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ミット・ロムニー氏の学生時代

ミット・ロムニーさんに関する記事をUpします。

記事を書いたのはジョディ・カンター(Jodi Kantor)さんです。元記事はここにあります。

ロムニーさんの学生時代の話です。

~~ここから~~

ハーバードの問題解決名人

ミット・ロムニーはハーバード・ビジネス・スクールを卒業してから数年後、あまり一般的でない方法で使い古された教訓を教える為に母校へ戻ってきた。

彼は仕事と家庭のバランスを取る方法をプレゼンテーションする為に招かれたのだ。それはまるで多国籍企業のようなんだと彼が学生達に話し始めたのを、イベントを組織したクレイトン・M・クリステンセン(Clayton M.Christensen)は覚えている。「君達はゼネラル・エレクトリックと同じ問題に直面する」、その当時若い父親で経営コンサルタントでもあったロムニー氏は言った。「君達の持っているリソースは時間と才能だ。どういう風にそれを配分する?」

彼は成長シェア・マトリックスと呼ばれる図を引いて、仕事、家族、教会など色々な活動を表す小さい丸をその中に描いた。時間を仕事に投資すれば具体的な成果を手にする事が出来る。昇給とか利益とかだ。

「君達の子供が何かを達成したと言う証拠を持って来るのはざっと20年後だ。」ロムニー氏は言った。しかしもし君達が充分な時間と労力を配偶者や子供に投資しなかったら、君達の家族は「ドッグズ(dogs)」になる。コンサルタント用語で会社のお荷物だ。家族はエネルギー、時間、幸福を君達から吸い取ってしまう存在に成るかも知れない。そのプレゼンテーションは好評だった。ロミニー氏は家族に捧げる時間の価値を感情からでは無く、収益から証明したのだ。

その日ロムニー氏は、自分自身の分析的推論に対する滑稽な程の品質保証を示した。そして彼は、正に自分がその手法を始めて獲得した場所へと帰ってきていた。彼は1971年から1975年の間に、法律と経営の学位を同時にハーバードで所得したのだ。

学校へ入学した当時、彼の父親ジョージ・W・ロムニーは共和党の著名人で、アメリカン・モーターズ・コーポレーションの社長を務めた後ミシガン州知事にもなっていた。最初の頃、家族やクラスメートや教授達によれば、彼はまだ自分の才能に自信が無かったように見えた。しかし卒業する時には、学校のスターであり企業から引く手あまたで、前に夢見ていたより、もっと大きなフィールドで活躍できると自信を持つ人物になった。彼は新たに二つのホームグラウンドを得た。マサチューセッツ州、後に彼が知事となった州と、金融業界、彼が最終的にその変革を助けた業界だ。

この年月は現在ロムニー氏がどんな人物であるのかを照らし出す助けとなる。彼は今、共和党の大統領候補を目指しているが、核心的信念の無さを攻められている。かつては穏健派知事だったが、自分の見解を政治的ご都合主義であつらえるとも言われている。クラスメートや教授達によれば、ロムニー氏は約40年前ハーバードにおいて、分析的で非イデオロギー的な思考法を獲得した。それは彼の性質に合っていて彼の成功を助けた思考法だ。その当時、政治的、社会的な問題で様々な感情が沸きかえっていたキャンパスの中で、彼は意図的に政治から距離を置いただけで無く、大きなイデオロギー的枠組みや白熱するディベートからも距離を置いていた。

意欲を持ち、駆り立てられ、とてつもなく勤勉だった彼はハーバード・ビジネス・スクールの方法、世界をケース・バイ・ケースで捉え、自分自身の言葉で問題に接し、データを基にして提案をする方法を身に着けた。

ロムニー氏が得意とした授業では、「正しい」回答など無かった。正しい質問さえ無かった。どうやったら結果を改善できるかという毎日の研究があるのみだった。ミット・ロムニーは級友にとって、自分が調べた全ての状況の細部に精通し、顧客が望むものを提供する事に熱心な才能ある修理屋だった。

「ミットは、家庭とか教会とかを含まない外の世界の事について、決して感銘を与えるような夢想家では無かった。」級友のハワード・ブラウンスタイン(Howard Brownstein)は言う。「彼は相対主義者なのさ。現実主義者で問題解決屋なんだ。」

過剰な準備

1972年の秋、ビジネス・スクールでの最初の日、ロムニー氏は円形劇場のような教室の、自分に割り当てられた席に座り、教授から見えるように名札をスロットへ差し込み、そして落ち着かなかった。

