見るのは面白いかもしれない。心理性描写にすぐれたドイツ映画が子供にとってどのぐらい面白いかと言う問題はあるが。しかしそれは典型的な授業に臨む子供を助けてくれないし、学習の基礎力をつけてくれる事も無い。

ジェームズは両親の教育スタイルについて対立する感情を持っている。彼は自分の息子ザック(Zac)に早くから普通の教育を施しているが、ザックも自分と同じような学習上の欠点を持っていると認識している。しかし彼のアプローチは両親とは正反対だ。「僕はザックに強要するよ。」ジェームズは私に話した。「僕みたいに劣等生に成ってほしく無いからね。」

母はジェームズの学習曲線について独自の考えを持っているようだ。「ジェームズは、『ピンポン・マインド』って私が呼んでいる心を持っているのです。彼は特定の分野について問題を抱えていますが、何時も一番面白いアイデアを考えつくんです。それこそがジェームズなんです。何故彼を変えなければならないんです?どうして言わなければいけないんでしょう?『ジェームズ、もっと勉強しなさい。』とか『ジェームズ、今夜はスペリングをやりますよ。』とかって。彼が素晴らしい事を私達は知っていたんです。」

私はしばしば考える、どうやったら、自宅教育の子供と、学校に通っている子供を正しく比較できるのだろうと。賛成派の人は、自宅教育の子は大学の自治会活動に秀でているし投票へも積極的だという主張を強めているが、学業成績についての正確なデータは無い。しかし、そんな統計データは両親の選択に何の影響も与えなかっただろう。自宅教育の成績に対する定量的測定値などと言うものは、母が自宅教育に惹かれたあらゆる理由の対局にある。サマーヒルの設立者、A.S.ニールは、子供は自分自身の人生を生きなければならないと信じている。「不安な両親が子供らに生きて欲しいと思う人生では無い。」そしてこの考えこそ、私と兄弟達が学校へ行くようになった後も、両親が教育に対して取り続けたアプローチである。テストで失敗した?大した事じゃ無い。私達が1日家に居たいと思ったら、他の子のように病気の振りをするのでは無く、何時もの様にドアの所にメモを置けばそれで良かった。「明日は起こさないで。」最終的に私達は全員、何とかなった。父でさえもだ。父は何冊か本を出し、その内の1冊はニューヨークタイムズ・ブックレビューの表紙を飾った。そして後に、ザ・ウィークの編集長に成った。「反逆、独創、平凡、奇抜」の実験は終わりを告げたようだ。「だけどあの考えは、どんな物とも交換する気は無いよ。」父は言う。「少なくとも僕らは君たちに冒険を提供できたんだ。何の損害ももたらさなかったと思うよ。」

あらゆる破滅の予言に関わらず、私達は誰一人、社会的不適合者や失敗者には成らなかった。私たちの内3人は良い大学を卒業した。メアリーは今、広告会社の役員だ。ジェームズは自分のリーディングとスペリングの問題を克服し、幾つかのメジャーな雑誌のトップ編集者だ。私はと言えば、父と違い16年間の学校生活を目いっぱい楽しんでから作家として働いている。ジョンはしばらくの間、途方に暮れていた。彼はクイーンズ大学に入学した後、何回かドロップアウトし最終的にきっぱりと大学をあきらめた。彼はスーパーマーケットで商品を棚へ補充する仕事をして、午後はテレビを見ながらベッドで寝ている生活をしていた。夜になるとクイーンズのノーザン・ボーリバードにあるたまり場に入り浸った。両親は何と言えば良いのかわからなかった。私は何カ月にも及ぶ、夜遅くまでの緊迫した話し合いを覚えている。両方とも泣いていた。最後に両親は又、新しい変わった考えを思いついた。ジョンにお金を渡して毎晩夕食を作ってもらう事にしたのだ。彼は料理をすることでリラックスできる事を発見した。そして自分を「期待外れ」と言った感情から解き放つ事ができたのだ。そして又、成功は大学の単位に依存したものでは無い事に気が付いた。彼は父の同僚から、新しいコンピュータシステムを雑誌社へ導入するのを助ける低レベルの仕事を得て、情報システムのキャリアを始めた。今は成功した不動産開発業者だ。

母はタイムズの記事を締めくくるにあたって、自分の子供を自宅で教育する事は、母の最も大事な考えを反映したものである事を強調した。「子供の人生は、社会とか学校とか仕事場に適応できるよう型にはめる事なんかより、ずっと尊いのです。今現在、子供の人生は主に学校や学校教育に縛られています。そして子供に活気あふれる人生を与える事は無視されているのです。」母は今でも自分のした事は無駄では無かったと思っている。「貴方達皆、社会に順応しているし幸福でしょう。それに全員仲が良いわ。他にいったい何が望めるって言うの?」

~~ここまで~~

次回更新は12月16日ごろになると思います。
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ゾノシン

Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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