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マチュピチュへ向かう隠された道

連休と言う事で旅行記をUpします。

記事を書いたのはマーク・アダムズ(Mark Adams)さんです。元記事はここにあります。

マチュピチュへ向かうハイキングの記事です。

~~ここから~~

マチュピチュへ向かう隠された道

ガイドのジョン・リーバース(John Leivers)が肩越しに私に向かって叫んだのは、非常に険しい崖の登攀が最後に近づいた頃だった。「スペイン人はマチュピチュを発見していないと言われているが、私は違うと思うんだ。」彼は言った。私が彼に追いついた時(それはその日、もう20回目くらいの事だったが)、彼は竹のトレッキングポールで前方にある、奇妙に見慣れた形の遺跡を指し示した。「彼らが発見した事が無いのはあの遺跡さ。」

彼が指し示したのはチョケキラオ(Choquequirao)、ペルーアンデスの高地にあるインカの神殿だ。それはあまりにマチュピチュに良く似ている為、南アメリカで最も有名なその遺跡の姉妹と謳われている場所だ。両者共、15世紀に建設されたと信じられていて、中央プラザの周りに石造の建築物が配置されている。険しい山の峰の上に存在し、曲がりくねった白い川を見下ろしている。空高くそびえる山頂、インカ人やその子孫であるケチュア(Quechua)語を話す人々が、山の神を意味するアパス(apus)と呼ぶ場所を、複数の方角に眺める事ができる。両方とも説明しがたいほど美しい場所だ。

しかし、どちらの方が人気があるかは疑問の余地が無い。普通、1日約3000人の人がマチュピチュ街道を通ってゆく。チョケキラオで私は朝食から昼食までの間に14人の人間しか数えられなかった。その中には私自身とガイドのジョン、それに散らばって作業している数人の考古学者が含まれている。

チェケキラオを最初に見たアメリカ人は、知られている限り、イェール大学で歴史を講義していた若者、ハイラム・ビンガム三世(Hiram Bingham III)だ。1909年の事だった。彼は南アメリカの解放者、サイモン・ボリバー(Simon Bolivar)の伝記を調べていた時、クスコ(Cuzco)の付近で土地の総督からこの場所を訪れる事を勧められた。多くのものがチョケキラオの遺跡はかつてのインカの失われた都市、ヴィルカバンバ(Vilcabamba)だと信じていた。ビンガムはその説に同意できなかった。そして発見されるのを待っている失われた都市と言う考えに魅了された。2年後彼はヴィルカバンバ探索の為、ペルーに帰って来る。1911年7月24日、探検を始めて僅か数日後、ビンガムは標高2000メートルの斜面を登り、どの記録にも残っていない、うち棄てられた都市に出くわす。それがマチュピチュだった。

2011年はビンガムの発見から100年を記念する年であり、100万人の訪問者がこれらの遺跡を訪れると予想されている。前年の約70万人、それでも過去最高に近い訪問者数からの著しい急増だ。殆どの巡礼者はビンガムの1911年の旅について聞かされている。しかしその同じ探検隊が、主要な他のインカの遺跡についても発見している事は殆ど知られていない。それらの遺跡は、彼の最も有名な歴史的発見に勝るとも劣らないものなのだ。マチュピチュを発見した後、更に重要な発見が待っていると確信していたビンガムは、数時間しかそこに留まらず、埋もれたインカの遺跡の捜索を続けた。彼の1911年の探検は、史上最も成功した探検の1つとなった。数百平方マイルの範囲内で彼は、かつてのインカの首都ヴィトコス(Vitcos)、それに最後のインカ王がスペインの侵略者に対して最終的な抵抗を試みたとされるジャングルの都市、エスピリツ・パンパ(Espiritu Pama)を発見した。1年後に戻ってきた彼は、ラクタパタ(Llactapata)を発見する。マチュピチュの西2マイルしか離れてない場所にある謎めいた衛星都市で、その役割は今もって研究中である。