彼のマーケッティングの教授、スチュアート・デブリッカー(Stewart Debruicker)はその学生、教室に座った他の者を唖然とさせる程の洗練された回答をする学生を注意深く観察した。「彼らのような者達は、とても伸びるだろうね。」彼は後に、教室でやはり父親と同じような反応を得ていたロムニー氏の長男、タッグ(Tagg)の印象と合わせて、そのように回想する。

ロムニー氏はその時既に、スタンフォードでも学んでいて、学部生としてブリガム・ヤング大学でも学んでいた、さらには、1年間ハーバード・ロー・スクールにも在籍していたが、そんな事はどうでも良かった。彼の父親はその当時、リチャード・M・ニクソン大統領の下で住宅都市開発庁の長官であり、クラスの全ての人間がロムニーの名前を知っていて、後に学生たちも知る事に成ったように、講師として呼ばれたマーケティングの天才が直ぐに注目した事とかも、やはり彼にとってどうでも良かった。次第に大きくなる不安感「それこそが、全ての物事に対する父のやり方なんです。父はめったに自信過剰に成りません。」若い方のロムニー氏、やはり最終的にハーバードM.B.A.を取得した息子はそう言う。「父はどんなものでも当然とは考えず、過剰な準備をするんです。」

そしてその過剰な準備こそ、ハーバードでの凝縮された4年間にロムニー氏が経営の学位と共に法律の学位も詰め込んだ理由であった。級友によれば、それは言わば、より多くのオプションと訓練を与えてくれる、成功の為の保険だった。大学を出たことが無い父親のジョージ・ロムニーは息子に法律の学位を強要した。一方「父が行きたかったのはH.B.S.(Harvard Business School)の方だったんです。」タッグ・ロムニーは言う。「僕らは冗談で、2人は妥協して両方とる事にしたと言っています。」

ミット・ロムニーは最初、父よりも華麗な教育を受けて、父のようになる準備をしているようだった。中西部へ帰って自動車産業のエグゼクティブになる事を考えていたらしい。G.W.R.のイニシャルが入ったお下がりのブリーフケースをキャンパスで持ち歩き、法科のプロジェクトが住宅政策に触れたときは父に電話し、自動車販売を規定する法律の条文についてレポートを書いた。(「大変良いできだった。図抜けてはいなかったがね。」インタビューに答えたデトレブ・F・ヴァッツ(Detlev F. Vagts)教授はそう評価した。「彼のリサーチは比較的容易なものだと感じた。」)

或る日の事、金融学の教授コリン・C・ブレイドン(Colin C. Blaydon)は円形教室の上の方に見慣れた顔が座っているのを見つけた。ジョージ・ロムニーが息子の授業に座っていたのだ。

ビジネス・スクールの1年後輩で、でかい風船ガムを膨らました姿で卒業アルバムに永遠に姿を留めたジョージ・W・ブッシュと違って、ロミニー氏は社交について限られた興味しか持たなかった。(2人は殆ど会っていない。しかしロミニー氏は後にアトランティック誌に語っている。もしブッシュ氏がその後「どういう道を進むか知っていたら、彼にくっ付いて離れなかっただろうね」と。)

そして10年以上後にハーバード・ロー・スクールに入ったバラク・オバマとも異なり、ロムニー氏は世界がどの様に動くか基本的な問いを発したり、社会や政治の話題を話すような人間でも無かった。キャンパスが、ベトナム戦争など最重要な問題を含む、激しい政治上の課題で脈動していた時、ロムニー氏はどのようにしてか、それらの話題を避けて過ごした。

「ミットの態度は、熱心に勉強して学問をマスターし、自分たちが学んでいることと関係ない政治や社会の問題に気を逸らされないようにしようと言うものだった。」ロー・スクールで勉強仲間だったマーク・E・マゾ(Mark E. Mazo)は言う。

その代わりロムニー氏は最高の成績を取る事にエネルギーを注ぎ込んだ。ビジネス・スクールの殆どの学生は、与えられるケースを消化する為にグループを形成する。しかしロムニー氏はクラスで最も目立つ学生で作る最強打線を組織した。「彼と僕は言ってたんだ。スーパースターを集めようじゃないかってね。」級友のハワード・サーキン(Howard Serkin)は言う。

毎日1時間、全て男性のグループは(その当時この教科には女性が少なかった)、教室の外にある半円形のテーブルに座り、それぞれが現在読んでいる素材について話し合った。それは互いを守るための行いでもあった。なぜならグループの誰でもが授業中に質問される可能性があり、その出来栄えは成績に影響するからだ。メンバーによると、ロムニー氏はチームのキャプテンとして振る舞い、メンバーのやる気を鼓舞していた。

「彼はオールAを取ろうとしていた。」サーキン氏は言う。「彼は僕らのグループが1番である事を欲した。」時々ロムニー氏は早く到着してより多くの時間勉強するように仲間を駆り立てる事があった。もし仲間が準備不足だった時、「彼は遠慮なく言うんだ。『君は僕たちの足を引っ張っている。僕たちはベストに成りたいんだ。』ってね。」サーキン氏はそう付け加えた。

学生達はハーバード・ビジネス・スクールの教育の際立って独特な一面を体験しつつあった。あらゆる授業で、それこそ会計学でも、教科書は無かった。マネージメント理論も無かった。学校が保持する膨大な事例があるのみだった。現実世界の企業が置かれた状況に関する1ページのサマリーだ。

ケース・スタディ・メソッドは「理論から始まるのでは無かった。原理でさえ無かった。」後にこの学校の学部長となったロムニー氏の友人、キム・B・クラーク(Kim B. Clark)は言う。「始まり方はこんな風さ、『いいだろう、何が起きている?データは何を語っている?』」

それぞれの事例は質問さえ提示していない。学生達は、しばしば短文しか無い事例を研究し、企業の問題点を探り当て解決法を提示する。「ケース・スタディ・メソッドは例えて言えば医者を鍛える時に、健康な人間がどう見えるかを教科書で教えるのでは無く、実際に病気の患者を診察させながら鍛えるやり方に似てるだろうね。」級友だったブラウンスタイン氏は言う。

ロムニー氏は本領を発揮していた。彼の授業での出来栄えは突出していた。同期の学生は彼の事を正確で説得力があり、カリスマ的だったと言っている。彼は自分の欲する優秀な成績を手に入れた。成績優秀者へ送られるジョージ・F・ベーカー・スカラーを獲得し、ロー・スクールでも同じような名誉を得て卒業した。

教育は「彼の持って生まれた天性である問題解決者としての才能を伸ばしたんだ。データと事実を使って身を立てる人物に成ったのさ。」クラーク氏は言う。しかし彼は又、他の学生よりも有利な点も持っていた。父親と議論して過ごした多くの時間はトップ・エグゼクティブの生活がどのようなものであるかを彼に見せたのだと、後にハーバード・ビジネス・スクールの教授となった友人、スティーブン・C・ホイールライト(Steven C. Wheelwright)は言う。

社会的な隔絶

ロムニー氏が大学の知的な世界に溶け込んでいたとしても、彼は社交的な世界からは距離を置いていた。彼は学生時代に結婚し父親となった。彼と妻のアン・ロムニーは、1973年のビニネス・スクールのクラムベイク・パーティーの写真に、お揃いのセーターを着て膝に二人の子供を乗せて写っている。ケンブリッジのようなリベラルな土地柄の中で2人は、「まるで大平原のど田舎から出てきたみたいだった」とブラウンスタイン氏は言う。

未来の州知事は他の多くの学生がやる様なことをしなかった。コーヒーやアルコールを飲んだり、悪態をついたり、タバコをふかしたりといった事だ。(ブラウンスタイン氏の記憶では、彼は時々、ダバコを吸っている人の周りで少し咳き込んで見せて、自分の不満を上品に知らせていたらしい。)級友は、ベルモント郊外にある小奇麗なロムニー家を訪ねた時、まるで自分達と同世代では無く、友人の両親の家を訪ねたような気がしたと言っている。若い2人の最も親しい友人はモルモン教会の仲間であったようだ。

ロムニー氏を良く知っている数人は、彼の信仰がハーバードにおける成功を助けたと考えている。彼はやがてボストンの教会のリーダーとなる。フランスで行った2年間の布教活動は彼にセールスマンシップとリーダーシップを身につけさせたと、モルモン教徒仲間であるホイールライト氏は言う。「偶然にもハーバード・ビジネス・スクールが求める一連の信条を、教会の活動で身につける事ができたのさ。それは又、成功するビジネス・リーダーが必要とする信条でもあるんだ。」彼は言った。

ロムニー家は外の世界の人間を彼らの世界へ歓迎した。時々勉強グループの面々を、毎週行う「家族の夕べ」、モルモン教徒が伝統的に夫婦と子供で一緒に過ごす夕べへ、招待した。(ブラウンスタイン氏はロムニー夫人に地下室を見せてもらったのを覚えている。モルモンの風習に従って、一年分の食料を、瓶詰めにしたり冷蔵庫に保管してりして蓄えていた。)

ロムニー氏の人間関係は、教会メンバーとの間においてさえ、一つのパターンがあった。彼は協力的で熱心で信頼できたと、この当時の多くの友人が言っている。しかし彼は取り立てて解放的では無かった。不満を吐露したり乱暴になったりする事は彼のやり方では無い。