今日、マチュピチュは継続中の考古学調査でごった返している。しかし同じ地域内の他の遺跡の回復作業は遅々としている。その為、訪問者はビンガムが発見した当時と殆ど同じ状態の古代歴史遺産を目の当たりに出来る。

今日においても、近代的なツーリスト道路を離れ景勝の道を通りながら、ビンガムと同じように遺跡に到着できないかと、私は考えていた。58歳のオーストラリア移民ジョンと、クスコに本拠地を置く探検用品店アマゾナス・エクスプローラの助けを借りて、私は正にそれを行う旅を企画した。私達の旅は、最も有名な遺跡から始める代わりに、クスコから始めて反時計回りに回ってゆく。最初の目的地は別の、やはり驚くべき遺跡だ。それはマチュピチュの裏口と言っても良いだろう。

ペルーでの典型的なマチュピチュ・パッケージツアーは1週間で終わる。しかしその旅程を2週間半に伸ばせる者、そして頑健な足を持った者であれば、この上なく幸福な孤独の中、ビンガムの最大の発見を唖然と見つめながら、約100マイルの、世界でも最も変化に富んだ美しい大地を通る事が出来る。(4月から10月にかけては、一番雨の少ない季節で、このような旅にうってつけだ。私達は10月に旅した。)何よりも良いのは、マチュピチュへ行く最も一般的な道、クスコからの鉄道とインカ・トレイルを避けるこの裏口ルートは、大群衆と殆ど完全に別れる事が出来るのだ。

マチュピチュを取り巻く見たことも無い脅威は、ロサンゼルスと大して変わらない範囲に存在している。しかしペルーの狂ったように変化に富んだ地勢と気象は、壮大で驚くべき多種多様な環境を提供している。「インカにおいては、氷河から羊歯の木まで、ほんの数時間の距離しか離れていない。」ビンガムは書いている。私の荷物リストには長袖シャツと共にマラリアの薬が含まれていた。

私達の殆どの目的地には便利な道が無いので、ジョンは荷駄を運ぶ為に6頭のラバと3人の牧童、それにコックからなる一隊を編成した。4人の男は全員、仲間内ではケチュア語(Quechua)、アンデス(とインカ)の言葉で話し、ジョンと私にはスペイン語で話した。私達はクスコから西へ車で進み、寂れた町カチョラ(Cachora)でラバを調達した。

最初の宿泊地、チョケキラノ(Choquequirano)へと向かうジグザグの道は、わずか20マイルだが、殆ど1マイルの深さのキャニオンを超えなければならない。ガイドのジョンはツアーの案内をしていない時はアンデスを歩いて、コロンブス以前の時代の遺跡を探して回っている。彼はこの旅を「ナイス・ウォーク」だと言った。そして最初の数時間、私達が標高1万9千フィートの雪を被ったパドレヨク山(Mount Padreyoc)へ向かってなだらかな上り坂を行く時、正にそれはナイス・ウォークだった。その後道は急な下りになり、アプリマック河(Aprimac River)を横切って、殆ど垂直、5000フィートのスイッチバックとなる。私達は度々、土で覆われた橋を渡って小さな峡谷を横切った。2日間と言うもの、私はジョンの不動のペースに着いて行く事に集中するあまり、全く景色に注意を払わなかった。

それでもとうとう3日目に私達がチョケキラオ遺跡に入った時、私は今までの努力が払うに値するものであったことを悟った。マチュピチュと同じように、美しい石のテラスが芝生に覆われたメインプラザへ階段のように続いている。最も重要な建造物は開かれた緑の広場の周りに注意深く配置されている。ジョンと私は、切妻作りの建物の間を穏やかな気持ちで歩いた。その建造物の隙間にはミイラや聖像が安置されるようにデザインされていた。チョケキラオの石造建築物はマチュピチュの最上の寺院のように、レゴで作ったような正確さは持っていない。しかし暖かい山の照り返しに浮かび上がるその姿は全体的により親しみやすさを感じさせる。ここに住んでいた人々が容易に想像できそうだった。

ビンガムが到着したとき、チョケキラオは既に土地の人々に良く知られた存在だった。しかしその近づきがたいロケーションと大きさは(マチュピチュの主要な遺跡はおそらく20エーカーほどのコンパクトなサイズに納まっているのに対し、チョケキラオは数百エーカーに広がっている)、周囲の深い森から町を発掘してオリジナルな輝きを取り戻す作業の妨げと成っている。(私達のチケットをチェックした政府担当者は、インカの時代に存在した町で現在見ることが出来るのは、わずか20%から30%のみだと推計した。)

「全てが明らかになれば、チョケキラオはおそらく、世界で最も驚くべき考古学サイトとなるだろう。」ジョンは私にそう言った。

何年にも渡る発掘で、既に幾つかの注目すべき発見が成されている。最も新しいのは2005年に発見された一続きの広大な農業用テラスだ。テラスはそれぞれラマのモチーフで装飾されている。部分的に掘り出された遺跡を歩いていて私は、50年前発掘中だったマチュピチュは正にチョケキラオのように見えただろうと思った。私達の牧童頭ジュヴェナル・コボス(Juvenal Cobos)は1950年代に学校の遠足でマチュピチュに行ったことがあるが、私の考えを裏付けてくれた。

ビンガムが後に書いているように、彼はメインプラザの直ぐ上の峰に登り、正にこの場所の景色を見下ろし、ラドヤード・キプリングの霊感的な詩、「The Explorer(探検者)」の一節を思い浮かべた。「Some thing lost behind the Ranges(山並みの向こうに失われた何かがある)/ Lost and Waiting for You. Go!(失われしもの、それはお前を待っている。行くのだ!)」最終的に自分をマチュピチュへ導いたのは正にその瞬間だったと、ビンガムは書いている。

最初にそれを読んだ時は、少し馬鹿げていると思った。しかし同じ場所によじ登ってみたら、正にそれは無限の彼方まで見晴るかせるかのような眺めだった。山並み、氷河、河、緑深い谷が遥か彼方まで広がっている。私は頭が痛くなりそうだった。そして私は、その広大な地域を足でカバーする事になるのに気が付いた。一寸の間、エアコンの利いたバスでマチュピチュへ運ばれるのを、並んで待っているツーリスト達が羨ましかった。

チョケキラオを北へ向かって出発する時、ジョンは計算をした。マチュピチュに着くまでに私達が登ったり降りたりする距離は、海面の高さからエベレスト山を登って降りてくる距離と同じだと。「私を信頼してくれ。君の足は数日で慣れるさ。」彼は私に確約した。そしてヴィトコスへ行くローラーコースターのような4日間の道中、直線距離で25マイル、歩いて40マイルの間に、本当に私の足は慣れた。

ヴィトコスへ向かう途中、私達の旅程の中間地点を過ぎると、方向を示すサインやツーリズムの痕跡は消えて無くなる。何回か朝に学童の小さなグループに出会った。学童達の何人かは学校のスープ昼食で使う薪を運んでいた。

北へ進むにつれ私達の旅には自然なリズムが生まれた。ジョンと私は夜明け前に目覚める。その時ラバ隊は既に1時間以上前に起きている。彼らは私とジョンが朝食を食べている間にテントを片付け、荷物をラバに乗せて先発する。その後、私達は一定のペースで追いかける。次の合流地点に到達するまでに、彼らは2人分の昼食をテーブルに容易しておく。

夕方、太陽が山の向こうに隠れると、気温は急降下する。ロウソクの明かりに照らされたテントの中では、いつも忙しいコックのジュスト・スチリ(Justo Suchli)が伝統的アンデス・シチューをふるまってくれる。冷たい外気を切り裂く、ピリッとした新鮮なアジ・ソース(aji sauce)を使ったシチューだ。ジュヴェナルの家族は何十年も探検家や旅行者の案内をしている。彼は時折、ラバの扱い方の手ほどきをしてくれた。