ロー・スクールの級友であるマゾ氏はある夜、ロムニー氏が、自分が来ているジャケットにキャンプ・デービッドのロゴが着いているのに気が付いて、しかめ面をしているのを見た。彼は大統領と父親との繋がりを自慢するかのような行動を、慎み深い友人達の前でしたくなかったのだろうとマゾ氏は推測している。

しかしおそらく、ロムニー氏が話題にしたく無かったのは、ニクソン政権での父親の苦い経験であったかも知れない。長年のライバルである2人は互いに嫌い合っていて住宅政策を巡って激突した。ミット・ロムニーの母親、レノーア・ロムニー(Lenore Romney)は、彼女が言うところの、大統領の夫への「軽視」や酷い扱いを説明する手紙をニクソンのアドバイザーに書き、助力を懇願しさえしている。

スポットライトが当たる場所で両親が苦闘しているのを見る事は、政治家の子供にとって古典的な試練だ。しかしミット・ロムニーは誰に対しても、どんな状況なのか殆ど何も話していない。彼は時として起きる勉強グループ・メンバーのからかいを我慢した。「もし君の父親が大統領になったら、もっと多く扉が開いて、君もそんなに一生懸命勉強しなくてもよかっただろうに。」

企業やエグゼクティブの役割は、ロムニー氏が育った古い時代のモデルから大きく変わりつつあった。彼はビジネスについて数多く語っている。1973年頃、経済はオイル危機の影響で沈みつつあった。しかし同時に、ビジネスは新たなテクノロジーを使うようになった。電卓がメインフレーム・コンピュータになり、今まで以上にデータをフルに使い分析をするようになった。

「彼はその中心にいたんだ。こういった変化がとてつもないチャンスをもたらしてくれると気が付いていた少数の人々の中心にね。」クラーク氏は言う。

ロムニー氏は法的な仕事を真剣に行おうと思ったことは無い。「彼がしたかったのは、お金を作り出す事、問題を解決する事さ。」以前の級友であるサーキン氏は言う。(ロムニー氏の世界でお金は『得点を付ける方法なのさ』と彼は付け加える。)

卒業の1年前、彼はボストン・コンサルティング・グループのリクルート・セッションに参加する。経営コンサルティングという新分野の小さな会社だ。スタンフォード・ビジネス・スクールの卒業生でモルモン教徒仲間のケネス・ウーリー(Kenneth Woolley)は、そのプレゼンテーションを指揮した人物だ。彼はその時、自分達の会社に入る事で学生達は「とても若い内に、とても高いレベルでビジネスの問題に取り組む機会を与えられる」と説明した。「25歳の時にC.E.O.レベルで問題を見ることが出来るんだ。」ロムニー氏は魅了された。数ヵ月後、彼はジョブ・オファーを得る。

今日、ロムニー氏は自分のビジネス・スクールの学位に対して多くを語らない。しかし彼は、何年も前に自分が集めたスター勉強グループと今でも連絡を取り合っている。5年毎に集まる男達の夕食会に律儀に出席し続けている。

小さなテーブルに集り、共に事例を研究するのは、ロムニー氏にとって最も居心地の良い事だったのだと、グループのメンバーで会合に欠かさず出席しているステフェン・M・ウォーターズ(Stephen M. Waters)は言う。ロムニー氏は2002年オリンピックの問題処理を担当していた時でさえ会合に参加した。彼は、国際オリンピック協会の会合でアテネに飛ぶ1時間前に顔を出している。

「まるで学生時代のケーススタディーみたいだった。」ブラウンスタイン氏はそう回顧する。ロムニー氏は同じやり方で問題を分析し、歳取った仲間達に5つの課題を上げ、それに対しどうするか説明した。

彼らは最近では2009年に会合している。ロムニー氏の大統領挑戦が失敗した後だ。旧友達は彼の体験について聴いた。彼は、ビジネス上の決断が政治的決断より遥かに単純である事を説明した。「ビジネス上の決断では重要にはなり得ないような事柄を考慮しないといけないんだ。」彼がそう言ったのをメンバーのロナルド・J・ナプレス(Ronald J. Naples)は覚えている。

~~ここまで~~

次回更新は1月21日ごろになると思います。
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Author:ゾノシン
英語の勉強の為に、ニュースサイトの記事を読んでいるうちに、面白さにつられて翻訳してみようと言う無謀な事を始めました。大変なので更新は一週間に一回位になると思います。どこまで続けられるか解かりませんが。

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