ヴィトコスへ後10マイルほどのある夜、私達は狭いフィヨルドのようなキャニオンで寝ていた。その険しい崖の上には、イースター島の巨大なモアイ像に奇妙なほど良く似たゴツゴツした花崗岩の塊が乗っていた。ジュストは私達を午前4時に起こしマグカップでコーヒーを飲ませてくれた。私達は早く出発しなければ成らなかった。そこは予測不能な小型暴風雪で知られた場所で、私達が朝の内に抜ける予定の道、1万5千2百フィートの山道は10フィートの積雪で埋まってしまうかも知れなかった。そしてそれに続く道はまるで小規模な(10フィートの高さしか無い)万里の長城のような道だ。その道は実は、オリジナルのインカ・ハイウェイの中で最良の保存状態を誇る部分、かつてはチョケキラオとヴィトコスを結んでいたロイヤル・ロードの遺跡だ。頬一杯に含んだコカの葉が、慈悲深くも雪の無い道を行く間、私を高山病から遠ざけてくれる。そこから私達は高さにして3千5百、インカの階段を通って降下する。数時間かけてラバを降りさせ、50°Fの温度上昇を得る。2日間の間、私達は土を見なかった。

インカの建築家達は壮麗な入り口に特技を発揮する。ヴィトコスへ向かう道は彼らの代表作であるだろう。長くて狭い道が巨大な石造建築、おそらくはかつての宮殿へと導いてくれる。その道からは連なる山並みがあらゆる方向に見え、世界最大の円形劇場の舞台へ登ってゆくかのような感覚を訪問者に起こさせる。

宮殿へ向かう石造りの道は、ペルーで並ぶもの無きインカ帝国石造建築の実例ではあるが、ビンガム、それに私が、ヴィトコスへ来たのはホワイト・ロックの為だった。それは素晴らしい彫刻を施されたキャンピングカー大の花崗岩の巨石だ(現在は灰色の苔に覆われている)。ビンガムはその岩が17世紀のスペインの年代記で触れられているのを見つけ出している。そしてその岩が失われたインカの都市、ヴィルカバンバへ導いてくれると考えていた。私はその岩が、正にビンガムが撮った1911年の写真の通りで有る事を見つけて喜んだ。抽象的な幾何学模様が岩の東側に彫られていて、裏側は滑らかな段に切られている。おそらくは祭壇であったと思われる。まるでモダニストの異邦人が緑豊かな大地に落として行ったかのようだ。

ヴィトコスから私達は、険しい30マイルの下りを始める。下り坂だ。その昔、ジャングルの中に建設された古代都市エスピリツ・パンパ(Espiritu Pampa)へ向かうのだ。「上のほうはアンデス」ジョンは後ろを手で示しながら言った。私達が、ぐらつく吊り橋を渡っている時だった。「下の方はアマゾンさ。」汗ばむ3日間を通して、私達はぬかるんだ盆地を横切り、強い風で倒されそうに成りながら峡谷を登り、緑色の塩水の池が点在する霧がかかった人気の無い一帯を通り抜けた。道は急速に下ってゆき、辺りの環境はいっきにジャングルへと変貌した。ジョンは頻繁に山刀を抜き、枝葉で覆われる道を切り開いた。

私達は長く曲がりくねった石段を下ってエスピリツ・パンパへ入った。その石段は、今や熱帯雨林の緑に覆われたゴーストタウンへと下りてゆく石段だ。そこは1572年スペイン人征服者達に攻撃された時、インカ人が急いで放棄した都市で、時の中で凍りついたかのようなゾッとする感じを持った場所だった。中央プラザの上には巨大なイチジク属の常緑樹マタパロ・ストラングラー・フィグ(matapalo strangler fig)がそびえている。その葉っぱは、いまや倒壊し、ただの盛り上がりとなった石造建築へ降り注ぐ日の光を遮っている。丸い石の山、ジョンの推測ではたぶんインカのスリングショットの弾であろう石の山が、おそらくは5世紀の間、手を付けられずに残っている。

エスピリツ・パンパの、殆ど必要最小限の物しか無いキャンプサイトでは、男達が壊れた陶器の破片や、その他最近発掘された工芸品を忙しそうに磨いている。それらによって何時の日か、インカの謎に包まれた最後の日々の情報がもたらされるかも知れない。ペルーの他の場所では、新聞がイェール大学に対する国の訴訟の行方を追いかけている。ビンガムが1912年にマチュピチュを再訪した際、持ち帰った工芸品の返還を要求しているのだ(2010年11月、交渉はペルーが満足する形で妥結した)。

エスピリツ・パンパでは、土地に馴染みのある考古学者ジャビエル・フォンセカ(Javier Fonseca)率いるチームが、マチュピチュでビンガムが発見したのと同じくらい印象的な品を定期的に発見している。私達が、かつて太陽神殿だった壁の内側に立っている間、フォンセカ氏の助手の1人が屈みこんで、プラムくらいの大きさのインカのポットの取っ手、ピューマの頭の形をしたものを掘り出していた。エスピリツ・パンパに足りない唯一のものは訪問者だった。その場所はマチュピチュから西へ40マイルの凸凹道で隔てられているだけなのだが、そこまで行く道程はとても困難なものだ。チョケキラオへ2度行くくらいの困難さ、それも窒息しそうな暑いジャングルの中をだ。その為か、過去10年間にビジター用の小屋に宿泊したのは1800人しかいない。

「私達は閑散期に来てしまったようだね。」私は空っぽのキャンプサイトへ戻る道すがらジョンにそう言った。私はその日はぐっすりと眠りたかった。翌朝は北へ向かって数時間のハイキングをして遺跡を抜ける予定だ。私達はランド・クルーザーに迎えに来てもらい、曲がりくねったダート道を12時間かけて東へ戻り、マチュピチュへ向う。

「実際、今は90年代よりも訪問客が少ないんだ。」ジョンは言った。「皆かつてより冒険的では無くなっているのさ。」

1911年、ビンガムはエスピリツ・パンパに2日しか滞在していない。厚いジャングルの枝葉の中に数件の興味深い石造建築が散らばっているのを見つけただけだ。彼は後にマチュピチュこそがヴィルカバンバ、失われた都市であると結論付けた。その推測は今日では、ほぼ確実に間違っていると判断されている。今日殆どの専門家は、古代都市はエスピリツ・パンパである事で合意している。

同じ専門家は、マチュピチュはインカで最も偉大な皇帝、パチャクテク(Phachacutec)の居城として1400年代中頃に建設されたと信じている。過去20年の間に、ヨハン・ラインハルド(Johan Reinhard)、考古学者にしてナショナル・ジオグラフィックス社の現地駐在探検家、1995年に2万7百フィートの高度で氷付けにされたミイラを発見した事で有名な人物は、一つの理論を考えた。その理論とは、インカ人が建築物を、マチュピチュでは特にそうだが、太陽や星の位置にあわせて配置したというものだ。ラクタパタ、私達の次の目的地でマチュピチュに行く前の最後の訪問地は、ラインハルド氏の理論への最適な実例を提示してくれると、ジョンは約束してくれた。

ラクタパタは「失われたインカの郊外」と呼ばれている。何故ならそこはマチュピチュから谷一つ隔てた場所にあり、ちゃんとした双眼鏡を使えばマチュピチュから見ることも出来るからだ。いつも駆り立てられていたビンガムは1912年、そこに数時間しか留まっていない。ジョンは私に、6月の冬至の日、南半球で最も昼が短くインカの暦で最も聖なる日に、ラクタパタのある回廊が、地平線上の太陽が昇る地点とマチュピチュの太陽の神殿を結ぶ線に、完璧に整列している様子を説明してくれた。インカ人は優れた技術者だったのだ。この目に見えない軸は偶然にできたものでは有り得ない。

「O.K。しかしこれは何を意味するのだろう?」私はジョンに尋ねた。

「これが意味しているのは、私達が見てきたサイトは別々に存在していたのでは無いと言う事さ。これらのサイトはビンガムが想像も出来なかったやり方で繋がっていたんだ。あんなに急いでいたビンガムには理解できなくても無理無いけどね。」ジョンは言った。「そしてたぶん私達は、依然としてその繋がりを完全には理解できていないと思う。」

歴史的聖地マチュピチュとラクタパタの間に横たわる峡谷、主要なサイトやインカ・トレイルを含む8万エーカーに渡る保護地へと歩いて降りた後、旅行者はマチュピチュへ向かう列車に乗ることが出来る。列車はウルバンバ河渓谷を縫って進む。あるいは私やジョンがしたように、後の口から滑り出て最後の6マイル、列車と同じ道を歩いて行く事も出来る。

私達は直ぐに混雑したツーリストタウン、アグアス・カリエンテス(Aguas Calientes)へ着いた。マチュピチュへの入り口となる町だ。2週間に渡るテックノロジー無しの静寂の後では、混雑したインターネット・カフェとか4人前サービススペシャルだとか、おみやげ物店とかは、私の神経に障るものだった。次の朝、私達は2枚の切符を買ってバスに乗り込み、スイッチバックを繰り返すハイラム・ビンガム・ハイウェイを登って最終目的地を目指した。

最初に見るマチュピチュは、例えば冷蔵庫に付けるダビンチのマグネットでモナリザを何年も見た後に、本物を見るのと少し似ていたかも知れない。どんな景色であるのか正確に知っている。しかし同時に実物が予想を上回る物で有る事を信じられないかも知れない。モナリザと同じように、マチュピチュは写真で見るよりもずっとコンパクトだ。ジョンと私は1時間も経たない内に、ビンガムが100年前に見た主要な遺跡を、彼と同じ順序で訪れる事が出来た。王家の陵墓の洞穴、その内壁は溶けたように見える。完璧なカーブを成す太陽の神殿。ビンガムが呼ぶところの「男の身長より高い一つ目巨人のブロック」で作られた、聖なるプラザの巨大な構造物。そして主要な遺跡の直ぐ上に置かれている謎めいたインティフアタナ石(Intihuatana stone)。その周りでは神秘を求める訪問者の一団が、花崗岩が放つどんな振動でも吸収しようと、手を伸ばしながら立っている。昼に成って列車でやって来る日帰り客が着くと、ジョンと私は太陽の門(Sun Gate)から外へ行く長い道へ出た。私達はキノア・エネルギー・バーをかじりながら、ツアー客が進んだり止まったりを繰り返しながらマチュピチュの古代の石段を上り下りしているのを眺めていた。午後3時になるとクスコへ向かう客は、まるで浴槽の中の水のように、出口から消えていった。私達はさらに2時間、5時30分の最終バスに乗るまで、主要な遺跡を歩き回った。

旅の最後の朝、依然として群衆に馴染めない感覚を抱えながら、私はジョンに尋ねた。マチュピチュでビンガムが見た物で、殆どの人が訪れようとしない場所を知っていないかと。

「正にそういう場所を知っているよ。」彼はためらいもせずに答えた。「マチュピチュ山さ。」

1640フィートの石段を登るなんて事は、普通バケーション中にやるような事では無い。しかしマチュピチュ山の頂上、遺跡の上の緑豊かな山頂からの鳥瞰は、キプリングを引き合いに出すような男にとって圧倒的なものだった。その頂上に立てば、聖なるアパスがあらゆる方向へ広がっているのが見える。ウルバンバ河は曲がりくねりながらマチュピチュの周りを通り、アマゾンへと流れてゆく。混雑したインカ・トレイルさえ輝いて見える。私達はマチュピチュの中に捕らえられながら、100年前のビンガムと同じように、それを静かな心で鑑賞していた。

~~ここまで~~

次回更新は1月14日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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